1 / 32
第1章
第1話
しおりを挟む
はるか昔、この日ノ本には、八百万の神々が息づいていた。 人も、妖も、それぞれが異なる理を持ちながら、互いに干渉し、時に争い、しかし、大いなる調和の中で生きていた。 古の時代から続く、その当たり前の風景は、しかし、近年どこか淀み始めている。
山河に微かな異変が見られ、人々の心にも、拭いきれない不安が広がり始めていた。 だが、その原因を知る者はまだ誰もいない。 そんな、神代の残り香がほのかに漂う、移ろいゆく時代の小さな片隅で —。
その少女の名は桜花。 彼女の世界は、いつだって、甘く、そして香ばしい匂いに満ちていた。
町の小さな団子屋「さくら」。それが、彼女の家であり、全てだった。
「お父さん、お団子、まだ焼けないの?」
「ははは、もうちいと待ちな、桜花。一番美味い焼き加減ってもんがあるんだ」
実直な父と、太陽のように笑う母。
艶やかな濡羽色の髪を持つ桜花が、はにかむように微笑む。三人が作る、特に自慢の胡麻団子は、町一番の評判だった。
桜花にとって、湯気の向こうに見える両親の笑顔と、団子を頬張る客の幸せそうな顔が世界の全て。この温かくて優しい時間が、永遠に続くと信じていた。
その日もまた、春のうららかな陽光が降り注ぐ、穏やかな一日だった。「さくら」の店先は、焼きたての胡麻団子を求める客で賑わっている。
桜花は、父が作った団子を串に刺し、母が淹れた温かいお茶と共に、客へと差し出す。
「はい、どうぞ!」
桜花の屈託のない笑顔に、客たちもまた、顔をほころばせる。
その時だった。 ざわつく店の客の視線が、一人の男に集まった。 それは、どこからともなく現れた見知らぬ通行人。 男は、顔色の悪い痩せ細った体つきで、ぼろぼろの旅装束を身に着けていた。 しかし、人々が彼に視線を向ける理由はその身なりではなかった。 男の体から、目に見えるほどの黒く澱んだ霞が、ゆらゆらと立ち上っていたのだ。 それは、この世のものとは思えない形容しがたい不快な匂いを、あたり一面に撒き散らしていた。
「……う、うわっ、なんだ、この匂いは!?」
「くっ、くさい......! 吐き気が……」
客たちが、一斉に顔を覆い、後ずさり始める。 男は、人々の反応に構うことなく、ただ虚ろな目で、ふらふらと町の中心部へと歩いていく。 その足取りは、まるで死者のようだった。
そして彼が通った後には、黒い霞が、まるで地面に染み込むかのようにべったりと残っていく。
それはたちまちのうちに、町の空気を重く、そして禍々しいものへと変えていった。
「お父さん、あれ……」
桜花もまた、その異様な光景に思わず父の着物の裾を掴んだ。 父は、眉根を寄せ、その男の背中を、険しい表情で見つめている。
「大丈夫だ、桜花。……すぐに、追い払ってやる」
そう言って父は、客を守るように前に出ようとした。だが、遅かった。 男が歩き出した瞬間から、急速に拡散していった黒い霞は、既に町全体を覆い始めていたのだ。
それは、人々を蝕む瘴気。 空は鉛色に変色し、陽光は遮られ、辺り一帯が、闇に包まれたかのようになった。 人々は、瘴気を吸い込んだ途端、突如として、錯乱し始める。
「ぎゃあああああ!!」
「だ、誰だ!? おい、俺に触るな! 化け物!!」
「ああぁッ!!お前がやったんだろう?!そうに違いないッ!!!」
悲鳴、怒号、罵声。 町は、一瞬にして地獄絵図と化していった。
桜花もまた、瘴気を吸い込んでいた。 脳が、灼けるように熱い。視界が歪み、吐き気がこみ上げる。 呼吸が、苦しい。 体中に、言いようのない悪寒が走り、手足の力が抜けていく。
「……お、父……さん……、お、母……さ……ん……」
意識が、遠のいていく。 桜花は最後に、目の前で互いに罵り合い、掴みかかろうとする両親の姿を見た。 その光景に、絶望にも似た衝撃を受け、彼女の意識はぷつりと途切れた。
桜花は、そのまま地面に崩れ落ちた。 彼女の体はゆっくりと、しかし確実に、瘴気によって汚染されていく。 その小さな胸の奥で、まだ幼い魂が、苦しそうに、きしみ続けていた。
