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第三章 雄飛
8-3 タニアとテルマ(前)
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二日後には夏期休暇に入るというある四の日の午後、図書館に行くとベアトリーチェがこちらに向かって手を振っていた。逆はよくあるのだが、このパターンは珍しい。
閲覧室で話しこむのもなんなので、二人で外に出た。
「どうしたの?」
「あのね、改めてお礼を言おうと思ったの。今期はほんとうにいろいろありがとう」
「ぼくは何もしてないよ。ジルとセバスチャンさんに丸投げしちゃったし、ベアトに才能があるから、ジルたちも気合いが入ったんだろうしね」
「アンリくんがザカリアス様たちにお願いしてくれてなかったら、わたしはたぶん身体をこわしちゃってたと思う。時間に余裕が出来て、初めてそれに気づいたの。だから、やっぱりアンリくんのおかげ」
「じゃあ、その気持ちは受け取っておくよ。で、どういたしまして、かな?」
「受け取ってくれるのね? それじゃ、来期が始まる前に一度、わたしの家に来てくれる?」
「え?」
「言葉だけじゃ、わたしの気が済まないの。だめかしら?」
ベアトリーチェは、手を胸の前で組んで上目遣いで見上げる、という反則ワザを使いながら言った。
貴族にとって、自分の住居に他人を迎え入れるというのは、日本で考えるよりもはるかに重い意味を持つ。相手を懐に入れて、無防備な状態をさらさなければならないからだ。そうでなければ、逆に失礼にあたる。
いかに学友といえど、これはベアトリーチェの一存で決められることではない。すでにニスケス侯爵まで話はとおっているはずだ。つまり、ニスケス侯爵家からの招待として考えなければならない。受けるにしても断るにしても、あとあとに影響が残る。ぼく自身のことを考えても、実家のことを考えても、財務に大きな力を持つニスケス侯爵の招待を断ったという事実が良い方向に働くことはありえない。
加えて、ぼくは感謝の気持ちを受け取ると言ってしまった。とどめがこの反則ワザのポーズだ。断れるはずがない。
「ありがとう。喜んでご招待にあずかるよ。六の日から領地に帰るから、その後でお願いできる?」
「わかった。来期が始まる、少し前にしておくね。楽しみにしてるから」
彼女は極上の笑顔を浮かべ、手を振って図書館に戻っていった
ぼくは、学舎に入って以来、たぶん初めての完敗を喫した。ベアトリーチェはおそらく無意識で、自分の持つすべてを使ってぼくを動かしたのだ。ないとは思うが、意識してやっていたとすれば、それこそ末恐ろしい。きみは思っていた以上にすごい子だよ。
「アンリくーん、淋しかったよぉ!」
領地の本邸ではシャルロット様とマリエールが出迎えてくれたが、シャルロット様に挨拶をしようと思った矢先、アウグスト殿下とマルコがいる前でマリエールが思いっきり抱きついてきた。二人とも口をあんぐりと開けて固まっている。ちなみにぼくもだ。
「シャルロット様、どうぞ!」
ひとしきりぼくをカイグリカイグリしたマリエールは、固まったままのぼくをシャルロット様の方に押しやった。すると、こんどはシャルロット様がぼくを抱き寄せて、ボリュームたっぷりの胸に押しつける。
「アンリくん、お帰りなさい。ここにいる間は、こちらにも遊びに来てね」
「シャルロット様にアンリくんを少し貸してさしあげることになってるから、頑張って親孝行してね、二人分」
なんと、勝手に人身貸借が行われることになっていた。
本邸の方で、シャルロット様も交えて軽い夕食をとった後、ぼくはマリエールとマルコといっしょに別邸に引き上げた。アウグスト殿下は、ああいう人ではあるが皇家の人であることには違いないので、儀礼上最大級のもてなしが必要だ。よって本邸の方に滞在する。
別邸の方ではタニアが出迎えてくれた。こちらの方は、うかつに抱きついたりすると、予告なしで消滅させられそうな雰囲気だ。つまり平常運転である。
「すげえな、おまえんちのメイドの迫力」
マルコも、なにかが違うことを感じとったらしい。
ぼくが久しぶりの自分の部屋に落ちつくと、タニアがお茶を持ってきてくれた。
「アンリ様、お疲れさまでした。今回はわたしの訓練を受けるためにお戻りになったと考えてよろしいですか?」
「いやいやいや、マルコの付き添いとアウグスト殿下の補助だから! 最初は帰ってくる予定もなかったから!」
「そのふたつの件では、アンリ様がなさることはほとんどないかと存じます。空き時間を無駄にされるおつもりだとおっしゃいますか?」
「……わかりました」
そう答える以外に、ぼくにどういう選択肢があるだろうか?
