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二十一年前
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~二十一年前~
《遠くで俺を呼ぶ声がする。
「…う、総!」
それは聞きなれた、毎朝俺を起こす優しい声だ。しかしいつもはその声では起きられず、結局朝食を作りに向かう彼が残したアラームで(なんとか)目が覚めるのだが…
今日は違う。
はっきりと、目が、覚める。
「…トール!」
ガバッと顔を上げた作業で、俺とトールのおでこはぶつかる。
「っつ~~~~!!」
声にならない悲鳴が、透から聞こえた。
「ああっ、悪い!大丈夫か!?」
「そっちこそ…お、俺は大丈夫…」
「いや俺は全く痛くない」
「そっか、よかった」
涙目で優しく笑うトールを見て、俺は心配になる。お人好しすぎる。
…いや、今はそれよりも。
「ここ…どこだ?」
ヒヤリと固くて冷たい地面が、俺の体を冷やす。夏用とはいえ、コート越しでも寒いもんだ。何故俺は床で寝ているんだという疑問は、深夜にたまに廊下を徘徊しているらしい俺にとっては今更の事だが、だけどもこの床は寮のとは違って酷く冷たいんだ。
俺はゆっくりと頭をたたき起こしていく。
「確か、俺は…そうだ、山でやられたんだった…」
あの時の感覚を思い出す。首にスタンガンって食らったこと無かったけど、あんなに痛いんだな。念のため、筋辺りに痕が出来ていないか確認してもらったが、全くそんな痕はないらしい。
「トールは…」
「俺はたぶん、頭を殴られたんだと思う。でも頭に傷とか、痛みとか、無いんだ。」
「そ、そうか…」
トールがいうならそうなんだろうけど…殴られて痕とか痛みが全くないのっておかしくないのか?そんなもんなのか?
俺は念のため確認してみたが、やっぱりトールは怪我ひとつ無い。
ふわふわだけど結構荒く跳ねている髪は少し心地よくて、ぐしゃぐしゃって乱してやりたいけど、今はそれどころじゃない。
とりあえず、トールと俺の身には怪我の痕跡はない。あとは誠と悠太だが…
「…それで、悠太と誠は?…そうだ、悠太…!思い出した、悠太、卯月に殴られて…!」
俺はそこで、やっと悠太が殴られたこと、そして殴ったのが卯月だったということを思い出す。
そして卯月も悠太も、誠だってここにはいない。
困惑してると、トールは俺に申し訳なさそうに言った。
「残念ながら、俺もさっき起きたんだけど、悠太や誠はこの近くにはいないっぽいんだ…」
「そうか、なら探しに行こうぜ」
「…………ええと…」
「トール?」
「…どうする?」
参ったように口許だけ力なく笑うトールはゆっくりと、右手を伸ばして俺の後ろを指す。
導かれるまま振り向くと、そこには…
「鉄…格、子?」
太くて丈夫そうな鉄格子が、俺達の今いる場所にあった。なんだ、これ。
出入り口というか、コンクリートかどうかわからないけど、とにかくこの部屋の四面の壁の内、窓枠ひとつない壁じゃないのはどうやらそこだけで、つまりは…
「俺達、捕まったってことか!?消えた皆みたいに!?」
「うん多分…見たところ…ここには古い鏡とトイレはあるけど、それ以外になにもない。」
トールは頷く。
「…まじか」
俺は鉄格子を掴み、思いっきり引っ張るが、勿論開かない。鉄格子の隙間から奥の方を見てみる。
左の方を見ると、ずっと奥に厨房の冷凍室ありそうなくらい丈夫そうな鉄のドアがある。磨かれていて、鏡みたいだ。ドアに行くまでに距離はあるが、牢屋が幾つか並んでいるわけではなく、俺達のいる牢屋より先は広がった廊下があるだけだ。
鉄格子の先で右を向くと白い壁がある。唯一、目の前には牢屋があるが、誰もいない。
「…どう出ようか」
いつの間にか隣に来たトールが、俺の呟きに助言を出した。
「奥の牢屋、見える?あの牢屋の右端の鉄格子。あそこにフックあるの、見える?」
「お?あ、そうだな…って、あれ」
「鍵がついてるでしょ。」
俺はそう言われるが否や手を伸ばす。あと手が二メートルほど長ければなんとかなる。
「うん、無理だね…。」
「ぐぬぬ…」
さて、どうするか。
不思議だ、誠も悠太も卯月も心配だというのに、一人でないからか俺にしちゃ、冷静だ。
負けるな俺!
