【完結】兄弟愛ー吉良上野介の孫二人ー異聞ー

月歌(ツキウタ)

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本編

第十一話 すれ違い

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◆◆◆◆◆


義周よしちかは、ここ数日、落ち着かない心持ちでいた。

江戸に、兄・吉憲よしのりが到着した――その知らせを受け取った日から、義周よしちかの心はどこか上の空だった。

祖父・義央よしひさの前に正座していても、思いがふと兄へと逸れてしまう。

「このように、節会の礼は次第が肝要で……義周?」

「……えっ」

義央の声に我へ返った義周は、思わず目を見張る。

兄が将軍家への御目見得を控えて江戸に上がってきた。
その晴れの姿が目に浮かび――兄上は、どんな顔をしているのだろうと、心が浮ついていた。

「……申し訳ありません」

義周はすぐに頭を下げる。

「心をここに置かずして、礼は形ばかりのものとなる。違うか?」

祖父の声に怒気はなかった。
だが、静かに響いたその一言が、義周よしちかの胸の奥をじんと打った。

――心をここに置かずして、礼は形ばかりのものとなる。

襖を閉めて書院を出た義周は、そのまま足を引きずるようにして自室へ戻った。肩の力が抜け、膝の上に置いた手もぐったりと垂れた。

しばらくして、控えていた新八郎がそっと声をかけてくる。

「……いかがなさいましたか、義周様。お顔色が優れません」

その声音は、いつになく柔らかだった。

「……新八郎」

返す声は小さく、それでもぽつりとこぼれるように言葉が続いた。

「江戸にいる兄上のことが、気になって落ち着かないんだ」

その一言で、胸の奥に渦巻いていた思いがじわりとこぼれ出す。
自分でもどうにもならないような感情だった。

兄・吉憲よしのりは、将軍家への御目見得おめみえを控え、登城の準備に追われているという。
それは義周の耳にも、屋敷を通じて届いていた。

すぐに会えるわけではない。
登城が無事終わり、少し落ち着いた頃に、上杉家の江戸屋敷から挨拶へ訪れることもあるかもしれない。

だが、もし訪れたとしても、もはやあの頃のような兄弟の私語は交わせない。
それは痛いほど分かっていた。

ーー武家の跡継ぎとして生きる以上、互いに“形”を守らねばならぬ

誰に教えられたわけでもない。
それは祖父の背から、父の姿から、義周が自然と学んできた感覚だった。

礼のかたちに心を沿わせること――
それは、ときに己の情を殺すことでもある。

兄に甘えたい、抱きつきたい、名前を呼んで笑ってもらいたい――
そんな子どものような心は、もはや許されるものではないのだと。

(……私は、まだ“形”を守れるほど、強くない)

情が心に満ちれば、姿勢は乱れる。
声は震える。言葉に濁りが出る。

それは、吉良家の跡継ぎとしてあってはならない。
義周はそれを、誰よりもよく分かっていた。

けれど――

(……それでも。一目だけでも、兄上の晴れ姿を)

胸の奥に、小さな願いが灯った。

それは、どうしようもなく幼い想いかもしれない。
けれど、それがいけないことだとは思えなかった。

義周は、黙ってその場に膝をついたまま、うなずくように小さく息を吐いた。



その朝は、兄・吉憲の登城の日だった。

義周はそれを知っていた。

将軍・徳川綱吉への御目見得――
上杉家の嫡子にとって、初めて公の場へ立つ大切な儀礼だ。家中にとっても特別な日であり、その知らせは吉良家にも伝えられていた。

(兄上が、今まさに……)

そう思うだけで、義周の胸はざわついた。
だが、いつも通りの顔で、彼は屋敷を出る。
祖父から頼まれた品を届けるため、朝早くから外出していたのだ。

用は滞りなく済み、挨拶も終え、駕籠に戻り、帰路につく――
そのはずだった。

だが、通りの先に人だかりが見えた瞬間、義周の胸にまた何かが揺れた。
耳に届いたのは、ざわめき。視線の先には、翻る家紋。

(……あれは)

「……止まれ」

思わず口をついて出た言葉に、駕籠がぎし、と音を立てて止まる。

「どうされましたか、義周様」

すぐ傍を歩いていた山吉新八郎やまよし しんぱちろうが、驚いたように声をかけた。

義周は、戸を開けると顔を出し、新八郎を見上げた。

「……兄上が、今日、登城するのだろう? どうしても一目兄上の晴れ姿を見ておきたい」

その目は真剣だった。

新八郎は一瞬ためらったものの、やがて静かに頷いた。

「共をつけます。それでよろしければ」

義周の顔がふっと明るくなる。

「ありがとう、新八郎」

そうして義周は、護衛と共に人通りの多い大通りへと向かった。

町人たちがざわめき始め、やがて揃った足音と共に、上杉家の駕籠の列が近づいてくる。

(……兄上)

旗印の『竹に雀』の家紋が、風にはためく。 その奥に揺れる簾の中に、人の気配。

簾越しに顔は見えない。 それでも、義周には分かった。

あの駕籠の中に、間違いなく兄がいる。

声をかけたい。 名前を呼びたい。

だが、声など掛けられる場でもなく、駕籠はゆっくりと通り過ぎていった。

義周は、懐に忍ばせた守り袋まもりぶくろをそっと握りしめた。

その香りがふわりと立ち昇り、兄の駕籠へと届くような気がした。

「……兄上」

そのひとことが、ただ風に乗って、静かに流れていった。

新八郎が横に立ち、やがて口を開く。

「……そろそろ戻りましょう、義周様」

義周はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……ねえ、新八郎」 

「はい」 

「私は、兄上のように立派な跡継ぎになれると思う?」

新八郎は真っ直ぐな目で義周を見つめ、はっきりと答えた。

「もちろん。……日々、前を向き努力しておられます義周さまの姿を、新八郎は常に見ております。義周さまは吉良家の立派な跡継ぎになられますとも」

「……新八郎」

その言葉に、胸の奥がふっとあたたかくなる。

義周は懐の袋にそっと触れ、背筋をのばして歩き出した。

(……いつか、兄に誇れる立派な吉良家の跡継ぎになる)

その誓いを胸に、義周は静かに駕籠へと戻っていった。


◆◆◆◆◆
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