—どれほどの時間が経ったのだろうか。桜花は、ゆっくりと意識を取り戻した。 しかし、その体は鉛のように重い。視界は、ひどく霞んで、まるで薄い膜がかかっているかのようだった。
喉が焼け付くように乾き、全身がぞわりと粟立つ。
「っ……お、とうさん……? おかあ、さん……?」
掠れた声で、両親を呼ぶ。しかし、返事はない。かろうじて動く体を起こし、周囲を見渡した桜花の目に映ったのは、変わり果てた故郷の姿だった。かつて活気に満ちていた町並みは、まるで巨大な墨汁をぶちまけたかのように、黒く澱んでいた。
空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、太陽の光は一切届かない。地面は黒く染まり、道端に生えていたはずの草花は、全て枯れ果て朽ちていた。町を彩っていたはずの色彩は、全てが失われ、そこには、ただ黒と灰色の、死んだような風景が広がっている。
そして、人の気配も全くなかった。
喧騒に満ちていたはずの通りは、ひどく静まり返っている。団子屋「さくら」の暖簾は、風に虚しく揺れているだけ。開け放たれた店の奥を覗いても、人の姿はどこにも見当たらない。
桜花は、恐怖に震えながらもふらふらと立ち上がった。狭い視界の中、わずかながらに残る記憶を頼りに、両親を探す。
「おとうさん! おかあさっ⋯ゲホッけほっ」
声は、喉の奥にへばりついて、うまく出ない。 何度も、何度も、よろめきながら、歩き続ける。 通り過ぎる家々は、戸が開け放たれ、まるでもぬけの殻となっていた。
人々は、一体どこへ消えたのか。
やがて、町の外れ、普段は子供たちが遊んでいた広場の奥で、桜花の足が止まった。そこに、ふらふらと、しかし、何かを求めるように歩く、一人の女の姿があった。
見間違えるはずがない。
それは、桜花の母だった。
「お、お母さん……!」
桜花は、残る力を振り絞り、駆け寄った。しかし、母の姿は、以前とは全く違っていた。
その顔は、土気色にやつれ、目は虚ろに濁り、髪は乱れ、着物は破れている。瘴気によって、深く、深く、蝕まれているのが、一目見て分かった。
「お母さん、大丈夫!? 私よ、桜花よ!」
桜花が、その小さな手で、母の腕を掴む。母の瞳が、ゆっくりと、桜花へと向けられた。 その奥に、一瞬だけ、微かな光が宿る。
「……お、うか……? ああ……。桜花……」
母は、桜花の名を、かろうじて口にした。
その声は、ひどく掠れて、もはや、昔の太陽のように明るい母の声ではなかった。
母は、桜花を認識している。だが、その意識は、まさに風前の灯火
瘴気に侵され、意識を失いかけていることが、痛いほど伝わってきた。
「……あ、の……だんご……や……。ごま……」
母は、壊れた人形のように、意味のない言葉を呟く。桜花は、母の変わり果てた姿に絶望した。
自分をかろうじて認識してくれる母。だが、その瞳の奥には、以前のような、温かい光は、もう、どこにもなかった。
全てを奪われた。
何もかもが、壊されてしまった。
その時桜花は、母が大事に手に持っている小さなものを発見した。それは、桜花が父にプレゼントし、肌身離さず身につけていた、お守り。
父の姿は、どこにもない。それが何を意味するのか。桜花は痛いほど理解できてしまった。
その瞬間、母の虚ろだった瞳に、わずかながら意識の光が戻った。
瘴気によって、ほとんど正気を失っていたはずの母が、その小さな手で、桜花の頬をそっと包み込む。 その目から、一筋、温かい涙が流れ落ちた。
「……ごめん……ね……」
絞り出すような、ひどくかすれた声だった。 母は桜花を、まるで大切な宝物のように力なく、しかし全身の愛情を込めて抱きしめた。
その腕の温もりは、桜花がずっと求めていた、昔と変わらぬ母の温もりだった。 だが、それもほんの一瞬。母の腕から急速に力が抜けていく。
桜花は、抱きしめた母の体が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。
「お母さん!? お母さん!」
桜花の必死の呼びかけも虚しく、母は、桜花の腕の中で、そのまま、ゆっくりと地面に倒れてしまった。 その瞳はもう、桜花を見つめることはない。 二度と、あの太陽のような笑顔を見ることはできない。 声にならない絶望が、桜花の小さな胸を深くえぐった。
