鰭を無くしたマーメイドは

しぼりたて柑橘類

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第3話:鰭も爪先も無くとも

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 あれから二日経った。申鳥の部活の休みを見計らい、二人で市民プールに向かうことになった。市民プールとはいえ、室内温水プールなので外気に左右されずかなり快適だ。

 しかし、一つ問題があるとするならば。


 「……暑っつ」


 初夏の室内プールは、どこでも湿度100パーセント。ベンチに座っているだけで、溺れるほどの汗が吹き出る。裸で歩いても風邪をひかない想定の温度なのだから無理もないが、あまりに暑すぎる。特に靴が蒸れてとても辛い。

 私は額をタオルで拭いつつ、バタ足で戻ってきた女に声をかけた。


 「どう、水には慣れた?」

 

 ビート板をプールサイドに置き、ゴーグルを外して申鳥は笑った。


 「うん、割と!ビート板って持ってるだけでちゃんと浮くんだね!」


 にこやかに言いつつも、息を切らしている。普段は元気を持て余すこいつも、過負荷の全身運動は堪えるのだろう。


 「上出来。ちゃんとここは足つくし、力抜けば体も浮くから。忘れないで」


 「分かった!ちょっと休んでからもう一回行くね!」


 そう言ってスポーツドリンクをちびちび飲んだ。


 申鳥が泳げない理由を一言で言うなら、力みすぎだった。いかなる場合も力を入れすぎて、浮力を活かせず沈んでしまう。

 何事にも全力で取り組み要領を掴んできたのだろうが、水泳は最初に脱力を学ばなければならない。水死体のように水面に浮かんで腐っていた私とは正反対の理由で、すぐに解決の糸口が見つかった。ここまで来れば、じきに上達するだろう。そうなれば、いよいよお役御免だろうか。


 スポドリを飲みつつぼんやり考えていると、申鳥が私の足首を数度つついた。


 「暑くない?泳がない?」


 魅力的な提案だ。下に着ている水着の蒸れで死にそうだったから。しかし私の腹は決まっていた。


 「暑くないし、泳がない」

 

 端的に答える。向くべき道は見えるようになったし、今はそれに集中したいのだ。


 「せっかく水着着てるのにもったいない!泳げばいいじゃん!」


 「これはあんたが溺れた時のため。監視員さんが常にいる訳じゃないんだから」


 「えー遊ぼうよー!せっかく楽しくなってきたのに!」


 悪態をつかれず、否定もされないことに安心しつつ、あくまで冷静さは欠かさないようにした。


 「練習って言ったのに50mしか泳いでないでしょ?はい行った行った」


 「はーい」

  

 申鳥は口をへの字に結んだまま、バタ足で進んで行った。

 それを見送ってから目線を靴の先に向ける。脱いだところで白い目で見られないことも、申鳥は喜んですらくれることもわかっている。しかし、脱ぐ踏ん切りがつかない。靴を脱ごうとする度、手が震えるのだ。

 泥濘を脱するにはもう一息の力が必要らしい。


 さて、申鳥はすこぶる快調だ。青と黄色の浮きに囲まれたレーンの中で、大型の貨物船のような水飛沫をあげている。やはり飲み込みが早い。


 「掛川ちゃーん!どうー!?」

 