「どうにかして、出るぞ!」
「…!ああ、そうだね!」
となると、まずはなにする。
俺は…
コツリ。
どこからともなく、足音が聞こえた。》
「暁先生!」
教室の教卓で睡眠をとっていた暁教師に、正珠は非情な騒音ドア開け攻撃で存在を知らせる。避けることは不可能の先制攻撃だ。
「ウゴッ!」
暁は情けない声と共に目が覚める。
そして正珠を見るなり、暁は忌まわしそうに顔をしかめる。
「正珠、朝早くから呼び出しておいて遅れるのはなんなんだ?」
「やだな、ピッタリですよ。ほら」
正珠は時計を指差した。時計の短針は七のところで、ほんの、ほんの僅かに右にずれている。長身は一のところピッタリで、つまりは今は、七時五分。
暁は社会人となってからは五分前行動が当たり前だったので、正珠が遅刻したと勘違いしたのだ。
「…あ、ぴったりなのか…それはすま…いや、というか、そもそも朝早すぎるからな!?夜に果たし状みたいなメール送ってくんなよ」
「でも来てくれましたよね?いやぁ、万一のために連絡先を空から聞いといて良かったです」
「…はぁ…」
暁は反省の色の無い正珠に呆れてものも言えなかった。
教室の外は晴れていて、小鳥の声が僅かに聞こえる。しかしそれ以上に、陸上クラブの掛け声がもう聞こえていた。
正珠は窓まで近づいて、外を見る。
「いやぁ。彼ら朝早いですね」
「…おい」
「はい?」
「呼び出した用件は?そもそもお前一人か?」
「はい。今日は二人で話したかったんです。」
窓から視線をそらして、正珠は暁の方を振り替える。口許は笑いつつも、どこか睨むように暁を見据えた。
「せーじゅ、単刀直入にいきますね。ずばり、話してください」
「話す?」
「何故暁先生が失踪したクラスメイトの存在を忘れたふりをしたのか、そして二十一年前のことも。」
「何をいっているか、わからないな?」
「嘘をつかないでください!」
キーンと耳に響くほどに叫んだ正珠は、暁に携帯画面を見せつけた。暁の机に張られていた集合写真を納めた写真がある。
「…それは?」
「退学覚悟で貴方の職員室へ忍び込みました。これはせーじゅの決意であり、暁先生への挑発です。」
「ちょうは」「挑発です。意思の強さの証明と言った方がいいですか?」
「…………」
暁は徹底的証拠を見せられ、思わず黙り込む。正珠の食い気味の強い信念もあってか、正珠は暁の強引にしらばっくれて乗りきろうとする魂胆を揺るがせた。
しかし暁も、引き下がれない。
「…俺がその、挑発に乗るとでも?」
「ということは、クラスメイトの事は覚えているけど教えられない、と、そう仰っているのですね?」
「…そうだ、携帯の写真なんて今時加工し放題だろ。俺の生徒は写真のような数はいないし、どうせからかっているんじゃないのか?最近俺、疲れててな。俺の記憶は…数年前にもったクラスと交ざっているかもしれないな。」
それはとても苦しいいいわけだが、ハッキリと目で見た正珠にそんなものは効かなかった。誤魔化せる段階はもうとうに過ぎてたのである。
「ならば、フィルムカメラの方を現像しましょう。そちらの方でもバッチリと写真を撮りましたから。」
「なっ…」
「せーじゅ達は本気なんです。教えてください、さあ。」
正珠は暁の目の前までつめよって、押しきろうと必死になる。空達をおいてきた手前、ここで失敗は許されないのだ。
何故空達を置いて、単独行動をしたのか?それには理由がある。
正珠はもし、言葉で説得が出来ないなら、『強行手段』を取ろうとしていた。その結果次第では今後の学校での生活はままならないまま、そもそも送れない可能性も高い。
被害は少ないように。
合理的に、それでいて、皆は保守的に、自分は積極的に。
共倒れだけはしたくなかった正珠が選んだ選択が、これだったのだ。
「…なら。」
「はい?」
緊張した状態で正珠は冷や汗を拭う。暁はもう目は合わせずに、声だけで正珠と対話していた。
外の応援は、二人の耳にはもう聞こえていない。
「それほどまで教えてほしいなら、俺を脅したり、もっと強行手段にとった方がいいんじゃないか?何故それをしない。何故あくまで理論的に揶揄そうとしているんだ。」