朦朧とした意識の中、桜花は母を抱きしめたまま、ただ呆然と、顔を上げた。
狭く歪んだ視界の先。 瓦礫と化した町の奥から、ゆらりと、一体の人影が姿を現した。
それは、桜花の父だった。
「お父さん……!」
しかし父は、以前の面影をほとんど残していなかった。 その目は、瘴気によって赤く濁り、正気を失い、まるで飢えた獣のように、獲物を探すかのような眼差しで、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。 手には、どこから拾ったのか、錆び付いた鉄の棒を握りしめている。
そして、その異様な視線が、正確に、桜花を捉えた。
「……あ、らゥえ……ォ…う、か…に、ギェ」
父の最後の言葉は、もはや制御の効かない意味の無い言葉として絞り出されると、ゆっくりと、その錆びた棒を桜花へと振り上げた。
桜花は、目の前で起きている現実を理解することができない。
なぜお父さんが? なぜ、私を? 脳裏をよぎるのは、瘴気に当たる前に見た、両親が互いを罵り合う、あの地獄のような光景。 これが父の、あんなに優しかった父の末路なのか。
恐怖と絶望、そして困惑が、桜花の心を支配する。 桜花は、死んだ母を抱きしめたまま、その場から1歩も動くことができなかった。迫り来る、変わり果てた父の凶器。桜花が諦めかけた、その時だった。
「――間に合った、か」
冷徹な、しかしどこか気品を帯びた声が響く。
妖艶な絶世の美女が、その少女を守るように、音もなく目の前に突然現れ、桜花の前へと立ち塞がった。
目の前でしなやかに揺れる1本の尾。その背後には大きく揺らめく9本の尾。
纏っている着物は、黒と金を基調とした豪華なものだが、その裾は動きやすいように大胆に短く仕立てられていた。
九尾の妖狐。これが、世界を変える少女と妖狐の運命の出会いであった。
山河に微かな異変が見られ、人々の心にも、拭いきれない不安が広がり始めていた。 だが、その原因を知る者はまだ誰もいない。 そんな、神代の残り香がほのかに漂う、移ろいゆく時代の小さな片隅で —。
その少女の名は桜花。 彼女の世界は、いつだって、甘く、そして香ばしい匂いに満ちていた。
町の小さな団子屋「さくら」。それが、彼女の家であり、全てだった。
「お父さん、お団子、まだ焼けないの?」
「ははは、もうちいと待ちな、桜花。一番美味い焼き加減ってもんがあるんだ」
実直な父と、太陽のように笑う母。
艶やかな濡羽色の髪を持つ桜花が、はにかむように微笑む。三人が作る、特に自慢の胡麻団子は、町一番の評判だった。
桜花にとって、湯気の向こうに見える両親の笑顔と、団子を頬張る客の幸せそうな顔が世界の全て。この温かくて優しい時間が、永遠に続くと信じていた。
その日もまた、春のうららかな陽光が降り注ぐ、穏やかな一日だった。「さくら」の店先は、焼きたての胡麻団子を求める客で賑わっている。
桜花は、父が作った団子を串に刺し、母が淹れた温かいお茶と共に、客へと差し出す。
「はい、どうぞ!」
桜花の屈託のない笑顔に、客たちもまた、顔をほころばせる。
その時だった。 ざわつく店の客の視線が、一人の男に集まった。 それは、どこからともなく現れた見知らぬ通行人。 男は、顔色の悪い痩せ細った体つきで、ぼろぼろの旅装束を身に着けていた。 しかし、人々が彼に視線を向ける理由はその身なりではなかった。 男の体から、目に見えるほどの黒く澱んだ霞が、ゆらゆらと立ち上っていたのだ。 それは、この世のものとは思えない形容しがたい不快な匂いを、あたり一面に撒き散らしていた。
「……う、うわっ、なんだ、この匂いは!?」
「くっ、くさい......! 吐き気が……」
客たちが、一斉に顔を覆い、後ずさり始める。 男は、人々の反応に構うことなく、ただ虚ろな目で、ふらふらと町の中心部へと歩いていく。 その足取りは、まるで死者のようだった。
そして彼が通った後には、黒い霞が、まるで地面に染み込むかのようにべったりと残っていく。
それはたちまちのうちに、町の空気を重く、そして禍々しいものへと変えていった。