 申鳥は調子に乗ったのか、上手く片手でバランスを取り、振り返ってくる。慣れている人でも余程の体幹がなければ難しいので、見ているこちらがヒヤヒヤする。


 「危ないから前見ろー」


 私がそう言った瞬間、申鳥のビート板がレーンを仕切るブイに当たった。


 「あっ」


 断末魔めいた一言を残してバランスを崩し、ビート板が宙を舞った。ざばり、と貨物船は水の中に沈む。

 ほら言わんこっちゃない。だから前を向かないと危ないのだ。


 そう言って咎めようとしたが、そこに申鳥の姿は無かった。小さくあぶくが上がってくる程度で、浮上する気配がない。


 「……申鳥?」


 返事は無い。目の前の現象に、私の脳髄は瞬時に凍りつく。

 申鳥が溺れた。私を救ってくれた光が消えかけている。平静でいられるはずもなく、私の頭はたった一つのことに執着していた。


 助けなければならない。

 そう考えるや否や、反射的にTシャツを脱ぎ捨てる。


 しかし、溺れたのは私より頭一つ大きい女。対する私は爪先がなく、入院生活でごっそり筋肉が削げ落ち、バランスが取れずに溺れかけた体。あまりに分が悪い。


 だが、助けなければならない。

 泳ぐのには邪魔だ。ハーフパンツも脱ぎ去った。


 手が震える前に靴下に深々と手を突っ込み、靴を地面に転がした。

 私の両素足が、とうとう晒される。第三関節まで揃って失われ、深海魚の表皮のようになだらかだ。とても水かきの代わりになってくれるとは思えない。


 しかし、人間はわずか30cmで溺れるので、疑っている暇など無い。ほんの数分呼吸が止まっただけで、人間の脳には重篤な障害が生じるので、怯えている余裕などない。そして容易に死に至るので、迷っている時間などない。私の下卑た自尊心など、友人を助けるためなら捨てていい。


 私が行けば、いちばん早いのだ。


 25mレーンの区切られた一列。そのへりに足の腹をかけ、一息に飛び込んだ。


 耳を水が覆い、無音になった。水の中でいちばん早いのは飛び込みの瞬間だ。勢いを殺さぬよう、伸びやかに潜水する。


 しかし、どう泳いで行けばいい。得意のクロールはバタ足が大きくブレた。背泳ぎはもっとバタ足の作用が大きいしブレやすい。平泳ぎはそもそも苦手なので進まないだろう。


 ならば。


 両腕で水を押して伸び上がる。短い足先で揃えて、尾鰭のように漕ぎ進む。そして真っ直ぐ目の前を見据えて飛び上がる。


 バタフライである。


 リズミカルに足を打ち、水上に顔を上げて飛び上がる。なんだ、泳げるじゃないか。思いがけず口角が上がり、胸が躍る。ゴーグルをしていないのに、こんなにも水が輝いて見えた。


 そして飛び上がった瞬間に息を吸い、逆立ちのような格好で深く潜り込む。

 ぼやける視界で探すと、青く暗い水底にぼんやりと人影が見えた。あれだ、あれが申鳥だ。


 水底まで一気に降下し、手を体の下に滑り込ませる。抱き寄せるように体を密着させて、そのまま一気に立ち上がって頭を水面に出す。


 「──げほっ、げほっ!」


 顔を出すと同時、耳元でむせ込む声が聞こえた。良かった、呼吸はしている。私は申鳥の脇を抱え、浮きを挟ませて姿勢を安定させた。


 「どう、落ち着いた?」


 背中を擦りつつ問いかける。


 「ぜ、全然」


 息を切らしながら申鳥は返す。余程酷く溺れたらしい。まあ全身水に浸かっていたし、仕方ないか。


 「そう。じゃあとりあえず立って、落ち着いてから歩いて戻ろ」


 「ちがっ……ちがうくて……!」


 申鳥は数度深呼吸してから立ち上がり、私の手を掴んだ。ふやけたその手は、熱を感じるが小刻みに震えている。

 溺れたのがそれほど怖かったのだろうか。

 泳ぐのが怖いと思われていたら少し嫌だ。申鳥には楽しんで泳いでもらいたい。申鳥は純真で良い奴だ。怖がっていたとしても、楽しいところを見つけようと頑張ってしまうのではないだろうか。それは少し嫌だ。

 私は恐る恐る、申鳥の顔を見上げた。


 「……すっごい!」


 目を疑った。


 「えっ?」


 煌めく歓喜の視線が、私を貫いたのだ。


 「マーメイドじゃん、あんなの!すごい!あれ何!?めっちゃ綺麗!なんて泳ぎ方なの!?私もアレやりたい!」


 申鳥は凄まじい熱量でまくし立て、私の両手をブンブン振り回す。やられた、私の想像の三倍はこいつは純真だったらしい。

 わっ、と浴びせられた褒め言葉の嵐に、水の中だと言うのに頭が茹だりそうだ。


 「って言うか、せっかく掛川ちゃんも入ったんだし、一緒に泳ごうよ!あ、私ビート板もう一枚取ってくる!」


 「待って、一緒に行くから!また溺れるよ!?」


 バタ足で岸に戻る申鳥を、肝を冷やしながら私は歩いて追いかける。

 足の先でプールの底を感じて、ふと思う。

 

 「……マーメイドかぁ」


 確かに鰭も爪先も失った。だが、それでも私はマーメイドだったのかも知れない。




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