「……」
――いや、強行手段は取ろうとしている。
しかしそうとも言えず、一瞬、正珠は考える。手応えのあるような物言いに、乗っかからない手はない。
「せーじゅは暁先生を脅すことは可能でした。大人だろうが、教室で問いつめたその時は総や透だっていた。だから、暴力によって貴方から真実を聞き出すことは容易い。」
教師と生徒。そんな立場でなくても、人と人とのあり方として、集団的暴力は悪手だ。今後に多く影響するし、何より道徳的に問題視されるだろう。
が、正珠の『職員室へ忍び込んだ』という事実は、少なからず正珠の究極状態、目的のためならば手段を選ばない性格を揶揄している。
しかし正珠は暴力に走らなかった。その理由を、正珠は諭すように語った。
「総はある言葉を残しました。…残したっていうのは嫌な言い方だけど…ともかく、彼は貴方を信用し、信頼したいと言った。理由があるから、忘れたふりをしたと。」
「……………………」
「…あのね…
せーじゅは!!」
バッと両手を広げて、左掌で胸の中心を叩く。同時に上半身を前のめりにして、必死に訴えかけた。そこにはもう、嘘はない。
「何をすれば良いか、ずっとわからない。だけど、立ち止まれないから手当たり次第に調べた。だけど貴方達は何も教えちゃくれなかった。だけど…貴方を信じたい…だから、もっと遠回りをして…善果さんやユミユミにも話を聞いて…ひたすら唯一ヒントになりそうな二十一年前の事故を調べて、少しでも今の事件との類似性、それによって導き出される皆の居場所を考えた…だけど、わかんなくて…でも出来ることはして…そして、貴方に再びたどり着いた。せーじゅ達はすべき事を全て終えた!だから、もう、貴方しかいないんです…お願いだ、協力をしてほしい!」
「…」
「総を信じているから貴方を信じた。だけど今、せーじゅは、ただあなた信じたい、先生と協力したい。もしも貴方がせーじゅ達のために忘れたふりを決めたのならば、どうかこの本気の思いを汲み取って、一緒に解決へと導いてはくれませんか?」
シーンと教室は静かだ。机や椅子の、床を引きずる音も、下らない雑談も、チョークが黒板を汚す音も、プロジェクターの効果音さえ鳴らない。
数秒は正珠の感覚を、何時間も狂わせるかのような苦痛を味あわせる。
やがて暁は、小さくため息をついた。
「なんだ、俺が黙っていてもそんなに調べられるのか。それじゃあ俺が、お前に今さら手を貸さない理由もないな。」
「え…!?」
嘲笑気味に、暁は口角を少し上げる。
「負けたよ、負けた。俺は正珠や総の信頼を裏切れるほど、冷たくないね」
「あ、暁先生…!!」
正珠は思わず誰彼構わず抱きつく癖が発生されかけたが抑え、代わりに深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「ただし!そんなに期待するなよ。俺だって全てを知っていたら、こんなに失踪者を出さずにすませていたからな。」
暁は舞い上がる正珠に釘を刺すが、その細く短い釘は効力を発する前にどこかへ飛んでいった。
「そうだな、俺は二十一年前、ちょうど狼クラスを受け持っていた。だから事故当時も俺は皆の側にいた。」
二人は教室の中央で、向かい合わせに座った。正珠が座ったのは本来桃花の席で、暁は夜の椅子だが、そこはちょうど早めのクーラーの風がほどよくあたる。今日は雨じゃなくとも、湿気の残ってじめじめした肌感覚を乾かしてくれる除湿は、嫌な感覚を消し飛ばしてくれている。
「俺は事故がある前までバスの中で寝てしてしまっていてな。おそらくだが、事故の後はずっと気を失っていて、それで目を覚ましたのは数日後の病院だ。だから俺が話せるのは、何故そういったニュースが外に漏れなかったのか、だ。」
「それは何故?」
「簡単さ、あのバス事故には生き残った者がいた。…何人か、わかるか?」
「先生をいれて、五人」
「そう。」
即答した正珠に、暁は優秀だと誉めるような、調べすぎだと呆れるような、そんななんとも言えない顔をしてから頷く。
