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第三章

雨音に際立つ鼓動

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 誕生日とはいえ、あくまで自分の誕生日だ。だから特に晩ご飯の献立は意識していなかった。蒸し暑かったので冷しゃぶのサラダ仕立て、タコときゅうりの酢の物、しじみの味噌汁といった疲労回復献献立だ。
 タコは悟先生が釣り上げたものを「半夏生に食べてね」という言葉つきで、足を一本分けてもらった。
 半夏生とはだいたい七月二日頃から七夕までの五日間を指し、関西ではタコを食べるという風習がある。何より悟先生が釣ったものなので、より滋養強壮が期待できそうだ。
 洗い物を済ませ、畳のところで俺たちはくつろいでいた。俺も香織さんも壁にもたれているので、東京の水族館で買ったぬいぐるみは背中にあてがうクッション代わりになっている。すぐ横の腰窓を通して、テンポのいい雨だれの音が聞こえている。
 香織さんからもらった品物の包装を開ける。出てきたのは、カメラのストラップだった。俺の好きな鮮やかなブルー。しかも本革と見受けられる。
「おぉ。きれいな色。しかもいいやつ」
「気に入ってくれた?」
「もちろん。ずっと大事にする」
 今すぐにでもカメラに取りつけたい。だがカメラは写真館にある。
「今すぐにでもカメラにつけたいけど……」
 俺の本能は、香織さんを抱きしめることを選んだ。ストラップを傍らに置き、香織さんの肩に腕を回す。俺にもたれかかる香織さん。
「だけど、いい歳して誕生会はちょっと恥ずかしかったな」
「何言ってるの。これほど大事な日はないのに」
「そうかもしれないけど、大げさすぎない?」
 誰にでも等しく存在する誕生日。だが、子どもの頃ならまだしも、さすがに大人になってからはそのありがたみは徐々に薄れていく。
 香織さんがこちらに身体をひねり、頭を俺の胸に寄せる。俺は肩に回していない方の手で香織さんの頭をなでた。
「だって、あの日真也くんが頑張ったから、迎えられる日なの」
 あの日――。俺が交通事故に遭い、香織さんの勤める総合病院に運び込まれた日だ。香織さんは麻酔科医として俺の緊急手術に立ち会った。そして長時間に渡って俺の全身管理をしながら、心拍の下がり続ける俺を助けてくれた。
 だから俺は生きている。
 だからこそ俺は今ここで、俺たちふたりで選んだこの島で、本革の香りに包まれながら、最愛の人を抱いている。
 かすれた声で、俺は問う。
「俺の心臓の音、聞こえる?」
「ドクドクって、力強い」
「ありがとう」
 ありがとう、あの日助けてくれて。
 ありがとう、今年も誕生日を祝ってくれて。
 いろんな思いを込めた「ありがとう」だった。
 だが、一番込めた思いは、俺の側にいれくれてありがとう。
「うん、これからもあたしの側にいてね」
 ちゃんと伝わった。ありがとう、香織さん。
 俺の胸に頭をうずめる香織さんの顎を持ち上げる。俺を見つめる香織さんの吊り気味の瞳。何か言いたげな香織さんの唇をそっとふさぐ。
 ありがとう香織さん。そしてこれからも俺の一番好きな人でいてください。
 雨音は優しく、長い長い口づけの間、俺と香織さんを祝福しているかのように響いていた。
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