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本編
第四話 別れの支度
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◆◆◆◆◆
それは、思いのほかあっさりと告げられた。
「義周様は、来月より吉良家へお移りになります」
家老の口ぶりに迷いはなく、座の空気だけが、うっすらと重くなった。
庭では白椿が散り始めていた。
濡れた土の上に落ちた花は、柔らかな音をたてて潰れ、淡く色をにじませていた。
ふたりで並んで過ごした日々が、終わろうとしている。
◇
出立を翌日に控えた日の午後、義周は呼び出された。
案内されたのは、滅多に足を踏み入れることのない、上座の間だった。
畳敷きの奥、一段高く設えられた上段の床の間。その中央に、父――上杉綱憲が、几帳の前に正座していた。
着衣の襞ひとつ乱さぬ姿は威厳があり、義周はその姿に圧倒される。
「義周か」
綱憲の声は低く、重たかった。
何度か遠くから見かけたことはあるが、こうして言葉を交わすのは初めてのことだった。
緊張した面持ちで、義周は畳に膝をつき、深く頭を下げる。
「……吉良の家に入ること、承知しているな」
「は、い」
「我らの名を、そなたの振る舞いで背負え。……それが、吉良に入る者の覚悟だ」
それが餞の言葉なのか、義周には判別がつかなかった。
けれど、わかっていた。
父はこの場に、“親”としてではなく、“藩主”として座っているのだと。
綱憲はしばし黙り、視線だけを義周に落とした。
「吉良の家で恥をかくな。それだけだ」
義周は返事をした。けれどその声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
下がってもよいという合図はなく、やがて家臣に促されて義周は部屋を出た。
襖が閉じられると同時に、背の力が抜ける。
胸の奥に、何かがぽつんと取り残されたままだった。
――父上の顔を、私はもう忘れてしまうかもしれない。
◇
その夜、義周は吉憲と同じ寝間で休むことになった。
身分の違いから、いつも同じ部屋で眠るわけではなかったが、それでも時おりは互いの寝間を訪れ、肩を並べて眠ったこともあった。
だが――今夜が、きっと最後になる。
そう思うと、灯が落とされたあとも、義周は目を閉じられなかった。
兄の背中が遠く感じる。
ほんの数歩の距離なのに、なぜか、触れることができない。
「……兄上」
小さく呼ぶと、自分の声が頼りなく空気に溶けていく。
「行きたくないよ」
少し間があって、吉憲の声が布団越しに返ってきた。
「でも、向こうの家も、お前を待ってるんだ」
その響きに、あたたかさと冷たさが入り混じっていた。
義周は顔をふとんに押しつけた。
どうして兄は、そんなふうに受け入れられるのだろう。
「兄上は……あとで来てくれる?」
また間があった。
「……行けたら、ね」
嘘だと思った。
けれど、そう言ってくれたことだけで、十分だった。
◇
翌朝。
義周は布団の中でしばらくじっとしていた。
薄い明かりの差す寝間で、静かに身を起こす。隣の布団では、吉憲が眠っている。
「……兄上」
声をかけてみた。
けれど、返事はない。
吉憲は、身じろぎひとつしなかった。
義周は少しのあいだ躊躇したあと、静かに立ち上がる。そして、
兄と話すことなく、そっと襖を開けて、部屋をあとにした。
◇
義周が玄関に立つと、小さな荷物を渡される。
その中には、乳母がそっと忍ばせてくれた守り袋があった。
兄と同じ布で、同じ香を忍ばせた守り袋だ。
見送りに並ぶ人々の中に、吉憲の姿はない。
誰も理由を口にしなかったが、義周にはわかっていた。兄は、目の前で別れを告げることができなかったのだ。
駕籠に乗りこみ、屋敷をあとにする。
風が吹き抜け、背後で椿の花がまたひとつ、音もなく落ちた。
冬は、終わりに近づいていた。
◆◆◆◆◆
それは、思いのほかあっさりと告げられた。
「義周様は、来月より吉良家へお移りになります」
家老の口ぶりに迷いはなく、座の空気だけが、うっすらと重くなった。
庭では白椿が散り始めていた。
濡れた土の上に落ちた花は、柔らかな音をたてて潰れ、淡く色をにじませていた。
ふたりで並んで過ごした日々が、終わろうとしている。
◇
出立を翌日に控えた日の午後、義周は呼び出された。
案内されたのは、滅多に足を踏み入れることのない、上座の間だった。
畳敷きの奥、一段高く設えられた上段の床の間。その中央に、父――上杉綱憲が、几帳の前に正座していた。
着衣の襞ひとつ乱さぬ姿は威厳があり、義周はその姿に圧倒される。
「義周か」
綱憲の声は低く、重たかった。
何度か遠くから見かけたことはあるが、こうして言葉を交わすのは初めてのことだった。
緊張した面持ちで、義周は畳に膝をつき、深く頭を下げる。
「……吉良の家に入ること、承知しているな」
「は、い」
「我らの名を、そなたの振る舞いで背負え。……それが、吉良に入る者の覚悟だ」
それが餞の言葉なのか、義周には判別がつかなかった。
けれど、わかっていた。
父はこの場に、“親”としてではなく、“藩主”として座っているのだと。
綱憲はしばし黙り、視線だけを義周に落とした。
「吉良の家で恥をかくな。それだけだ」
義周は返事をした。けれどその声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
下がってもよいという合図はなく、やがて家臣に促されて義周は部屋を出た。
襖が閉じられると同時に、背の力が抜ける。
胸の奥に、何かがぽつんと取り残されたままだった。
――父上の顔を、私はもう忘れてしまうかもしれない。
◇
その夜、義周は吉憲と同じ寝間で休むことになった。
身分の違いから、いつも同じ部屋で眠るわけではなかったが、それでも時おりは互いの寝間を訪れ、肩を並べて眠ったこともあった。
だが――今夜が、きっと最後になる。
そう思うと、灯が落とされたあとも、義周は目を閉じられなかった。
兄の背中が遠く感じる。
ほんの数歩の距離なのに、なぜか、触れることができない。
「……兄上」
小さく呼ぶと、自分の声が頼りなく空気に溶けていく。
「行きたくないよ」
少し間があって、吉憲の声が布団越しに返ってきた。
「でも、向こうの家も、お前を待ってるんだ」
その響きに、あたたかさと冷たさが入り混じっていた。
義周は顔をふとんに押しつけた。
どうして兄は、そんなふうに受け入れられるのだろう。
「兄上は……あとで来てくれる?」
また間があった。
「……行けたら、ね」
嘘だと思った。
けれど、そう言ってくれたことだけで、十分だった。
◇
翌朝。
義周は布団の中でしばらくじっとしていた。
薄い明かりの差す寝間で、静かに身を起こす。隣の布団では、吉憲が眠っている。
「……兄上」
声をかけてみた。
けれど、返事はない。
吉憲は、身じろぎひとつしなかった。
義周は少しのあいだ躊躇したあと、静かに立ち上がる。そして、
兄と話すことなく、そっと襖を開けて、部屋をあとにした。
◇
義周が玄関に立つと、小さな荷物を渡される。
その中には、乳母がそっと忍ばせてくれた守り袋があった。
兄と同じ布で、同じ香を忍ばせた守り袋だ。
見送りに並ぶ人々の中に、吉憲の姿はない。
誰も理由を口にしなかったが、義周にはわかっていた。兄は、目の前で別れを告げることができなかったのだ。
駕籠に乗りこみ、屋敷をあとにする。
風が吹き抜け、背後で椿の花がまたひとつ、音もなく落ちた。
冬は、終わりに近づいていた。
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