「弓子達生徒四人が生き残った。報道の奴らや一部のミーハーな人間は表現の自由という盾を片手に四人をしつこく追い回すという未来が見えている…だから俺は仲の良かった教師…今の校長に頼み込み、学校の教員を全員集めて、学校ぐるみで事件を隠すと決めた。もちろん、他の生徒にもだ。元から寮棟も違って、クラブには言っていたものも極端に少ない。何故か嫌われている傾向にあった狼クラスの事なんて、隠すのは案外楽だった。」
「でも、いきなり四人に減ったんでしょ?ならば気づくのは多いと思うけど…」
「だから噂や怪談として今も残り続けてるだろ?」
「あ…」
正珠は空のノートの、ぎっちり詰め込まれた文字を思い出す。以上に多い怪談や噂は、事実を隠した代償にしては少ない気もするが、とにかく不完全ながらも暁は隠蔽に成功したということだけはわかりきっている。
「弓子達も基本授業は寮の会議室で、俺が教えてたっけな。全教科は無理だから、仲良い教師数名と代わりばんこに行ってさ。あいつら頭良かったから、他のクラスと比べても、授業の遅れもなかった。むしろ進んでたんだ。」
「寮に昔、会議室なんてあったんですね。」
「おう、一番セキュリティーがしっかりしてた部屋だったよ。今は食堂の一部になってるけど、それほど外見は昔と変わっちゃいないぞ。机や椅子の配置や大きさが違うくらいでな。」
「へぇ…」
寮に来てから一度も知らなかったな…と、正珠と暁はそんなどうでも良いような会話を交えつつ、暁の独白は続く。
「そんで…時間は経って、八年くらいか?それくらい前にな、一人のやつが幻覚を見始めたんだ。狼クラスの奴らが襲ってくるってな。きっと昔から皆、限界がきてたんだ。それから続々と似た症状を持ったやつが増えてってな…結局、最後には教師の総入れかえを行ったんだ。」
「そ、そんなことが可能なの?」
「ん?ああ。実際できたろ。校長様々だな、全く。」
はあ、とため息を軽くついた暁は数秒間だけ木製椅子を無理矢理後ろに倒す。
よって向かい合っていた暁と少し距離が離れた正珠は、暁が疲労していることにも気がついてはいたが、それでも聞きたいこと全てを聞き終えようと話を切り替えた。
「じゃあ次だけど、先生はなんで今回の失踪事件、知らないような素振りを見せたんですか?先生だけじゃない、他の教師だってそうだ。何をせーじゅ達から隠そうとしている…んですか」
「お前、容赦なく突っ込んでくるな…もうちょいゆっくりいっても…」
「良くないです。」
正珠は机を握った左拳の四本の指の背でコツコツ鳴らすと、慌てて暁は正珠の言う通りに話し出す。
「わかったよ。……いや、本当はわかっていないんだ。」
「は、はぁ…?」
明確な答えなどなく、質疑の答えとして、曖昧ですらない言い草に思わず生返事をしたところで、暁は薄黒い双眸を正珠に向けた。
正珠には目の前の男がわずかに息を吸い込む音が聞こえて、そして次の瞬間に聞こえるだろう言葉を必死に聞き取ろうと、長い数秒にも満たない時間、集中して耳を傾ける。
――暁から飛び出たのは、思ってもいない言葉だった。
「超常現象といったら…お前は怒るか?」
「超常現象ぅ?」
一瞬、思考停止。
次に動揺、疑問。
そして「馬鹿じゃねえの?」という考えるより先に出た失言に慌てながら、最後に正珠の脳内に「それがありならなんでもありじゃねえか!」という少し荒っぽい心の声が聞こえたところで、やっとこさ暁は言葉の意味を続けた。
「正珠…俺は確かに、皆を覚えている。一年以上一緒なんだ、忘れるはずがない…ないはずなんだ。」
「しかし…」と正珠に有無を言わさず、暁は言葉を綴った。
「しかし、つい最近は…とっさに名前が思い浮かばない。顔がわからない。クラスメイトは元々、何故か四人だけな気がして、ならないんだ。」
「四人で…」
「クッ、ぼやけた皆を思い出そうとすると頭が痛くまでなるんだよ。」
「大丈夫ですか、腹痛薬ならありますけど」
「それは今は要らねえ」
左胸ポケットのペンとノートの隙間から見える缶ケースを取りだしたところを暁にバッサリと断られ、少しだけ正珠はしょげる。腹痛薬と胃薬と解熱剤はあるのに、何故か頭痛薬だけはない紫の缶ケースを再びポケットに仕舞い込むと、暁は申し訳なさそうに「腹が痛くなったら言う」と正珠を気遣ってやった。正珠は同時にストックが減らないで良かったと言いそうになったので、慌てて口を塞いだ。
