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第一章 出発(たびだち)

4-16 応報(後)

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「リュ、リュミエラ姉様、どうして……」

「あらヘラさん、そんなに大きく口を開けてしまっては、おきれいな顔が台無しよ? それにはしたなくてよ。下々の方みたいだわ」

 えーと、だれですか、この人? どこかの悪役高飛車お嬢さまですか?

 驚きに包まれかけたヘラの顔が憤怒に染まる。うん、顔立ちは整っているが品格に欠けるね。それに、目がギラギラしすぎてるよ。

「ふ、ふざけないで! なんで姉様がここにいるのよ!? 姉様は……」

「奴隷に落ちてどこかで泥をなめているはず、とでもおっしゃりたい? さすがに大叔父様の自慢のヘラさん、なさることが垢抜けていらっしゃるわね。とてもわたくしには真似できませんわ」

 リュミエラはアゴをツンとあげてゴミを見るような目でヘラを見る。いつもの微笑ではなく、嘲笑というしかない笑みを浮かべている。ヘラは怒りに震えているが、うまく言葉が出てこないようだ。

「ねえシルドラ、あれは……」

 シルドラにそっと問いかけると、シルドラは激しく首を振った。

「わたしに話しかけないでほしいであります。わたしはいま寒気が止まらないでありますよ」



「あ、あの冒険者……」

 ヘラがやっとの思いでそれだけを口にした。

「ベルガモとやらのことかしら? 残念でしたわね、期待にこたえて差し上げられなくて。これに懲りたら、次からは身の程をわきまえた振る舞いをなさってはいかが?」

 ああ、空耳が聞こえる。「オホホホ」という高笑いが……。

 次の瞬間、距離を詰めたリュミエラが短剣をヘラの喉に突きつける。

「次はありませんけどね」

「やめて! やめなさい! このお腹には姉様の弟がいるのよ! わたしは姉様の母親になるのよ!」

「疲れてらっしゃるのね? あまり寝てないのではなくて?」

 リュミエラの目が鋭く光る。ヘラは本能的に自分の運命を悟ったようだ。

「た、助けて……」

「ああ、わたくしも少し前、ヘラさんと同じようなことをいいましたわね。わたくしはヘラさんのおかげでこうして生きておりますけど」

「許して、許してください……」

「ゆっくりお眠りになるといいわ。おやすみなさい」

 リュミエラは剣をそのままヘラの喉に沈めていった。



「あの、リュミエラさん?」

 無言で廊下に出たリュミエラに、ぼくはおそるおそる声をかけた。

「シルドラさん、早くこの場を! お願いですからぁ!」

「わ、わかったでありますよ」



 屋敷の敷地の外に転移したぼくたちは、少しその場を離れると、三者三様にため息をついた。一瞬の間の後、リュミエラが勢いよく頭を下げる。

「申し訳ありません! お見苦しいところをお見せしました!」

「いや、どこの高飛車お嬢さまかと思ったでありますよ」

「同感」

「あ、ああいう接し方をすれば気位の高いヘラが平静を保てなくなることがわかってましたので……ヘラはあれで頭が回る子なのです」

「それだけ?」

「お願いです、もう許してください……」

 リュミエラは真っ赤になって顔を手で覆う。

 わかった。実は彼女ははいままででいちばん腹を立てていたのだ。心の底の怒りとかではない、もっと表面的なところで腹に据えかねていたのだ。それで一度ヘラに精神的なダメージを与え、屈辱を抱かせたまま殺した。

 ただでは殺さない、というが、それを彼女なりに実践したのだ。



「これで望みは果たせたかな?」

「はい。これでリュミエラ・アンドレッティは悔いを残さず消滅いたしました。いまからは、ただのリュミエラとしていかなるご指示にも、いかなるお気持ちにも応えてご覧にいれます。どうかよろしくお願いいたします」

 優雅に膝をついて頭を垂れるリュミエラ。

「それじゃとりあえず、さっきのはときどきやってみせてくれるかな?」

「アンリ様、後生ですから……」

 彼女は顔を上げ、泣きそうな顔で懇願した。どうしてもなかったことにしたいらしい。はやくもぼくの気持ちに背いているのだが、これはきっと、ぼくが許さなくてもタニアが許してしまうな。たまにはご褒美だと思うんだけど……。

「アンリ様がなにを考えているかはわからないでありますが、だんだん危ないヤツになっているのはわかるであります」

 シルドラ、しばらくぼくは、おまえの食費はいっさい出さないからな。



「あ、そうだ」

 ぼくはわりと大事なことを思い出した。リュミエラ・アンドレッティが消滅するまえに考えなきゃならないこと。

「ベルガモはどうする?」

「リュミエラに圧倒されてすっかり忘れていたであります。まだ消滅してはいけないでありますよ」

 しかし、リュミエラはゆっくり首を横に振った。

「いえ、いいのです。たしかにわたくしが申し上げた『すべて』にはベルガモも含まれるのでしょう。ですが、わたくしのような素人には、いくら憎くても顔も知らない相手に対して、心の炎を長い間燃やしておくことはむずかしいようです。さきほどヘラを殺したとき、身体の熱が一気に引くのを感じてしまいました」

「それじゃ、勝手に見つけ出して殺ってしまってもかまわないでありますか?」

 突然シルドラが口を開いた。よく見せているちょっと緩んだような笑いとはちがう、酷薄さを含んだ薄い笑みを浮かべている。

「どうしたのさ、急に?」

「心残りというのは、意外と残っていることが本人にもわからないのでありますよ。この先、冒険者として生きていくことになるでありますから、どこでベルガモと出くわすかはわからないであります」

「わたくし、冒険者になるのですか?」

「そこでボケるでありますか……。リュミエラはどうやって生活していくつもりだったでありますか?」

「あ、そ、そうですね。お金が必要ですよね」

 とんでもないところで、リュミエラが高位貴族のお姫様だったことを再認識だ。生活するためにお金を稼ぐという認識をまだ持っていなかったらしい。

「まあ、アンリ様にたかるという道もないわけではないでありますが、この八歳児は中身はオヤジでありますから、そのうち愛玩奴隷のことを思い出してしまうでありますよ」

「ブホッ………!」

 なんということを言い出しやがりますか、シルドラさん! せっかくみんながその話を忘れていたというのに、ほら、リュミエラも真っ赤になっちゃってるよ。

「それはともかく、どこかで出くわしたときにくすぶっていた火が燃えはじめるたりすると、余計なことに時間と手間をかけなければならないであります。それくらいなら、顔も知らない今のうちにどこかで死んでもらっといたほうがいいであります」

 ま、それはもっともだね。リスクは早めにつぶしておくに限る。

「というわけで、これはアンリ様の訓練に使わせてもらうでありますよ」

「え、ぼく?」

「そうでありますよ。顔の見える相手を殺る訓練はそうそう積めないであります。いまはリュミエラのほうが経験豊富なのでありますよ」

 そういえばそうだ。顔の見える相手なんて、ぼくはマッテオしか殺ってないんだ。盗賊とか、カウントの外だからね。

「了解。情報収集は手伝っておくれよ?」

「もちろんであります」
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