八咫烏 〜神になるか、人として戦うか〜

秀零

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第52話 嫉妬という名の恋

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重い扉が、静かに背後で閉じられた。
まるで、それが一つの運命を締めくくる合図のように感じられて、私はしばらく、その場から動けなかった。

「……天音」

その名を呼ぶ、静かな声。
振り向けば、少し離れた場所に紫苑さんが立っていた。私の様子を窺うように、しかし必要以上に踏み込まず、ただ見守るように。

私は頷いて、彼の元へと歩み寄る。
口を開こうとして、けれどすぐにやめた。
言葉にできる気がしなかった。何をどう話せばいいのか――自分でもわからない。

「遅かったな。何があった?」

その問いに、言葉が出てこなかった。

話せない。……いや、話したくなかった。

さっきまであの空間で聞いたこと、見たこと、知ってしまった自分の正体――。
整理なんてついていないのに、口にしたら、それはすべて現実になってしまう気がして。

「……別に、大したことじゃないです」

私の声はひどく乾いていた。
思わず突き放すように、答えてしまった

紫苑さんはそれ以上何も言わず、私の表情を見つめていた。

沈黙が落ちる。逃げ出したい気持ちと、ここに立ち尽くす自分が、同時に存在していた。

ふいに、紫苑さんが口を開く。

「ちょっと……付き合え」

「え?」

「夜風でも浴びに行こう。こんな夜に本部に戻ったって、眠れないだろう」

私は驚いた。紫苑さんが、こんなことを言うなんて。

けれど、その提案が妙に心地よかった。

「……はい」

 

***

歩き出した夜の街は、昼間とはまるで違って見えた。
街灯が落とす影の中を、二人で黙々と歩いた。

紫苑さんはずっと黙っていた。
私も、何も言わなかった。いや、言えなかった。

けれど、それが苦痛ではなかった。ただ、その隣にいることだけで、少しだけ心が楽になった気がしていた。

気づけば、人通りもまばらな小さな橋の上に立っていた。

紫苑さんが欄干にもたれ、ぽつりとつぶやく。

「……俺も、わからないことばかりだ……何が正しいのか……自分の選択が正解なのか」

私は顔を上げた。

「でも――お前が一人で抱え込む必要はない。何があったか言いたくなったら、いつでも言えばいい」

優しい声だった。

その優しさに、私はまた、胸が締め付けられた。

(……やっぱり、優しい)

ずっとそう思ってきた。紫苑さんの無骨な優しさは、私の心を何度も救ってきた。

けれど⸺。

(……違う……紫苑さんには私は映っていない)

今、視線の奥に宿る“何か”に、私は気づいてしまった。

紫苑さんの目は、私を見ていなかった。

――正確には、「今の私」ではなかった。

(誰を……見てるの……?)

天禰⸺。

その名が、私の中で浮かび上がる。

前世の私。
神だった私。

紫苑さんが見ているのは、もしかして――

(……天禰、なの……?)

心の奥で、何か黒いものがうごめいた。

胸が、じくじくと痛い。チクリじゃない。刺すような痛み。

(……これ、何?)

悔しい。悲しい。寂しい。

でも、それだけじゃなかった。

私の中で、言葉にならない“感情”が、形を持ち始めていく。

(……嫉妬?)

信じられなかった。だって、相手は私の“前世”。

なのに私は、紫苑さんの視線の先にあるものに……。

(……嫉妬してる……?)

おかしい。おかしいのに、苦しくてたまらない。
胸が締めつけられて、息苦しい。
吐き出してしまいたい⸺この思いを。

(私、こんなにも……紫苑さんに……)

思考が止まる。

いや、止めたくなる。

だけど、もう止まらない。

(……好き、なんだ)

静かに、確かに。

心の奥で、その想いが膨らんでいく。

今更だった。あんなに優しくされて、あんなに助けられて、あんなに近くにいたのに。

どうして今まで気づかなかったんだろう。

でも――今だからこそ気づいてしまった。

(紫苑さんが……好き)

けれどその気持ちが、自分に向けられていないかもしれない。
それが、ただ、怖かった。

私は小さく息をついて、視線を空に投げた。

紫苑さんの顔を、見られなかった。

 

――私は、今の私として、ここにいる。
だけど、その“今”が、誰かの記憶の中で霞んでしまうのなら。

(紫苑さんにとって、今の私は必要なの……?)
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