「っと、話が逸れちまったが…ともかくそういうこった。二十一年前は故意に事実を隠したが…今は違う。お前らの事だけが抜けて忘れて…頭がおかしくなりそうだ。」
「そんな馬鹿な」
「信じてもらえなくてもしかたがない。だがそれでも俺を信じてくれるなら、今回の失踪事件の事は深入りしないでほしい…と言いたかったが、もう結構深入りしてんだよな、お前ら。」
「そりゃ、まあ」
平然と言う正珠に呆れた暁はふと、右手を伸ばして正珠の頭を撫でる。
「じゃあ、くれぐれも頑張れよ。俺だって協力できることはなんだってするさ。」
そのあと、暁は我に返ったように右手を引っ込めた。
「って悪い。教育委員会行きだったぞ、全く…」
「ほう、ならせーじゅが告発すればワンチャンス…」
「やめてください!」
正珠としてはいない父親のようでほんの少しだけ嬉しかったのだが、そんなことは勿論言えないので笑い飛ばすと、焦って暁は必死に懇願する。さすがにからかいすぎたと反省した正珠は話を切り替えようとした。
が、それより早くタイミングを見た暁はポケットに雑な四つ折りのノートの紙切れ達を取り出す。
「?それは?」
「…『透夏』って奴の日記の切れ端だ。二十一年前のでな。」
手に取った紙は、なるほど確かに汚れきっている。それでも保存の仕方が良かったようで、開いた紙の文字は辛うじて読める。
「バス事故の被害者?」
「いいや、唯一最後まで事故を主張した、一学年下のニンゲンだよ。」
「…!そうなんだ」
その頃にはすっかり敬語も抜け落ちた正珠は素早く文字を追う。速読は得意で、数ページぎっしりと詰められた独特な文字は、ざっと目を通しただけではあるが、全て表だけ文字があったこともあって、ほんの数分で読み終えた。
それは感情的で、まるでファンタジー小説のような日記だ。物語はバス事故の後、異世界に迷い込んだということから始まり、そこから何があったかなのかが簡潔に記載されていた。登場する名前は全てイニシャルで誰かなのかははっきりとはわからない。
ただ、一つ言えることはノート中には確かに異常現象を遥かに越えたおかしな世界観が描かれている。緻密すぎて、本当にあり得るんじゃないかとすら思えてくる程に。
いや…必ずノートの中で語られる異世界や超常現象はある、と『信じきらせる力がそれにはあった』。
常識が塗り変わる瞬間に動揺しながらも、暁に訊ねる。
「…これ、先生が書いたんじゃあないですね?」
「違うよ、俺の文字は授業で知ってるだろ。こんな文字は書かない。」
「……」
「それにこの紙、古いんだ。ノート本体はどっかにいったんだが、これだけはな…」
暁は遠い目をする。
しかし見るところ、このノートの切れた部分は故意に千切られていると正珠はすぐに気がついた。しかも全ての紙の切れかたは全く同じでもある。終いにその千切れた端以外の全てに目立って千切れた部分はない。余程丁寧に保存されていたとわかる。
――余程の事がなければ、これは…ノートを千切ったのは、先生がしたことだ。しかもただのノートじゃない、異世界について説得力のある、少し変わったノートである。
そんな人の日記を千切るのはただ事じゃあないだろう。怪しいの極みだ。
それに…文字から見るに、そもそも、これはあの薩摩芋色のノートの一部だと推測できる。
そもそも二十一年前の、あのノートがずっと図書室にあるのも少し不自然だったのに、更に教師の暁から片割れが出てくるとなると、それはもう偶然では済まされない。
――疑うべきなのは、先生かもしれない。
「…けれど、何故か今、これを見せてきたってことは…」
正珠は小声で呟く。
悶々とした思考を整理するためだ。
(…本当に不都合によって千切って、二十一年前を隠したいなら、せーじゅからノートごと隠せば良い。
ましてや、千切ったノートの欠片を手渡すなんてしないはず。
わざわざ千切って人目から離したのに、渡してきたということは、余程の意味があって、善意によってだろう。
疑うばかりで良いのだろうか?