「お父さん、あれ……」
桜花もまた、その異様な光景に思わず父の着物の裾を掴んだ。 父は、眉根を寄せ、その男の背中を、険しい表情で見つめている。
「大丈夫だ、桜花。……すぐに、追い払ってやる」
そう言って父は、客を守るように前に出ようとした。だが、遅かった。 男が歩き出した瞬間から、急速に拡散していった黒い霞は、既に町全体を覆い始めていたのだ。
それは、人々を蝕む瘴気。 空は鉛色に変色し、陽光は遮られ、辺り一帯が、闇に包まれたかのようになった。 人々は、瘴気を吸い込んだ途端、突如として、錯乱し始める。
「ぎゃあああああ!!」
「だ、誰だ!? おい、俺に触るな! 化け物!!」
「ああぁッ!!お前がやったんだろう?!そうに違いないッ!!!」
悲鳴、怒号、罵声。 町は、一瞬にして地獄絵図と化していった。
桜花もまた、瘴気を吸い込んでいた。 脳が、灼けるように熱い。視界が歪み、吐き気がこみ上げる。 呼吸が、苦しい。 体中に、言いようのない悪寒が走り、手足の力が抜けていく。
「……お、父……さん……、お、母……さ……ん……」
意識が、遠のいていく。 桜花は最後に、目の前で互いに罵り合い、掴みかかろうとする両親の姿を見た。 その光景に、絶望にも似た衝撃を受け、彼女の意識はぷつりと途切れた。
桜花は、そのまま地面に崩れ落ちた。 彼女の体はゆっくりと、しかし確実に、瘴気によって汚染されていく。 その小さな胸の奥で、まだ幼い魂が、苦しそうに、きしみ続けていた。
—どれほどの時間が経ったのだろうか。桜花は、ゆっくりと意識を取り戻した。 しかし、その体は鉛のように重い。視界は、ひどく霞んで、まるで薄い膜がかかっているかのようだった。
喉が焼け付くように乾き、全身がぞわりと粟立つ。
「っ……お、とうさん……? おかあ、さん……?」
掠れた声で、両親を呼ぶ。しかし、返事はない。かろうじて動く体を起こし、周囲を見渡した桜花の目に映ったのは、変わり果てた故郷の姿だった。かつて活気に満ちていた町並みは、まるで巨大な墨汁をぶちまけたかのように、黒く澱んでいた。
空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、太陽の光は一切届かない。地面は黒く染まり、道端に生えていたはずの草花は、全て枯れ果て朽ちていた。町を彩っていたはずの色彩は、全てが失われ、そこには、ただ黒と灰色の、死んだような風景が広がっている。
そして、人の気配も全くなかった。
喧騒に満ちていたはずの通りは、ひどく静まり返っている。団子屋「さくら」の暖簾は、風に虚しく揺れているだけ。開け放たれた店の奥を覗いても、人の姿はどこにも見当たらない。
桜花は、恐怖に震えながらもふらふらと立ち上がった。狭い視界の中、わずかながらに残る記憶を頼りに、両親を探す。
「おとうさん! おかあさっ⋯ゲホッけほっ」
声は、喉の奥にへばりついて、うまく出ない。 何度も、何度も、よろめきながら、歩き続ける。 通り過ぎる家々は、戸が開け放たれ、まるでもぬけの殻となっていた。
人々は、一体どこへ消えたのか。
やがて、町の外れ、普段は子供たちが遊んでいた広場の奥で、桜花の足が止まった。そこに、ふらふらと、しかし、何かを求めるように歩く、一人の女の姿があった。
見間違えるはずがない。
それは、桜花の母だった。
「お、お母さん……!」
桜花は、残る力を振り絞り、駆け寄った。しかし、母の姿は、以前とは全く違っていた。
その顔は、土気色にやつれ、目は虚ろに濁り、髪は乱れ、着物は破れている。瘴気によって、深く、深く、蝕まれているのが、一目見て分かった。
「お母さん、大丈夫!? 私よ、桜花よ!」
桜花が、その小さな手で、母の腕を掴む。母の瞳が、ゆっくりと、桜花へと向けられた。 その奥に、一瞬だけ、微かな光が宿る。
「……お、うか……? ああ……。桜花……」
母は、桜花の名を、かろうじて口にした。
その声は、ひどく掠れて、もはや、昔の太陽のように明るい母の声ではなかった。
母は、桜花を認識している。だが、その意識は、まさに風前の灯火
