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本編
第四十一話 一つの布
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◆◆◆◆◆
上杉家の江戸屋敷――その奥にひっそりと設けられた庭園は、江戸の喧騒から切り離されたように、静かで穏やかだった。
青葉が陽を弾き、若々しい緑が風にそよいでさわさわと揺れる。木漏れ日が苔むした飛び石にまだら模様を落とし、小川のせせらぎが涼やかに響いていた。
奥庭には、義周と吉憲、ふたりきりの静かな時間が流れていた。人払いはすでに済ませてある。
義周がこの庭を訪れるのは、今日が初めてだった。
上杉家の江戸屋敷には、兄が江戸に上る前、一度だけ挨拶に来たことがある。
けれど、あのときは客間に通されたきりで、庭を眺めることすらなかった。
それでも、石を配した池のかたちや、剪定された木々の枝ぶりが、どこか懐かしく思える。
「……似てるだろ?」
並んで歩いていた吉憲が、ふと呟いた。
義周は足を止め、隣にいる兄の横顔を見上げる。
「米沢の庭に。池の形が、少しだけ」
言葉に導かれるように、義周も視線を池の縁へと向けた。
波ひとつない水面に、青葉が静かに揺れている。
「……冬、氷が張ったとき、私が乗ろうとして落ちかけたことがありましたね」
「覚えてる。泣きそうになりながら、お前を引き上げた」
「でも、乳母に怒られるのを怖がっていたのは、兄上のほうでした」
義周が小さく笑いながら言うと、吉憲もふっと口元を緩めた。
「実際に怖かっただろ? 池から引っ張り上げようとして、俺も一緒に落ちて……」
懐かしむように目を細め、続けた。
「着替えをしてる間じゅう、乳母がずっと怒鳴ってた。まるで鬼みたいに」
「確かに……鬼のような形相でしたね」
顔を見合わせるふたりの間に、幼い日の記憶がよみがえる。
寒さに震えながら、ずぶ濡れで並んで立たされたあの日――
その光景が浮かんだのか、ふたりは思わず笑い合った。
ほんの一瞬、米沢の城で肩を並べていた幼い日の記憶が、音もなく甦る。
義周はそっと懐に手を入れた。
取り出したのは、小さな守り袋。 淡い色の布に、母の縫った糸が優しく絡んでいる。
向かいにいた吉憲も、同じものを取り出す。
母が作ってくれた、同じ布、同じ香り―― 今は別々の家に生きる身であっても、たったひとつの布だけが、兄弟の時間を静かに繋ぎとめていた。
「……父上は厳しいことをおっしゃっていたが、本心では義周のことを気にかけていると思う」
沈黙ののち、吉憲が静かに口を開いた。
義周は、その言葉にすぐには応じなかった。
「……そうでしょうか」
「義周」
「私は、あれが父上の本心だと思っています。昔から――父上にとって最も守るべきものは、常に上杉家で。血の繋がりに情をかけるような方ではありませんでした」
その声音に、悲しみや怒りはなかった。ただ静かに、事実を受け止めているように響いた。
視線は池の水面に向けられたまま、表情は変わらない。
風が吹き抜け、枝の葉をかすかに揺らした。
「父上がそうであっても……俺は違う!」
思わず、吉憲の声が強くなる。
「……兄上」
「俺は兄として、お前を守りたい。家の名も立場も、全部抜きにして……お前が、俺の大切な弟だからだ」
義周は手の中の守り袋を強く握りしめる。
離れていても、たとえ別の名を背負っていても。 今この時だけは、確かにふたりは兄弟だった。
「……兄上の気持ちは、ちゃんと伝わっています」
小さく微笑んで、義周がそっと言葉を返す。
「さあ、この話はもう終わりにしましょう。それよりも、互いの近況を話しませんか。楽しい話を」
「……そうだな」
「ええ、楽しい話をしましょう、兄上」
義周はそう言って、そっと微笑んだ。
声を張るでもなく、けれど確かに吉憲に向けられたその笑みに、兄も目を細めて頷く。
池の水面には、青葉の影が揺れていた。
控えめに咲いた白い花が、枝のあいだから顔をのぞかせている。
風が一筋、葉を鳴らして通りすぎた。
違う道を歩んでいても、忘れていないものがある――それはきっと、こんな静かな時のなかに息づいているのだと、ふたりはどこかで感じていた。