それに…信じると約束してしまった。道理は守らなければならない。)
――不思議なノートの端を見せてくれたんだ、せーじゅも先生をちゃんと、信じよう。
――そうだ、最後に念のため。
「先生、これを渡してどうする気です?人の日記の一部だなんて、理由があるんでしょう?」
「…少しでも信頼して欲しいんだよ。例え少ししか役に立たない物でもな。」
「……!」
強い信頼。
正珠は一人、にやりと笑う。
暁のノートの件はこの際置いておいて、今はとにかくノートを読み解こう。なにより、このノートの本体も正珠が持っている。
「ええ、そうですね!」
正珠は一人、こう決意した。
一人で決めた、一人で行動した。
――責任は全て背負おう。
だから、総、空、光、皆…一人勝手を許してね。
こうして話し合いは一段落ついて、教室を暁が出る間際。
ふと思い出した、と暁は振り向き、正珠にこう言った。
「そうだ。最後にこれだけ話さないとな。赤弓弓子についてだ。」
「ユミユミ?」
「ユミユミって…まあまあ年の差あるんだぞ…あいつはなんでそう呼ばせてるんだ…」
「愛称に年はないですよ、先生」
「…まあいい。弓子はな、弟をかつて事件で失ってる。」
暁は突然語り出したかと思えば、正珠を指差す。
「それからあいつはずっと、弟の復活を望んでいる。卒業論文にまで書くくらいだからな。しかも、それがまた本気で調べられてた。まあ、非現実的だったがな。」
「えっ」
「そしてあいつは透夏のノートを探してもいた。その時には俺はこの切れ端を持ってたんだが、なんか嫌な予感がして、知らねえって嘘をついた。」
「そうなんですか…」
「気になったから、一応な。じゃ。」
暁は靴のかかとをカツカツならしながら立ち去る。
正珠は唖然としながら、顔も知らない透夏に想いを馳せた。
――二十一年前、何があったんだ。
知らないことばかりで嫌になる、と正珠は大きく息を吐いた。
《遠くで俺を呼ぶ声がする。
「…う、総!」
それは聞きなれた、毎朝俺を起こす優しい声だ。しかしいつもはその声では起きられず、結局朝食を作りに向かう彼が残したアラームで(なんとか)目が覚めるのだが…
今日は違う。
はっきりと、目が、覚める。
「…トール!」
ガバッと顔を上げた作業で、俺とトールのおでこはぶつかる。
「っつ~~~~!!」
声にならない悲鳴が、透から聞こえた。
「ああっ、悪い!大丈夫か!?」
「そっちこそ…お、俺は大丈夫…」
「いや俺は全く痛くない」
「そっか、よかった」
涙目で優しく笑うトールを見て、俺は心配になる。お人好しすぎる。
…いや、今はそれよりも。
「ここ…どこだ?」
ヒヤリと固くて冷たい地面が、俺の体を冷やす。夏用とはいえ、コート越しでも寒いもんだ。何故俺は床で寝ているんだという疑問は、深夜にたまに廊下を徘徊しているらしい俺にとっては今更の事だが、だけどもこの床は寮のとは違って酷く冷たいんだ。
俺はゆっくりと頭をたたき起こしていく。
「確か、俺は…そうだ、山でやられたんだった…」
あの時の感覚を思い出す。首にスタンガンって食らったこと無かったけど、あんなに痛いんだな。念のため、筋辺りに痕が出来ていないか確認してもらったが、全くそんな痕はないらしい。
「トールは…」
「俺はたぶん、頭を殴られたんだと思う。でも頭に傷とか、痛みとか、無いんだ。」
「そ、そうか…」
トールがいうならそうなんだろうけど…殴られて痕とか痛みが全くないのっておかしくないのか?そんなもんなのか?