瘴気に侵され、意識を失いかけていることが、痛いほど伝わってきた。
「……あ、の……だんご……や……。ごま……」
母は、壊れた人形のように、意味のない言葉を呟く。桜花は、母の変わり果てた姿に絶望した。
自分をかろうじて認識してくれる母。だが、その瞳の奥には、以前のような、温かい光は、もう、どこにもなかった。
全てを奪われた。
何もかもが、壊されてしまった。
その時桜花は、母が大事に手に持っている小さなものを発見した。それは、桜花が父にプレゼントし、肌身離さず身につけていた、お守り。
父の姿は、どこにもない。それが何を意味するのか。桜花は痛いほど理解できてしまった。
その瞬間、母の虚ろだった瞳に、わずかながら意識の光が戻った。
瘴気によって、ほとんど正気を失っていたはずの母が、その小さな手で、桜花の頬をそっと包み込む。 その目から、一筋、温かい涙が流れ落ちた。
「……ごめん……ね……」
絞り出すような、ひどくかすれた声だった。 母は桜花を、まるで大切な宝物のように力なく、しかし全身の愛情を込めて抱きしめた。
その腕の温もりは、桜花がずっと求めていた、昔と変わらぬ母の温もりだった。 だが、それもほんの一瞬。母の腕から急速に力が抜けていく。
桜花は、抱きしめた母の体が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。
「お母さん!? お母さん!」
桜花の必死の呼びかけも虚しく、母は、桜花の腕の中で、そのまま、ゆっくりと地面に倒れてしまった。 その瞳はもう、桜花を見つめることはない。 二度と、あの太陽のような笑顔を見ることはできない。 声にならない絶望が、桜花の小さな胸を深くえぐった。
朦朧とした意識の中、桜花は母を抱きしめたまま、ただ呆然と、顔を上げた。
狭く歪んだ視界の先。 瓦礫と化した町の奥から、ゆらりと、一体の人影が姿を現した。
それは、桜花の父だった。
「お父さん……!」
しかし父は、以前の面影をほとんど残していなかった。 その目は、瘴気によって赤く濁り、正気を失い、まるで飢えた獣のように、獲物を探すかのような眼差しで、ゆっくりと、こちらへ向かってくる。 手には、どこから拾ったのか、錆び付いた鉄の棒を握りしめている。
そして、その異様な視線が、正確に、桜花を捉えた。
「……あ、らゥえ……ォ…う、か…に、ギェ」
父の最後の言葉は、もはや制御の効かない意味の無い言葉として絞り出されると、ゆっくりと、その錆びた棒を桜花へと振り上げた。
桜花は、目の前で起きている現実を理解することができない。
なぜお父さんが? なぜ、私を? 脳裏をよぎるのは、瘴気に当たる前に見た、両親が互いを罵り合う、あの地獄のような光景。 これが父の、あんなに優しかった父の末路なのか。
恐怖と絶望、そして困惑が、桜花の心を支配する。 桜花は、死んだ母を抱きしめたまま、その場から1歩も動くことができなかった。迫り来る、変わり果てた父の凶器。桜花が諦めかけた、その時だった。
「――間に合った、か」
冷徹な、しかしどこか気品を帯びた声が響く。
妖艶な絶世の美女が、その少女を守るように、音もなく目の前に突然現れ、桜花の前へと立ち塞がった。
目の前でしなやかに揺れる1本の尾。その背後には大きく揺らめく9本の尾。
纏っている着物は、黒と金を基調とした豪華なものだが、その裾は動きやすいように大胆に短く仕立てられていた。
九尾の妖狐。これが、世界を変える少女と妖狐の運命の出会いであった。
3
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
セーブポイント転生 ~寿命が無い石なので千年修行したらレベル上限突破してしまった~
空色蜻蛉
ファンタジー
枢は目覚めるとクリスタルの中で魂だけの状態になっていた。どうやらダンジョンのセーブポイントに転生してしまったらしい。身動きできない状態に悲嘆に暮れた枢だが、やがて開き直ってレベルアップ作業に明け暮れることにした。百年経ち、二百年経ち……やがて国の礎である「聖なるクリスタル」として崇められるまでになる。
