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第一章 出発(たびだち)

2-1  八歳

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「覚悟」の日からおよそ五年が過ぎた。明日、ぼくは、休暇を終えた兄様、姉様たちとともにカルターナに向かい、そこで学舎での生活を始める。

 ぼくの壮行のための晩餐も終わり、本宅でぼくのために用意された部屋で、タニアとともに出発の用意の仕上げをする。

「アンリ様、お持ちになる荷物はこれで全部でございますか?」

「うん、たぶん。なにか忘れてても、今さら取りに戻るのもめんどくさいし、まあなんとかなるでしょ。これまでもそうだったし」

「そうですか。まあ、なにはともあれ、これでアンリ様も屋敷からいなくなってくださるので、ようやくわたしもマリエール様付きのただのメイドに戻れます」

「そのさりげない邪魔者あつかいはやめて! それと、もともとただのメイドじゃないでしょ! 母様も絶対に、タニアをただのメイドと思ってないから!」



 いちおう、公式にはぼくは伯爵領を離れたことはない。そういうことになっている。だが、スーパーメイドのタニアさんは、転移魔法が使えてしまうし、各所に転送ゲートとなる魔法陣を持っている。十日間ほど山にこもって修行する、という名目で、伯爵領の外にときどきぼくを連れ出した。

なにをするかと言えば、戦争の現場をぼくに見せる、迷宮探索を体験させる、盗賊団を勝手に殲滅して隠していたお宝をかすめとって将来の軍資金の足しにする、魔族領に飛んで領内の様子を見学するついでにタニアの知り合いの魔族とサシで勝負する、等々。忘れ物云々は、こういうときの経験が念頭にある。

 いや、たしかにすげえ勉強になったよ。この歳で他の国を実際に見る経験なんて普通はできないし、領内で鍛錬したり勉強したりするだけでは絶対に得られない、ほんとうに「経験値」という言葉を実感できる体験だったよ。だけど、後ろのふたつ、盗賊と魔族はどう考えてもヤバいよね。実際死ぬかと思ったし。

 あ、ホントは迷宮探索も戦争の現場もヤバいか。ちょっとマヒしてきている自分がこわい。

 でも、迷宮はさすがに転生者としては夢に見たファンタジーで、はじめは少し心が躍った。飛び散る魔物(森にいる魔獣とは違う、魔素を生命活動の糧として取りこんでいる生物だ)の死骸で興奮はすぐに消え去ったけど。

 話がそれた。マリエールのことだ。もちろん、森から外に出るということは、マリエールにはいっさい伝えていない。ただ何日か留守にするということを伝えただけだ。そういうときのマリエールの答えはいつも同じ。

「いいわよぉ。タニアちゃんがいっしょならまちがいないし」

 タニアのことをどれだけ信頼しているのか。いや、信頼はしていても普通の母親なら心配ぐらいはすると思うのだが、毛ほども心配の気配を見せない。その圧倒的な高評価は、単なるメイドに対するものでは絶対にない。



「わたしは、わたしのできる範囲でアンリ様を鍛えてまいりました。成果についてもそれなりの自負はございます。ですが、これからのアンリ様にもっとも重要な、人を見てその真価を見抜く目については、残念ながら手つかずに近い状態です」

 まあ、そうだよね。伯爵領にいるかぎりは、会ったり話したりする人の数なんてたかがしれている。

「ですので、けっして学舎ではご自分の力のすべてを見せないようにしてください」

「え、どういうこと? そりゃ、できないとは思わないけど」

「人が自分の自然な姿を見せるのは、まわりに脅威が存在しないときです。常に周囲に紛れて他人に一切の脅威を感じさせない存在になることが、少しでも多くの人間の力をみる近道でございます」

 警戒心や競争心をかき立てる存在にはなるな、ということか。 

「それともうひとつ。アンリ様は今後歴史の裏舞台の住人にならねばなりません。ですが、いまのアンリ様の能力は、同じ年頃の子供の水準をはるかに超えています。どこかで『そういえば、学舎にアンリというなかなかできるやつがいた』などと思い出される対象になってしまうと、思わぬほころびになりかねません。その点を考えても、能力を隠す必要があるのです。」

「裏世界の住人、と言われているみたいでスッキリしないけど、納得した」



 たしかに、ここ一年ほど、タニアはおりにふれてぼくに「手の抜き方」を教えてきた。目の前の課題が自分のなにを試そうとしているのか、それをどれくらい達成すればどれくらいの評価が得られるのか。それを常に意識し、狙った評価を得ることを求めてきた。

 満点を取る力がなければ、思いどおりに評価を動かすことはできない、というのが、タニアが口を酸っぱくして教えこんだことだ。

「注目されるような成績、つまり良すぎたり悪すぎたりする成績を取らない。そして、剣術も魔法も力を隠す。どちらも授業は自由選択だから、不思議に思われようが選択しない。そういうことだね?」