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上杉家の江戸屋敷――その奥にひっそりと設けられた庭園は、江戸の喧騒から切り離されたように、静かで穏やかだった。
青葉が陽を弾き、若々しい緑が風にそよいでさわさわと揺れる。木漏れ日が苔むした飛び石にまだら模様を落とし、小川のせせらぎが涼やかに響いていた。
奥庭には、義周と吉憲、ふたりきりの静かな時間が流れていた。人払いはすでに済ませてある。
義周がこの庭を訪れるのは、今日が初めてだった。
上杉家の江戸屋敷には、兄が江戸に上る前、一度だけ挨拶に来たことがある。
けれど、あのときは客間に通されたきりで、庭を眺めることすらなかった。
それでも、石を配した池のかたちや、剪定された木々の枝ぶりが、どこか懐かしく思える。
「……似てるだろ?」
並んで歩いていた吉憲が、ふと呟いた。
義周は足を止め、隣にいる兄の横顔を見上げる。
「米沢の庭に。池の形が、少しだけ」
言葉に導かれるように、義周も視線を池の縁へと向けた。
波ひとつない水面に、青葉が静かに揺れている。
「……冬、氷が張ったとき、私が乗ろうとして落ちかけたことがありましたね」
「覚えてる。泣きそうになりながら、お前を引き上げた」
「でも、乳母に怒られるのを怖がっていたのは、兄上のほうでした」
義周が小さく笑いながら言うと、吉憲もふっと口元を緩めた。
「実際に怖かっただろ? 池から引っ張り上げようとして、俺も一緒に落ちて……」
懐かしむように目を細め、続けた。
「着替えをしてる間じゅう、乳母がずっと怒鳴ってた。まるで鬼みたいに」
「確かに……鬼のような形相でしたね」
顔を見合わせるふたりの間に、幼い日の記憶がよみがえる。
寒さに震えながら、ずぶ濡れで並んで立たされたあの日――
その光景が浮かんだのか、ふたりは思わず笑い合った。
ほんの一瞬、米沢の城で肩を並べていた幼い日の記憶が、音もなく甦る。
義周はそっと懐に手を入れた。
取り出したのは、小さな守り袋。 淡い色の布に、母の縫った糸が優しく絡んでいる。
向かいにいた吉憲も、同じものを取り出す。
母が作ってくれた、同じ布、同じ香り―― 今は別々の家に生きる身であっても、たったひとつの布だけが、兄弟の時間を静かに繋ぎとめていた。
「……父上は厳しいことをおっしゃっていたが、本心では義周のことを気にかけていると思う」
沈黙ののち、吉憲が静かに口を開いた。
義周は、その言葉にすぐには応じなかった。
「……そうでしょうか」
「義周」
「私は、あれが父上の本心だと思っています。昔から――父上にとって最も守るべきものは、常に上杉家で。血の繋がりに情をかけるような方ではありませんでした」
その声音に、悲しみや怒りはなかった。ただ静かに、事実を受け止めているように響いた。
視線は池の水面に向けられたまま、表情は変わらない。
風が吹き抜け、枝の葉をかすかに揺らした。
「父上がそうであっても……俺は違う!」
思わず、吉憲の声が強くなる。
「……兄上」
「俺は兄として、お前を守りたい。家の名も立場も、全部抜きにして……お前が、俺の大切な弟だからだ」
義周は手の中の守り袋を強く握りしめる。
離れていても、たとえ別の名を背負っていても。 今この時だけは、確かにふたりは兄弟だった。
「……兄上の気持ちは、ちゃんと伝わっています」
小さく微笑んで、義周がそっと言葉を返す。
「さあ、この話はもう終わりにしましょう。それよりも、互いの近況を話しませんか。楽しい話を」
「……そうだな」
「ええ、楽しい話をしましょう、兄上」
義周はそう言って、そっと微笑んだ。
声を張るでもなく、けれど確かに吉憲に向けられたその笑みに、兄も目を細めて頷く。
池の水面には、青葉の影が揺れていた。
控えめに咲いた白い花が、枝のあいだから顔をのぞかせている。
風が一筋、葉を鳴らして通りすぎた。
違う道を歩んでいても、忘れていないものがある――それはきっと、こんな静かな時のなかに息づいているのだと、ふたりはどこかで感じていた。
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