もう元の世界に戻れないと腹をくくって自分の国を見守る枢だが、千年経った時、衝撃のどんでん返しが待ち受けていて……。
【お知らせ】6/22 完結しました!
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
【一秒クッキング】追放された転生人は最強スキルより食にしか興味がないようです~元婚約者と子犬と獣人族母娘との旅~
御峰。
ファンタジー
転生を果たした主人公ノアは剣士家系の子爵家三男として生まれる。
十歳に開花するはずの才能だが、ノアは生まれてすぐに才能【アプリ】を開花していた。
剣士家系の家に嫌気がさしていた主人公は、剣士系のアプリではなく【一秒クッキング】をインストールし、好きな食べ物を食べ歩くと決意する。
十歳に才能なしと判断され婚約破棄されたが、元婚約者セレナも才能【暴食】を開花させて、実家から煙たがれるようになった。
紆余曲折から二人は再び出会い、休息日を一緒に過ごすようになる。
十二歳になり成人となったノアは晴れて(?)実家から追放され家を出ることになった。
自由の身となったノアと家出元婚約者セレナと可愛らしい子犬は世界を歩き回りながら、美味しいご飯を食べまくる旅を始める。
その旅はやがて色んな国の色んな事件に巻き込まれるのだが、この物語はまだ始まったばかりだ。
※ファンタジーカップ用に書き下ろし作品となります。アルファポリス優先投稿となっております。
転生したら幼女でした!? 神様~、聞いてないよ~!
饕餮
ファンタジー
書籍化決定!
2024/08/中旬ごろの出荷となります!
Web版と書籍版では一部の設定を追加しました!
今井 優希(いまい ゆき)、享年三十五歳。暴走車から母子をかばって轢かれ、あえなく死亡。
救った母親は数年後に人類にとってとても役立つ発明をし、その子がさらにそれを発展させる、人類にとって宝になる人物たちだった。彼らを助けた功績で生き返らせるか異世界に転生させてくれるという女神。
一旦このまま成仏したいと願うものの女神から誘いを受け、その女神が管理する異世界へ転生することに。
そして女神からその世界で生き残るための魔法をもらい、その世界に降り立つ。
だが。
「ようじらなんて、きいてにゃいでしゅよーーー!」
森の中に虚しく響く優希の声に、誰も答える者はいない。
ステラと名前を変え、女神から遣わされた魔物であるティーガー(虎)に気に入られて護られ、冒険者に気に入られ、辿り着いた村の人々に見守られながらもいろいろとやらかす話である。
★主人公は口が悪いです。
★不定期更新です。
★ツギクル、カクヨムでも投稿を始めました。
猫好きのぼっちおじさん、招かれた異世界で気ままに【亜空間倉庫】で移動販売を始める
遥風 かずら
ファンタジー
【HOTランキング1位作品(9月2週目)】
猫好きを公言する独身おじさん麦山湯治(49)は商売で使っているキッチンカーを車検に出し、常連カードの更新も兼ねていつもの猫カフェに来ていた。猫カフェの一番人気かつ美人トラ猫のコムギに特に好かれており、湯治が声をかけなくても、自発的に膝に乗ってきては抱っこを要求されるほどの猫好き上級者でもあった。
そんないつものもふもふタイム中、スタッフに信頼されている湯治は他の客がいないこともあって、数分ほど猫たちの見守りを頼まれる。二つ返事で猫たちに温かい眼差しを向ける湯治。そんな時、コムギに手招きをされた湯治は細長い廊下をついて歩く。おかしいと感じながら延々と続く長い廊下を進んだ湯治だったが、コムギが突然湯治の顔をめがけて引き返してくる。怒ることのない湯治がコムギを顔から離して目を開けると、そこは猫カフェではなくのどかな厩舎の中。
まるで招かれるように異世界に降り立った湯治は、好きな猫と一緒に生きることを目指して外に向かうのだった。
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
児童書・童話
毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
連載時、HOT 1位ありがとうございました!