「それから、昨日から街の『三匹の豹邸』に若い娘が三人滞在している、という噂が伝わって参りましたが、まさか、また?」
「三匹の豹邸」は、このあたりでいちばん大きな宿だ。たしかに、しょせんは地方都市のここに若い女性だけの三人組があらわれれば、非常に目立つだろう。たとえそのうちの一人が実は三百歳前後であってもだ。
タニアの問いには違うと答えたいが、ローラがいる以上、そうとも言い切れないのがつらい。
「それなんだけど、ちょっといまから外出できない? そのうちの一人はリュミエラで、残りの二人のうちの一人はタニアを知っている人なんだ」
「なるほど。なにやらあまり良い予感はいたしませんが、おつきあいいたしましょう」
タニアはぼくをともなって、屋敷の外に転移した。
閲覧室で話しこむのもなんなので、二人で外に出た。
「どうしたの?」
「あのね、改めてお礼を言おうと思ったの。今期はほんとうにいろいろありがとう」
「ぼくは何もしてないよ。ジルとセバスチャンさんに丸投げしちゃったし、ベアトに才能があるから、ジルたちも気合いが入ったんだろうしね」
「アンリくんがザカリアス様たちにお願いしてくれてなかったら、わたしはたぶん身体をこわしちゃってたと思う。時間に余裕が出来て、初めてそれに気づいたの。だから、やっぱりアンリくんのおかげ」
「じゃあ、その気持ちは受け取っておくよ。で、どういたしまして、かな?」
「受け取ってくれるのね? それじゃ、来期が始まる前に一度、わたしの家に来てくれる?」
「え?」
「言葉だけじゃ、わたしの気が済まないの。だめかしら?」
ベアトリーチェは、手を胸の前で組んで上目遣いで見上げる、という反則ワザを使いながら言った。
貴族にとって、自分の住居に他人を迎え入れるというのは、日本で考えるよりもはるかに重い意味を持つ。相手を懐に入れて、無防備な状態をさらさなければならないからだ。そうでなければ、逆に失礼にあたる。
いかに学友といえど、これはベアトリーチェの一存で決められることではない。すでにニスケス侯爵まで話はとおっているはずだ。つまり、ニスケス侯爵家からの招待として考えなければならない。受けるにしても断るにしても、あとあとに影響が残る。ぼく自身のことを考えても、実家のことを考えても、財務に大きな力を持つニスケス侯爵の招待を断ったという事実が良い方向に働くことはありえない。
加えて、ぼくは感謝の気持ちを受け取ると言ってしまった。とどめがこの反則ワザのポーズだ。断れるはずがない。
「ありがとう。喜んでご招待にあずかるよ。六の日から領地に帰るから、その後でお願いできる?」
「わかった。来期が始まる、少し前にしておくね。楽しみにしてるから」
彼女は極上の笑顔を浮かべ、手を振って図書館に戻っていった
ぼくは、学舎に入って以来、たぶん初めての完敗を喫した。ベアトリーチェはおそらく無意識で、自分の持つすべてを使ってぼくを動かしたのだ。ないとは思うが、意識してやっていたとすれば、それこそ末恐ろしい。きみは思っていた以上にすごい子だよ。
「アンリくーん、淋しかったよぉ!」
領地の本邸ではシャルロット様とマリエールが出迎えてくれたが、シャルロット様に挨拶をしようと思った矢先、アウグスト殿下とマルコがいる前でマリエールが思いっきり抱きついてきた。二人とも口をあんぐりと開けて固まっている。ちなみにぼくもだ。
「シャルロット様、どうぞ!」
ひとしきりぼくをカイグリカイグリしたマリエールは、固まったままのぼくをシャルロット様の方に押しやった。すると、こんどはシャルロット様がぼくを抱き寄せて、ボリュームたっぷりの胸に押しつける。
「アンリくん、お帰りなさい。ここにいる間は、こちらにも遊びに来てね」
「シャルロット様にアンリくんを少し貸してさしあげることになってるから、頑張って親孝行してね、二人分」
なんと、勝手に人身貸借が行われることになっていた。
本邸の方で、シャルロット様も交えて軽い夕食をとった後、ぼくはマリエールとマルコといっしょに別邸に引き上げた。アウグスト殿下は、ああいう人ではあるが皇家の人であることには違いないので、儀礼上最大級のもてなしが必要だ。よって本邸の方に滞在する。
別邸の方ではタニアが出迎えてくれた。こちらの方は、うかつに抱きついたりすると、予告なしで消滅させられそうな雰囲気だ。つまり平常運転である。
「すげえな、おまえんちのメイドの迫力」
マルコも、なにかが違うことを感じとったらしい。
ぼくが久しぶりの自分の部屋に落ちつくと、タニアがお茶を持ってきてくれた。
「アンリ様、お疲れさまでした。今回はわたしの訓練を受けるためにお戻りになったと考えてよろしいですか?」
「いやいやいや、マルコの付き添いとアウグスト殿下の補助だから! 最初は帰ってくる予定もなかったから!」
「そのふたつの件では、アンリ様がなさることはほとんどないかと存じます。空き時間を無駄にされるおつもりだとおっしゃいますか?」
「……わかりました」
そう答える以外に、ぼくにどういう選択肢があるだろうか?
「それから、昨日から街の『三匹の豹邸』に若い娘が三人滞在している、という噂が伝わって参りましたが、まさか、また?」
「三匹の豹邸」は、このあたりでいちばん大きな宿だ。たしかに、しょせんは地方都市のここに若い女性だけの三人組があらわれれば、非常に目立つだろう。たとえそのうちの一人が実は三百歳前後であってもだ。
タニアの問いには違うと答えたいが、ローラがいる以上、そうとも言い切れないのがつらい。
「それなんだけど、ちょっといまから外出できない? そのうちの一人はリュミエラで、残りの二人のうちの一人はタニアを知っている人なんだ」
「なるほど。なにやらあまり良い予感はいたしませんが、おつきあいいたしましょう」
タニアはぼくをともなって、屋敷の外に転移した。
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