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第三章

不審な影

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 待ちに待った梅雨の晴れ間。
 俺はいそいそと写真館から出る。島内の紫陽花スポットに撮影に行くためだ。施錠をした写真館の出入り口には「出張中」と書かれた札をかけた。直接写真館に撮影に来てくれる人は皆無に等しいので、かっこつけた感も否めない。実際、先日の生田さんなどはかなりのレアケースだといえる。
 俺の移動のかなめとなる青いアクアは、写真館とクリニックの建物から見て裏手に位置する自宅玄関すぐ側の駐車場に停めている。写真館からは、建物沿いに巡らされた屋根つきの通路を回り込む形になる。
  駐車場に向かおうと、ハンドリムを回して方向転換をした時、敷地内でこちらをうかがっている人物を認めた。
 その人物――カーキ色のブルゾンを着た男性は、敷地内に入ったところからじっとクリニックの様子をうかがっているように思えた。
 クリニックを受診しに来た患者なのだろうか。だとすれば今は午前の診療時間だ。初診でも予約不要で受けつけているので、出入り口から入ればいい。それに今日は午後が休診。受診するなら今のうちだ。
 そのことを教えようと、俺は男性に近づく。すると車椅子の車輪の音に気づいたのか、男性はちらりと俺を振り返ったと思うと踵を返して敷地から出ていった。
 さっきの男性は何だったのだろう。ふとそう思ったが、久しぶりの晴れ間が俺の気を引いた。きっと男性の勘違いだったのだ。俺はそう結論づけ、車に向かって車椅子を漕いだ。
 車を走らせてたった三分でたどり着いたこの場所は、花の島を誇るこの島でありながら、観光客にも知られていない紫陽花の名所だ。それもそのはず、山本さんの家からほど近い公園だ。山本さんはこの距離を毎日徒歩で通勤しているという。
 この場所を知ったいきさつは大したものではない。例によって田中ミチヨさんを迎えに来た山本さんにふと「どこか近くに紫陽花の名所ってないかな」と漏らしたところ、ここを教えてくれた。駐車場も完備されているとその時に聞いていたので、今回の撮影場所に選んだというわけだ。
 運転席のドアを大きく開けて車椅子を用意し、移乗する。ドアを閉めたあと、後部座席のドアを開けてカメラを取った。
 この前購入したリュックは車椅子に装着しているものの、まだ荷物を入れた状態で使いこなせない俺は、今回カメラを一台のみ持ってきた。レンズもカメラに取りつけている標準レンズのみ。身軽でありたいと思ったからだが、同時に、初心に返って素直な気持ちで紫陽花と向き合いたかったからでもある。
 俺が写真を撮る喜びと切なさを初めて覚えたのが、中学生の頃。その時の対象は紫陽花といった季節の花ではなくて夕景だったが、胸を締めつけられるような感情とともにシャッターを切った。久しぶりにその時の気持ちを思い出したくて、俺はカメラ一台で紫陽花に向き合うことにしたのだ。
 先日の井の頭公園で撮ったものとは異なる、ピンク色の紫陽花。ここの土壌はアルカリ性に傾いているらしい。
 もし目の前の紫陽花が水色や紫色ならば、露出を下げてしっとりと仕上げたいところだ。実際、俺も井の頭公園ではそのモードでの撮影を好んでしていた。だが、ピンク色のものとなると印象は異なる。ここは紫陽花が持つ可憐な花の集合を、ふんわりとした印象で撮りたい。
 とはいえ、本来紫陽花は梅雨時を彩る花。だから写真を撮る時も、太陽がさんさんと注ぐ環境はそぐわないとされる。確かに俺も健常だった頃はそんなふうに思っていた。紫陽花を撮るには曇りや雨が適していると。
 だが、今目にしているのは、太陽の光をたっぷり浴びて輝く紫陽花。俺はそれを初めて美しいと思った。紫陽花も本当は太陽の光を浴びて光合成をしたいに違いない。
 露出を上げる。梅雨の時期の貴重な晴れ間、久しぶりに屋外での撮影に出た俺は、明るい光に包まれる紫陽花を撮る。つかの間の陽射しを謳歌している紫陽花にどことなく自分自身を重ね合わせながら、続けざまにシャッターを切った。
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