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本編
第十九話 松の廊下(下)
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◆◆◆◆◆
上杉家の屋敷へ戻るまでの駕籠の揺れは、吉憲にとってどこか遠い出来事のようだった。
将軍綱吉への拝謁は、夢中のままに終えた――はずだった。だが今となっては、そのすべてが朧に霞んでいる。
あの場で、何を口にしたか。どのように振る舞ったか。
頭は回らず、ただ膝が震えそうになるのを必死に堪えていたことしか覚えていない。
屋敷に戻ってからも、まだ身体の芯が強張っているのが分かる。
(部屋に着くまでは……)
そう自らを叱咤し、廊下を進む吉憲だったが――
ふ、と視界が白く揺れた。
「吉憲様……!」
すかさず伸ばされた腕に支えられ、吉憲の身体は傾いたまま、桐原の肩に預けられた。
「お怪我は……いや、失礼を。すぐにお部屋へ」
人目を避けるよう、桐原はそっと吉憲の腰を抱き、滑るように私室へと導いた。
障子が閉じられ、外の気配が遮断される。
畳に倒れ込むように身を横たえた吉憲は、息を荒げたまま天井を仰いだ。
「水を……いえ、薬湯を持て」
桐原が控えに命じ、すぐに香の立つ湯が盆に載せて運ばれてきた。
震える指で器を受け取った吉憲は、ようやく数口、喉を潤した。
胸の奥がじわりと熱を帯びる。
「……助かった」
そう呟いた声は掠れていた。
「今日のこと……うまく、こなせていたのか」
吉憲の視線は畳に落ちていた。
薬湯の器を見つめたまま、ぽつりと問う。
「俺は、変なことを口走ったりしていないだろうか。……何も覚えていないのだ」
桐原は、静かに頭を下げた。
「見事なものでございました。何ひとつ乱れはなく、御挨拶も、所作も、皆の模範と申してよろしゅうございます」
その声に、作りものの気休めはなかった。
吉憲は、ふと息を吐き、力が抜けるのを感じた。
「……そうか」
肩の力が抜け、背筋が畳に沈む。
けれど、心のどこかにまだ余韻が残っていた。
たしかな疲れと、安堵と、言葉にならぬ空白と。
そのとき、桐原がふところから懐紙を取り出した。そっと、吉憲の前に差し出す。
「何か甘いものをと考えまして――落雁でございます」
梅の花を形どった小さな白いかけら。それを見て、吉憲の瞳がわずかに見開かれる。
「……これは」
懐かしい、米沢でよく口にしていた味。
手を伸ばし、ひとつをつまむ。
舌の上でほろりと崩れ、静かな甘味が広がった。
「……変わらぬ味だな。まさか、江戸でこれが口にできるとは思わなかった」
「吉憲様がお好きと伺っておりましたので、あらかじめ手配しておりました」
穏やかな声が返ってくる。
もうひとつをつまみ、ゆっくりと口に含む。
「……ん」
思わず、表情が緩む。
「……何だ。見ておったのか」
笑みを見られたことに気づき、吉憲はそっぽを向いて顔を背けた。
わずかに頬が赤らんでいる。
だがそのままの姿勢で、言葉を続ける。
「気に入った。これからも取り寄せておけ」
「承知いたしました」
その返答を聞きながら、吉憲は再び仰向けになる。
障子の外、春の夕光がわずかに差し込み、室内にやわらかな陰影を落としていた。
その甘さと、温もりに包まれて、吉憲のまぶたが静かに閉じられていく。
◆◆◆◆◆
上杉家の屋敷へ戻るまでの駕籠の揺れは、吉憲にとってどこか遠い出来事のようだった。
将軍綱吉への拝謁は、夢中のままに終えた――はずだった。だが今となっては、そのすべてが朧に霞んでいる。
あの場で、何を口にしたか。どのように振る舞ったか。
頭は回らず、ただ膝が震えそうになるのを必死に堪えていたことしか覚えていない。
屋敷に戻ってからも、まだ身体の芯が強張っているのが分かる。
(部屋に着くまでは……)
そう自らを叱咤し、廊下を進む吉憲だったが――
ふ、と視界が白く揺れた。
「吉憲様……!」
すかさず伸ばされた腕に支えられ、吉憲の身体は傾いたまま、桐原の肩に預けられた。
「お怪我は……いや、失礼を。すぐにお部屋へ」
人目を避けるよう、桐原はそっと吉憲の腰を抱き、滑るように私室へと導いた。
障子が閉じられ、外の気配が遮断される。
畳に倒れ込むように身を横たえた吉憲は、息を荒げたまま天井を仰いだ。
「水を……いえ、薬湯を持て」
桐原が控えに命じ、すぐに香の立つ湯が盆に載せて運ばれてきた。
震える指で器を受け取った吉憲は、ようやく数口、喉を潤した。
胸の奥がじわりと熱を帯びる。
「……助かった」
そう呟いた声は掠れていた。
「今日のこと……うまく、こなせていたのか」
吉憲の視線は畳に落ちていた。
薬湯の器を見つめたまま、ぽつりと問う。
「俺は、変なことを口走ったりしていないだろうか。……何も覚えていないのだ」
桐原は、静かに頭を下げた。
「見事なものでございました。何ひとつ乱れはなく、御挨拶も、所作も、皆の模範と申してよろしゅうございます」
その声に、作りものの気休めはなかった。
吉憲は、ふと息を吐き、力が抜けるのを感じた。
「……そうか」
肩の力が抜け、背筋が畳に沈む。
けれど、心のどこかにまだ余韻が残っていた。
たしかな疲れと、安堵と、言葉にならぬ空白と。
そのとき、桐原がふところから懐紙を取り出した。そっと、吉憲の前に差し出す。
「何か甘いものをと考えまして――落雁でございます」
梅の花を形どった小さな白いかけら。それを見て、吉憲の瞳がわずかに見開かれる。
「……これは」
懐かしい、米沢でよく口にしていた味。
手を伸ばし、ひとつをつまむ。
舌の上でほろりと崩れ、静かな甘味が広がった。
「……変わらぬ味だな。まさか、江戸でこれが口にできるとは思わなかった」
「吉憲様がお好きと伺っておりましたので、あらかじめ手配しておりました」
穏やかな声が返ってくる。
もうひとつをつまみ、ゆっくりと口に含む。
「……ん」
思わず、表情が緩む。
「……何だ。見ておったのか」
笑みを見られたことに気づき、吉憲はそっぽを向いて顔を背けた。
わずかに頬が赤らんでいる。
だがそのままの姿勢で、言葉を続ける。
「気に入った。これからも取り寄せておけ」
「承知いたしました」
その返答を聞きながら、吉憲は再び仰向けになる。
障子の外、春の夕光がわずかに差し込み、室内にやわらかな陰影を落としていた。
その甘さと、温もりに包まれて、吉憲のまぶたが静かに閉じられていく。
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