「そうです。そして、ご自分を空気のように学舎の中に溶け込ませて、ひたすら他人を観察なさってください。おそらく、学舎でアンリ様がご自分の目的に沿う人材に巡り会うことは難しいでしょう。でも、それでよいのです。目の前の人間が、なぜ自分が口説くに足りないのか、そこを常に考えてご学友に接してください」

「わかった。頑張ってみるよ」

 ふう、意外とハードル高いな。まあ、八歳前後ですでに壊れている人間なんて、学舎にはあまりいないだろうし、壊れていたら学舎に来ないだろうしな。



「あとのことは、シルドラに任せてあります」

「誰それ!? それに、さっき学舎でやることはただひとつ、って言ったよね?」

「学舎では、でございます。学舎がろくな環境をアンリ様に用意できないことはわかっております。そのなかで手を抜いて生活するのですから、あっというまにアンリ様の能力は退化してしまいます」

 いや、なにも反論はできないんだけどさ、退化ってなにさ……。

「シルドラは、その昔、わたしが眷属にしたものです。なかなか目端がきくので、ふだんは各地をまわって情報収集をさせております」

「その情報収集って、ぼくのため?」

「ああ、いえ、ここ何年かは、それも重要な役割ではありますが、基本はわたし自身のためでございます。わたしもマリエール様のおそばに仕えるものとして、降りかかってくるあらゆる危険を承知する必要がございますから」

「ねえ、その危険なんだけどさ、それ、母様じゃなくてタニアに降りかかってくる危険なんじゃないかっていう気がするんだけど?」

「そういう見方もございますね」

「だめでしょ、それ! 早くなんとかしてよ!」

 ああ、頭が痛くなってきた。

「シルドラは、学舎においでの間のアンリ様のパートナーとしてうってつけかと。基本は斥候タイプですが、ほかの技能においてもアンリ様に大きくおくれをとることはないと存じます。暗殺術は明らかにアンリ様をしのいでおりまして……」

「そもそもぼく、暗殺術なんて学んだつもりないから!」

「シルドラをご自分の実力のバロメーターとなさるとよろしいかと。あとは、ご自分で使い方を考えてください。アンリ様の要望にはすべてこたえるように言ってあります」

「すべてって、それはおおげさでしょ?」

「すべてです。アンリ様がシルドラに死ねとおっしゃれば、特に理由をただすことなく自分の命を絶つでしょう」

「それ、おかしくないかなっ? 眷属って、いったいなんなの?」

「眷属だからといって、そこまで突き抜けていることは少ないですね。彼女も、いい感じに壊れているということです。わたしとシルドラの関係は、わたしのそばに仕えることを許すかわりにその存在のすべてを捧げる、という等価交換です」

 それを等価交換というのかどうかはともかく、タニアはぼくに、これからぼくが築いていく人間関係の、ひとつのあり方を見せてくれるのだろう。



「ときに、アンリ様は冒険者という存在をご存じですか?」

「いちおう、話としては知ってるよ。荒仕事もこなす何でも屋、って感じの人たちでしょ?」

 つとめて子供らしくこたえたが、じつは少し興奮した。転生者テンプレに裏切られ続けてきたぼくにとって、ひさびさに巡り会うテンプレワードだ。もしかして冒険者もやれ、ということかな。だとしたら、ちょっとワクワクするな。

「まあ、おおむねそんなところです。荒事がほとんどですが、視野を広げるためにも、人探しのためにもプラスにはなるでしょう。

「うん、うん、そうだね!」

「妙に乗り気ですね……。冒険者はそれなりにギルドによってきっちり管理されておりまして、登録は十二歳からですが、シルドラといっしょなら、なんとかごまかせるかもしれません。ただ、その辺で問題が起こるなら、闇ギルドでもいいかもしれませんね」

 ぼくはブンブンと首を横に振った。いきなり闇とか、ハードル高すぎだ。

「そうですか……。いずれにせよ、もろもろはシルドラと相談してください。ほかになにか、伺っておくことはございますか?」

「大丈夫……だと思う。いろいろありがとう」

「自分で申し出た助力ですので、お気になさらず。では、出発は朝早くとなりますので、早々にお休みください。わたしは、明日から待ちに待った本来の職務への復帰となりますので、これにて失礼いたします。もう心が躍ってしまって……」

「わかったよ! 悪かったね! おやすみ!

「はい、おやすみなさいませ」

 タニアは微笑とともに部屋を出て行った。言おうとして言いだせない、タニアへの感謝の言葉はいっぱいあったが、言わなかった。

「こういう幕引きにしたのも、タニアなりの配慮なのかな……」

 そんなことを考えながら寝台に横になると、ほどなくぼくは眠りに落ちていった。
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