その他、多数投稿しています。
こちらもよろしくお願いします!
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394
お持ち帰り召喚士磯貝〜なんでも持ち運び出来る【転移】スキルで異世界つまみ食い生活〜
双葉 鳴
ファンタジー
ひょんなことから男子高校生、磯貝章(いそがいあきら)は授業中、クラス毎異世界クラセリアへと飛ばされた。
勇者としての役割、与えられた力。
クラスメイトに協力的なお姫様。
しかし能力を開示する魔道具が発動しなかったことを皮切りに、お姫様も想像だにしない出来事が起こった。
突如鳴り出すメール音。SNSのメロディ。
そして学校前を包囲する警察官からの呼びかけにクラスが騒然とする。
なんと、いつの間にか元の世界に帰ってきてしまっていたのだ!
──王城ごと。
王様達は警察官に武力行為を示すべく魔法の詠唱を行うが、それらが発動することはなく、現行犯逮捕された!
そのあとクラスメイトも事情聴取を受け、翌日から普通の学校生活が再開する。
何故元の世界に帰ってきてしまったのか?
そして何故か使えない魔法。
どうも日本では魔法そのものが扱えない様で、異世界の貴族達は魔法を取り上げられた平民として最低限の暮らしを強いられた。
それを他所に内心あわてている生徒が一人。
それこそが磯貝章だった。
「やっべー、もしかしてこれ、俺のせい?」
目の前に浮かび上がったステータスボードには異世界の場所と、再転移するまでのクールタイムが浮かび上がっていた。
幸い、章はクラスの中ではあまり目立たない男子生徒という立ち位置。
もしあのまま帰って来なかったらどうなっていただろうというクラスメイトの話題には参加させず、この能力をどうするべきか悩んでいた。
そして一部のクラスメイトの独断によって明かされたスキル達。
当然章の能力も開示され、家族ごとマスコミからバッシングを受けていた。
日々注目されることに辟易した章は、能力を使う内にこう思う様になった。
「もしかして、この能力を金に変えて食っていけるかも?」
──これは転移を手に入れてしまった少年と、それに巻き込まれる現地住民の異世界ドタバタコメディである。
序章まで一挙公開。
翌日から7:00、12:00、17:00、22:00更新。
序章 異世界転移【9/2〜】
一章 異世界クラセリア【9/3〜】
二章 ダンジョンアタック!【9/5〜】
三章 発足! 異世界旅行業【9/8〜】
四章 新生活は異世界で【9/10〜】
五章 巻き込まれて異世界【9/12〜】
六章 体験! エルフの暮らし【9/17〜】
七章 探索! 並行世界【9/19〜】
95部で第一部完とさせて貰ってます。
※9/24日まで毎日投稿されます。
※カクヨムさんでも改稿前の作品が読めます。
おおよそ、起こりうるであろう転移系の内容を網羅してます。
勇者召喚、ハーレム勇者、巻き込まれ召喚、俺TUEEEE等々。
ダンジョン活動、ダンジョンマスターまでなんでもあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる