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本編
第二十四話 吉良上野介の怒り
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◆◆◆◆◆
――儂は、いったいどんな過ちを犯したのだろうか。
何度も、礼を正し、言葉を選び、相手の面目を立ててきた。
高家の務めとは、そういうものだ。
目立たぬように、角を立てぬように、
形を丁寧に重ねて、世の秩序を“保つ”――その積み重ねが高家の役目。
怒りも、慢心も、すべて心の奥に封じ込めてきた。
なのに――
浅野。
なぜ、儂を斬ろうとした。
しかも、あの松之廊下で。
朝廷からの勅使を迎える、あの重要な日に。
そんな場で刀を抜くことが、どれほど重大な意味を持つか――あやつが知らぬはずもあるまい。
それでも、長矩は太刀を抜いた。
言葉もなく、礼もなく、問答もなく。
筋も通さず、理由も明かさず――ただ、斬りかかってきた。
……浅野殿は、乱心されたのだ。
儂は、そう言った。
そう言うしかなかった。
もしこれが乱心でなければ、長矩の行動は明確な意志に基づくものとなる。
つまり、儂に対する強い“恨み”に他ならない。
だが――儂は、あやつに何をしたというのか。
叱ったか? 嘲ったか? 笑ったか? 辱めたか?
……いいや。
儂はただ、礼を守っただけだ。
武家としての形式を、ただ守り続けてきただけだ。
それが、あれほどまでに憎まれることだったのか。
長矩は何も語らぬまま死を選び、
まるでそれが、儂の非を証明するかのように。
やがて世間はこう語るだろう――
「吉良義央は、浅野を辱め、斬られた」と。
では儂は……何を守ってきたのだろう。
何のために、あれほど多くの年月を、沈黙と形式に捧げてきたのだろう。
……
怒りはない。
ただ、胸の奥に、冷たいものが広がっている。
それは火のように燃えるわけでも、
氷のように鋭いわけでもない。
ただ静かに、深く、私を沈めていく。
長矩は、声を捨てて死んだ。
儂は、声を持ちながら、生きる。
いつか儂の命が尽きたとき――
儂の本当の思いを知る者などいるだろうか。
……いや、いない。
それでいい。
礼とは、理解を求めるものではない。
誤解されようとも、決して崩してはならぬものだ。
だから儂は、ただ立っている。
何も言わず、怒りもせず、
この形のままに――静かに、そこに在る。
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――儂は、いったいどんな過ちを犯したのだろうか。
何度も、礼を正し、言葉を選び、相手の面目を立ててきた。
高家の務めとは、そういうものだ。
目立たぬように、角を立てぬように、
形を丁寧に重ねて、世の秩序を“保つ”――その積み重ねが高家の役目。
怒りも、慢心も、すべて心の奥に封じ込めてきた。
なのに――
浅野。
なぜ、儂を斬ろうとした。
しかも、あの松之廊下で。
朝廷からの勅使を迎える、あの重要な日に。
そんな場で刀を抜くことが、どれほど重大な意味を持つか――あやつが知らぬはずもあるまい。
それでも、長矩は太刀を抜いた。
言葉もなく、礼もなく、問答もなく。
筋も通さず、理由も明かさず――ただ、斬りかかってきた。
……浅野殿は、乱心されたのだ。
儂は、そう言った。
そう言うしかなかった。
もしこれが乱心でなければ、長矩の行動は明確な意志に基づくものとなる。
つまり、儂に対する強い“恨み”に他ならない。
だが――儂は、あやつに何をしたというのか。
叱ったか? 嘲ったか? 笑ったか? 辱めたか?
……いいや。
儂はただ、礼を守っただけだ。
武家としての形式を、ただ守り続けてきただけだ。
それが、あれほどまでに憎まれることだったのか。
長矩は何も語らぬまま死を選び、
まるでそれが、儂の非を証明するかのように。
やがて世間はこう語るだろう――
「吉良義央は、浅野を辱め、斬られた」と。
では儂は……何を守ってきたのだろう。
何のために、あれほど多くの年月を、沈黙と形式に捧げてきたのだろう。
……
怒りはない。
ただ、胸の奥に、冷たいものが広がっている。
それは火のように燃えるわけでも、
氷のように鋭いわけでもない。
ただ静かに、深く、私を沈めていく。
長矩は、声を捨てて死んだ。
儂は、声を持ちながら、生きる。
いつか儂の命が尽きたとき――
儂の本当の思いを知る者などいるだろうか。
……いや、いない。
それでいい。
礼とは、理解を求めるものではない。
誤解されようとも、決して崩してはならぬものだ。
だから儂は、ただ立っている。
何も言わず、怒りもせず、
この形のままに――静かに、そこに在る。
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