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第三章

無人販売所

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 想像以上にいい写真が撮れたことに満足した。気分もいいし、晩ご飯用に朝からカレーを用意してきた。だからそのまま帰るのはもったいない。そう思った俺は、少しドライブしてから帰ることにした。
 ここは南北に長い島の西海岸寄りの高台に位置する。そのまま海岸線に下りてもいいが、集落内を少し流してみよう。俺たちはよそから来たので、もちろんここは地元ではない。だが、これから長い間過ごす場所でもある。集落内のいろんなことを知りたかった。
 とはいえ眼前に広がるのは、特に何もない道。
 いや、違う。何もないわけではない。ただ伸びる道路と緑の山、そして梅雨の晴れ間を彩る青い空と白い雲。何もないのではなくて、何気ない風景。健常だった頃には気にも留めなかっただろう、ほんの些細な風景。
 胸がうずいた。撮りたいという気持ちがこみ上げる。俺はちょうど見つけた待避所に停車し、ウィンドウを下げた。
 運転席からは後部座席のカメラは手が届かなかった。それを惜しいとも思わなかった。俺は助手席に積んだ車椅子の上に無造作に置いたボディバッグからスマホを取り出し、カメラアプリを起動させる。
 運転席の窓枠にひじをかけて体勢を安定させ、スマホだけを外に出してシャッターボタンをタップする。梅雨明けを待ち望むかのような風景を撮影できた俺は、満足してまた車を走らせた。
 農作物の無人販売所もけっこうあった。夕方近くになった今、それらの大半は売り切れていたが、ところどころで売れ残っているものも見受けられた。買ってみたいと思いつつ、車から出るのにもひと苦労する俺は、躊躇してしまう。
 そんなことを思っていたら、人がいる無人販売所を見つけた。正確には、普段は無人だがちょうど農家の人が来ている瞬間だったのだろう。駐車スペースがあったので、俺は反射的に車を滑り込ませた。
 だが、つい人を見つけて駐車したものの、路面は舗装されておらず砂利敷き。車椅子で移動することはできない。
 やっぱり俺には無理か……。あきらめて敷地から出ようとした時、販売所にいた人が俺を振り返った。農作業着姿の女性だ。よく日に焼けた化粧っ気のないその人は、俺よりも年上と見受けられた。香織さんよりも年上、クリニックの晴美さんよりも年下といったところか。
「お客さん?」
 俺はウィンドウを下げて返事をした。
「あ、いや……。何かいい野菜ないかなって思ったんですけど、よく考えたら俺、車椅子だから車の外に出られないなって……」
 女性はそんなことどうでもいいといった様子で、野菜の入った袋をいくつか手にして俺のところまで来た。そして俺に野菜を見せてくれた。袋に入ったミニトマトとピーマンがふたつずつ。どちらも粒は不揃いだが美味しそうだ。
「ごめんなさいね。もう店じまいだからいいの残ってないんだけど」
「トマトとピーマン、ひとつずついただいていいですか?」
 俺がそう言うと、女性が表情をほころばせる。
「ありがとうございます。ひとつ百円で、合わせて二百円ね」
「安いですね」
 ボディバッグから財布を出して、百円玉を二枚取り出して女性に渡す。「ありがとうございます」と言って女性から渡されたのは、トマト一袋とピーマン二袋。計算が合わない。俺はピーマンの袋をひとつ返した。
「いや、ピーマンも一袋でいいです」
 そんな俺に、女性は朗らかに笑った。
「どうせ売れ残りなんだから、サービスね」
「けど俺、奥さんとふたりだし、こんなに食べ切れないです」
「ピーマンは冷凍できるから、持ってって」
 ピーマンは生のままで冷凍できるのだという。ありがたいが、どこか引っかかるものがあったのも事実で……。俺は一見の客に過ぎないが、女性は俺のことを知っている……?
 俺がいぶかしそうな顔つきをしていたのだろう。女性がぷっと噴き出した。
「新しくできた何とかクリニックの旦那さんでしょう」
「は、はい。『ますいペインクリニック』です」
「そうそう。ペインクリニックね」
「ってか、俺のこともご存じなんですか?」
 女性は島本しまもと祥子しょうこと名乗った。
「大叔母がいつもお世話になっています」
「おおおばさん……?」
 祥子さんの父方の祖父の弟嫁、俺にとっては一度聞いただけでは理解しがたい親戚関係だったが、とにかくその嫁さんが田中ミチヨさんなのだという。すなわち祥子さんとミチヨさんは親戚同士であり、ふたりの苗字が違うのは、祥子さんが嫁いで島本姓になったからだ。
「たまに叔母ちゃんとこに様子見に行くんですよ。そのたびに新しい先生が来たって。それで、そこでいつも足腰の弱い兄ちゃんに優しくしてもらえるって」
 ミチヨさん、そんなことを言っていたのか……。
「お兄さんのことですよね」
「はい、いつもミチヨさんからは足腰が立たなくて情けないって言われます」
 あはは、と祥子さんに笑い飛ばされた。ひとしきり笑ったあと、祥子さんは両掌を顔の前で合わせた。
「ごめんなさいね。叔母ちゃん、昔から口が悪いから。でもね、裏を返すと信用している証拠なの」
「まぁ、そんな気はしてましたけど」
「前のクリニックとは合わなかったから、恩に切ります」
 祥子さんは深くお辞儀をする。
 祥子さんによると、ミチヨさんは身体を痛めてから数回かかりつけを変えているのだという。にっちもさっちもいかなくなる前に大阪にいる息子夫婦――祥子さんの父親のいとこ夫婦――が引き取ろうかと話し合っていたところ、俺たちが開業した。試しに受診してみたら、いつも病院らしからぬところで足腰の立たない優しい兄ちゃんに迎えてもらえ、担当の女先生は時間をかけて丁寧に診察してくれるのだという。
 第三者からの生の声は、くすぐったいが嬉しくもある。
「よかったです。うちのクリニックと相性よくて」
「そうですね。叔母ちゃんも、ぎりぎりまで住み慣れた家にいたいって言ってるし」
「そりゃそうですよ」
「だから、これからも叔母ちゃんをよろしくお願いします」
「はい、奥さんに伝えておきます」
 最終的に俺は、ミニトマトももう一袋もらって帰途に着いた。

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