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本編
第六十話 釣り糸の先
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◆◆◆◆◆
夏の始まり。空はよく晴れ、照りつける日差しの下で、庭木の葉がまぶしく揺れていた。
久方ぶりに気楽な外出の時間を持てた吉憲は、近習の桐原清十郎を伴って屋敷を出た。
この日の装いは、夏用に仕立てられた薄絹の長着に、涼やかな羽織を重ねたもの。
淡い藍地に金糸の縁取りが控えめにあしらわれており、目立たぬながらも品格ある風合いを醸していた。
軽装でありながら、上杉家の嫡男らしい格が静かに滲み出ている。
門前には黒塗りの駕籠が備えられていたが、吉憲はそれを一瞥しただけで通り過ぎる。
「駕籠は使わぬ。今日は歩いて出る」
すぐ後ろにいた桐原が歩調を詰め、低く声をかけた。
「……お控えくださいませ。目立つ駕籠を避けたいお気持ちは分かりますが、上杉家の御嫡男が直に町を歩かれるなど――」
「むしろ駕籠の方が目立つ。通りに出れば、すぐに“上杉の嫡男がいる”と知れる」
吉憲は足を止め、軽く肩越しに振り返る。
「それに……町の者たちが、吉良家や我が家をどう見ているのか、直に感じてみたくてな」
町人の目。道端の噂話。そして、世の空気。
それらの全てが、やがてこの身にも降りかかるのだと、どこかで覚悟していた。
「表に出れば、町人の声も、世の流れも感じ取れる。たまには、そういう空気に触れておきたいんだ。……気晴らしというやつだ」
「ですが、万が一のことがあれば……」
「桐原」
吉憲は静かに彼の名を呼んだ。
「お前がいれば、私は無事だ。……そう思っている。お前はどうだ?」
しばし沈黙の後、桐原は静かに頭を下げた。
「……心得ました。ただし、目立たぬよう、人通りの穏やかな道をお選びくださいますよう」
「ふふ、それはお前の役目だろう。任せる」
「は」
言葉少なにうなずき合い、二人は並んで門を出た。
石畳の道には、朝からの熱がほんのりと残っている。
吉憲が軽やかな足取りで向かったのは、かつて大石内蔵助と出会った神社だった。
境内は静かで、蝉の声が木々の合間から落ちてくるばかり。あのときのような気配はなく、神職の姿すら見えない。
吉憲はしばらく境内に立ち尽くしたが、やがて視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……おらぬか」
肩越しに桐原が視線を向けてくるが、言葉はなかった。
気持ちを切り替えるようにして神社の裏手へ回ると、緩やかな小道の先に池が見えた。岩の合間から湧く水が静かに澄んでいて、その縁に、一人の男が腰を下ろしていた。
吉憲は思わず足を止めた。
男は背を向けて釣り糸を垂れている。力の抜けた姿勢、無造作にまとめた髷。だが、どこかで見たことのある空気を纏っていた。
「……あれは」
思わず漏れた声に、桐原がすぐ反応した。
「吉憲さま?」
「……大石内蔵助だ」
桐原は目を細め、池の向こうの男を見つめる。しばし観察すると、静かに頷き呟いた。
「赤穂浪士の筆頭とも聞く男が、道楽に釣りとは……拍子抜けですな。仇討ちなど、もうおやめになったのやもしれません」
吉憲は返答せず、大石の姿を見つめ続けた。釣竿は動かず、男はただ風の中に身を任せるように座っている。
――そのときだった。
視界の端で、薄い色の布がふわりと揺れた。
池の反対側から、ひとりの女が静かに近づいてくる。
浅葱がかった地味な紬に身を包み、顔の下半分を紺色の手拭いで覆っていた。
その歩みはごく自然で、人々の往来に紛れても何の違和感もない。だが、妙に静かだった。
女は何気ない足取りのまま、大石の背後を横切るように歩き――
ちょうど釣り糸を垂れる男の背後に差しかかったところで、ふいに立ち止まる。
屈んで、草履の鼻緒を気にするように指を添える。
誰もが見過ごすような、ささやかな仕草。
だがその瞬間、女は懐から一通の書状を取り出し、
大石の膝元へと、音もなく滑らせた。
顔を上げることも、言葉を交わすこともなく――
女は再び立ち上がり、池の縁をそのまま歩き去っていく。
その後ろ姿には、一片の迷いもなかった。
ほんの一瞬。だが、その手つきに躊躇はなく、書状を渡された男――大石内蔵助は何も言わず、それを受け取った。
「……あれは」
桐原も事態に気づき、眉をひそめる。
「ただの道楽ではないようですね。若君、これ以上深入りはなさらぬよう」
吉憲は頷こうとしたが、その視線はまだ池の畔に座る男から離れなかった。
水面に揺れる夏の日差しの奥、大石の姿が妙に静かで、そして――
どこか、決して触れてはならぬもののように見えた。
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夏の始まり。空はよく晴れ、照りつける日差しの下で、庭木の葉がまぶしく揺れていた。
久方ぶりに気楽な外出の時間を持てた吉憲は、近習の桐原清十郎を伴って屋敷を出た。
この日の装いは、夏用に仕立てられた薄絹の長着に、涼やかな羽織を重ねたもの。
淡い藍地に金糸の縁取りが控えめにあしらわれており、目立たぬながらも品格ある風合いを醸していた。
軽装でありながら、上杉家の嫡男らしい格が静かに滲み出ている。
門前には黒塗りの駕籠が備えられていたが、吉憲はそれを一瞥しただけで通り過ぎる。
「駕籠は使わぬ。今日は歩いて出る」
すぐ後ろにいた桐原が歩調を詰め、低く声をかけた。
「……お控えくださいませ。目立つ駕籠を避けたいお気持ちは分かりますが、上杉家の御嫡男が直に町を歩かれるなど――」
「むしろ駕籠の方が目立つ。通りに出れば、すぐに“上杉の嫡男がいる”と知れる」
吉憲は足を止め、軽く肩越しに振り返る。
「それに……町の者たちが、吉良家や我が家をどう見ているのか、直に感じてみたくてな」
町人の目。道端の噂話。そして、世の空気。
それらの全てが、やがてこの身にも降りかかるのだと、どこかで覚悟していた。
「表に出れば、町人の声も、世の流れも感じ取れる。たまには、そういう空気に触れておきたいんだ。……気晴らしというやつだ」
「ですが、万が一のことがあれば……」
「桐原」
吉憲は静かに彼の名を呼んだ。
「お前がいれば、私は無事だ。……そう思っている。お前はどうだ?」
しばし沈黙の後、桐原は静かに頭を下げた。
「……心得ました。ただし、目立たぬよう、人通りの穏やかな道をお選びくださいますよう」
「ふふ、それはお前の役目だろう。任せる」
「は」
言葉少なにうなずき合い、二人は並んで門を出た。
石畳の道には、朝からの熱がほんのりと残っている。
吉憲が軽やかな足取りで向かったのは、かつて大石内蔵助と出会った神社だった。
境内は静かで、蝉の声が木々の合間から落ちてくるばかり。あのときのような気配はなく、神職の姿すら見えない。
吉憲はしばらく境内に立ち尽くしたが、やがて視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……おらぬか」
肩越しに桐原が視線を向けてくるが、言葉はなかった。
気持ちを切り替えるようにして神社の裏手へ回ると、緩やかな小道の先に池が見えた。岩の合間から湧く水が静かに澄んでいて、その縁に、一人の男が腰を下ろしていた。
吉憲は思わず足を止めた。
男は背を向けて釣り糸を垂れている。力の抜けた姿勢、無造作にまとめた髷。だが、どこかで見たことのある空気を纏っていた。
「……あれは」
思わず漏れた声に、桐原がすぐ反応した。
「吉憲さま?」
「……大石内蔵助だ」
桐原は目を細め、池の向こうの男を見つめる。しばし観察すると、静かに頷き呟いた。
「赤穂浪士の筆頭とも聞く男が、道楽に釣りとは……拍子抜けですな。仇討ちなど、もうおやめになったのやもしれません」
吉憲は返答せず、大石の姿を見つめ続けた。釣竿は動かず、男はただ風の中に身を任せるように座っている。
――そのときだった。
視界の端で、薄い色の布がふわりと揺れた。
池の反対側から、ひとりの女が静かに近づいてくる。
浅葱がかった地味な紬に身を包み、顔の下半分を紺色の手拭いで覆っていた。
その歩みはごく自然で、人々の往来に紛れても何の違和感もない。だが、妙に静かだった。
女は何気ない足取りのまま、大石の背後を横切るように歩き――
ちょうど釣り糸を垂れる男の背後に差しかかったところで、ふいに立ち止まる。
屈んで、草履の鼻緒を気にするように指を添える。
誰もが見過ごすような、ささやかな仕草。
だがその瞬間、女は懐から一通の書状を取り出し、
大石の膝元へと、音もなく滑らせた。
顔を上げることも、言葉を交わすこともなく――
女は再び立ち上がり、池の縁をそのまま歩き去っていく。
その後ろ姿には、一片の迷いもなかった。
ほんの一瞬。だが、その手つきに躊躇はなく、書状を渡された男――大石内蔵助は何も言わず、それを受け取った。
「……あれは」
桐原も事態に気づき、眉をひそめる。
「ただの道楽ではないようですね。若君、これ以上深入りはなさらぬよう」
吉憲は頷こうとしたが、その視線はまだ池の畔に座る男から離れなかった。
水面に揺れる夏の日差しの奥、大石の姿が妙に静かで、そして――
どこか、決して触れてはならぬもののように見えた。
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