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本編
第三十九話 冷たい眼差し
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◆◆◆◆◆
門前に駕籠が二つ並べられていた。
ひとつは祖母・富子のもの。そしてもう一つに、義周が乗り込むこととなっている。
出立の間際、富子が義周の方へ静かに歩み寄った。
「心得ておいででしょうね」
「……は」
「ならばよろしい」
ただそれだけの短い言葉を残し、富子は駕籠にゆるやかに乗り込んだ。動作は常のまま、落ち着き払っている。
義周は富子の駕籠が動き出すのを見送ったのち、無言で己の駕籠へと向かった。
新八郎が駕籠の扉を開くと、義周は、家の名に恥じぬよう、静かに身をかがめ、音もなく乗り込んだ。
◇
春の江戸の町は、明るく賑わっていた。
風に揺れる幟、焼き物の香ばしい匂い、笑い声と売り声が交錯する。けれど、その表層の華やぎの奥に、義周は確かに感じていた。
通りすがりの者たちが伏せる視線。避けるように遠巻きにされる駕籠。声にならぬ感情が、空気の中に刺さるように渦巻いている。
その時だった。
「ッ!」
駕籠の側板に、鋭く何かがぶつかった。乾いた音と共に、駕籠がわずかに揺れる。
「無礼者ッ!」
家臣の一人が叫び、前方へ駆け出す。
「若様、ご無事ですか!」
新八郎の声が駕籠の中に響く。義周は唇を引き結んだまま、何も答えなかった。
駕籠の隙間から外を覗くと、町の者たちが小石を投げた子供を囲い、逃げ道をつくっている。
「よくやった!」
「正義の石だ!」
まるで、吉良家にこそ非があるとでも言わんばかりの声。
家臣が子供を追おうと足を踏み出せば、町民たちは一斉にその前に立ちふさがった。
「子どもに何をする気だ!」
「卑怯者!」
(……この名を背負うだけで、これほどまでに)
喉の奥が焼けつくような痛みを覚えながら、義周は静かに声を発した。
「……構わず進め。上杉家へ向かう」
「若様……」
新八郎が思わず言いかけたが、義周はそれ以上何も言わなかった。
駕籠が再び動き出す。
◇
上杉家の江戸屋敷に到着したとき、義周は静かに駕籠を降りる。
門前に控えていた上杉家の家臣たちは、礼儀をわきまえて頭を下げはしたが、そのまなざしはどこか伏せがちで、言葉に出さぬ冷気を帯びていた。
(歓迎されていない――分かっていたことだ)
それでも義周は、高家の跡取りとして静かに歩みを進める。
そのすぐ前を歩いていた祖母・富子がちらりと義周を見た。
義周は思わず声をかけようとしたが、富子は小さく片手を上げてそれを制する。
何も語らず、ただその姿がすべてを伝えていた。
――動揺を、見せてはならぬ。
駕籠に石を投げられても、町に侮られても、上杉家に冷遇されても。
高家の正室として、女は毅然と歩く。
(私の方が……弱い)
情けなさが胸に湧きあがった。
今にも内心の言葉がこぼれそうになったその時――
「……義周」
屋敷の奥から、懐かしい声がした。
はっとして顔を上げる。
兄・吉憲が、こちらをまっすぐに見つめて立っていた。
その姿を目にした瞬間、こみ上げてきたものが胸をつき破りそうになる。
重く、冷たかった空気の中で、兄の存在が、義周の胸に光を落とした。
◆◆◆◆◆
門前に駕籠が二つ並べられていた。
ひとつは祖母・富子のもの。そしてもう一つに、義周が乗り込むこととなっている。
出立の間際、富子が義周の方へ静かに歩み寄った。
「心得ておいででしょうね」
「……は」
「ならばよろしい」
ただそれだけの短い言葉を残し、富子は駕籠にゆるやかに乗り込んだ。動作は常のまま、落ち着き払っている。
義周は富子の駕籠が動き出すのを見送ったのち、無言で己の駕籠へと向かった。
新八郎が駕籠の扉を開くと、義周は、家の名に恥じぬよう、静かに身をかがめ、音もなく乗り込んだ。
◇
春の江戸の町は、明るく賑わっていた。
風に揺れる幟、焼き物の香ばしい匂い、笑い声と売り声が交錯する。けれど、その表層の華やぎの奥に、義周は確かに感じていた。
通りすがりの者たちが伏せる視線。避けるように遠巻きにされる駕籠。声にならぬ感情が、空気の中に刺さるように渦巻いている。
その時だった。
「ッ!」
駕籠の側板に、鋭く何かがぶつかった。乾いた音と共に、駕籠がわずかに揺れる。
「無礼者ッ!」
家臣の一人が叫び、前方へ駆け出す。
「若様、ご無事ですか!」
新八郎の声が駕籠の中に響く。義周は唇を引き結んだまま、何も答えなかった。
駕籠の隙間から外を覗くと、町の者たちが小石を投げた子供を囲い、逃げ道をつくっている。
「よくやった!」
「正義の石だ!」
まるで、吉良家にこそ非があるとでも言わんばかりの声。
家臣が子供を追おうと足を踏み出せば、町民たちは一斉にその前に立ちふさがった。
「子どもに何をする気だ!」
「卑怯者!」
(……この名を背負うだけで、これほどまでに)
喉の奥が焼けつくような痛みを覚えながら、義周は静かに声を発した。
「……構わず進め。上杉家へ向かう」
「若様……」
新八郎が思わず言いかけたが、義周はそれ以上何も言わなかった。
駕籠が再び動き出す。
◇
上杉家の江戸屋敷に到着したとき、義周は静かに駕籠を降りる。
門前に控えていた上杉家の家臣たちは、礼儀をわきまえて頭を下げはしたが、そのまなざしはどこか伏せがちで、言葉に出さぬ冷気を帯びていた。
(歓迎されていない――分かっていたことだ)
それでも義周は、高家の跡取りとして静かに歩みを進める。
そのすぐ前を歩いていた祖母・富子がちらりと義周を見た。
義周は思わず声をかけようとしたが、富子は小さく片手を上げてそれを制する。
何も語らず、ただその姿がすべてを伝えていた。
――動揺を、見せてはならぬ。
駕籠に石を投げられても、町に侮られても、上杉家に冷遇されても。
高家の正室として、女は毅然と歩く。
(私の方が……弱い)
情けなさが胸に湧きあがった。
今にも内心の言葉がこぼれそうになったその時――
「……義周」
屋敷の奥から、懐かしい声がした。
はっとして顔を上げる。
兄・吉憲が、こちらをまっすぐに見つめて立っていた。
その姿を目にした瞬間、こみ上げてきたものが胸をつき破りそうになる。
重く、冷たかった空気の中で、兄の存在が、義周の胸に光を落とした。
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