俺は念のため確認してみたが、やっぱりトールは怪我ひとつ無い。
ふわふわだけど結構荒く跳ねている髪は少し心地よくて、ぐしゃぐしゃって乱してやりたいけど、今はそれどころじゃない。
とりあえず、トールと俺の身には怪我の痕跡はない。あとは誠と悠太だが…
「…それで、悠太と誠は?…そうだ、悠太…!思い出した、悠太、卯月に殴られて…!」
俺はそこで、やっと悠太が殴られたこと、そして殴ったのが卯月だったということを思い出す。
そして卯月も悠太も、誠だってここにはいない。
困惑してると、トールは俺に申し訳なさそうに言った。
「残念ながら、俺もさっき起きたんだけど、悠太や誠はこの近くにはいないっぽいんだ…」
「そうか、なら探しに行こうぜ」
「…………ええと…」
「トール?」
「…どうする?」
参ったように口許だけ力なく笑うトールはゆっくりと、右手を伸ばして俺の後ろを指す。
導かれるまま振り向くと、そこには…
「鉄…格、子?」
太くて丈夫そうな鉄格子が、俺達の今いる場所にあった。なんだ、これ。
出入り口というか、コンクリートかどうかわからないけど、とにかくこの部屋の四面の壁の内、窓枠ひとつない壁じゃないのはどうやらそこだけで、つまりは…
「俺達、捕まったってことか!?消えた皆みたいに!?」
「うん多分…見たところ…ここには古い鏡とトイレはあるけど、それ以外になにもない。」
トールは頷く。
「…まじか」
俺は鉄格子を掴み、思いっきり引っ張るが、勿論開かない。鉄格子の隙間から奥の方を見てみる。
左の方を見ると、ずっと奥に厨房の冷凍室ありそうなくらい丈夫そうな鉄のドアがある。磨かれていて、鏡みたいだ。ドアに行くまでに距離はあるが、牢屋が幾つか並んでいるわけではなく、俺達のいる牢屋より先は広がった廊下があるだけだ。
鉄格子の先で右を向くと白い壁がある。唯一、目の前には牢屋があるが、誰もいない。
「…どう出ようか」
いつの間にか隣に来たトールが、俺の呟きに助言を出した。
「奥の牢屋、見える?あの牢屋の右端の鉄格子。あそこにフックあるの、見える?」
「お?あ、そうだな…って、あれ」
「鍵がついてるでしょ。」
俺はそう言われるが否や手を伸ばす。あと手が二メートルほど長ければなんとかなる。
「うん、無理だね…。」
「ぐぬぬ…」
さて、どうするか。
不思議だ、誠も悠太も卯月も心配だというのに、一人でないからか俺にしちゃ、冷静だ。
負けるな俺!
「どうにかして、出るぞ!」
「…!ああ、そうだね!」
となると、まずはなにする。
俺は…
コツリ。
どこからともなく、足音が聞こえた。》
「暁先生!」
教室の教卓で睡眠をとっていた暁教師に、正珠は非情な騒音ドア開け攻撃で存在を知らせる。避けることは不可能の先制攻撃だ。
「ウゴッ!」
暁は情けない声と共に目が覚める。
そして正珠を見るなり、暁は忌まわしそうに顔をしかめる。
「正珠、朝早くから呼び出しておいて遅れるのはなんなんだ?」
「やだな、ピッタリですよ。ほら」
正珠は時計を指差した。時計の短針は七のところで、ほんの、ほんの僅かに右にずれている。長身は一のところピッタリで、つまりは今は、七時五分。
暁は社会人となってからは五分前行動が当たり前だったので、正珠が遅刻したと勘違いしたのだ。
「…あ、ぴったりなのか…それはすま…いや、というか、そもそも朝早すぎるからな!?夜に果たし状みたいなメール送ってくんなよ」
「でも来てくれましたよね?いやぁ、万一のために連絡先を空から聞いといて良かったです」
「…はぁ…」
暁は反省の色の無い正珠に呆れてものも言えなかった。
教室の外は晴れていて、小鳥の声が僅かに聞こえる。しかしそれ以上に、陸上クラブの掛け声がもう聞こえていた。
正珠は窓まで近づいて、外を見る。
「いやぁ。彼ら朝早いですね」
「…おい」
「はい?」
「呼び出した用件は?そもそもお前一人か?」
「はい。今日は二人で話したかったんです。」
窓から視線をそらして、正珠は暁の方を振り替える。口許は笑いつつも、どこか睨むように暁を見据えた。
「せーじゅ、単刀直入にいきますね。ずばり、話してください」
「話す?」
「何故暁先生が失踪したクラスメイトの存在を忘れたふりをしたのか、そして二十一年前のことも。」
「何をいっているか、わからないな?」
「嘘をつかないでください!」
キーンと耳に響くほどに叫んだ正珠は、暁に携帯画面を見せつけた。暁の机に張られていた集合写真を納めた写真がある。
「…それは?」
「退学覚悟で貴方の職員室へ忍び込みました。これはせーじゅの決意であり、暁先生への挑発です。」
「ちょうは」「挑発です。意思の強さの証明と言った方がいいですか?」
「…………」
暁は徹底的証拠を見せられ、思わず黙り込む。正珠の食い気味の強い信念もあってか、正珠は暁の強引にしらばっくれて乗りきろうとする魂胆を揺るがせた。
しかし暁も、引き下がれない。
「…俺がその、挑発に乗るとでも?」
「ということは、クラスメイトの事は覚えているけど教えられない、と、そう仰っているのですね?」
「…そうだ、携帯の写真なんて今時加工し放題だろ。俺の生徒は写真のような数はいないし、どうせからかっているんじゃないのか?最近俺、疲れててな。俺の記憶は…数年前にもったクラスと交ざっているかもしれないな。」
それはとても苦しいいいわけだが、ハッキリと目で見た正珠にそんなものは効かなかった。誤魔化せる段階はもうとうに過ぎてたのである。
「ならば、フィルムカメラの方を現像しましょう。そちらの方でもバッチリと写真を撮りましたから。」
「なっ…」
「せーじゅ達は本気なんです。教えてください、さあ。」
正珠は暁の目の前までつめよって、押しきろうと必死になる。空達をおいてきた手前、ここで失敗は許されないのだ。
何故空達を置いて、単独行動をしたのか?それには理由がある。
正珠はもし、言葉で説得が出来ないなら、『強行手段』を取ろうとしていた。その結果次第では今後の学校での生活はままならないまま、そもそも送れない可能性も高い。
被害は少ないように。
合理的に、それでいて、皆は保守的に、自分は積極的に。
共倒れだけはしたくなかった正珠が選んだ選択が、これだったのだ。
「…なら。」
「はい?」
緊張した状態で正珠は冷や汗を拭う。暁はもう目は合わせずに、声だけで正珠と対話していた。
外の応援は、二人の耳にはもう聞こえていない。
「それほどまで教えてほしいなら、俺を脅したり、もっと強行手段にとった方がいいんじゃないか?何故それをしない。何故あくまで理論的に揶揄そうとしているんだ。」
「……」
――いや、強行手段は取ろうとしている。
しかしそうとも言えず、一瞬、正珠は考える。手応えのあるような物言いに、乗っかからない手はない。
「せーじゅは暁先生を脅すことは可能でした。大人だろうが、教室で問いつめたその時は総や透だっていた。だから、暴力によって貴方から真実を聞き出すことは容易い。」
教師と生徒。そんな立場でなくても、人と人とのあり方として、集団的暴力は悪手だ。今後に多く影響するし、何より道徳的に問題視されるだろう。
が、正珠の『職員室へ忍び込んだ』という事実は、少なからず正珠の究極状態、目的のためならば手段を選ばない性格を揶揄している。
しかし正珠は暴力に走らなかった。その理由を、正珠は諭すように語った。
「総はある言葉を残しました。…残したっていうのは嫌な言い方だけど…ともかく、彼は貴方を信用し、信頼したいと言った。理由があるから、忘れたふりをしたと。」
「……………………」
「…あのね…
せーじゅは!!」
バッと両手を広げて、左掌で胸の中心を叩く。同時に上半身を前のめりにして、必死に訴えかけた。そこにはもう、嘘はない。
「何をすれば良いか、ずっとわからない。だけど、立ち止まれないから手当たり次第に調べた。だけど貴方達は何も教えちゃくれなかった。だけど…貴方を信じたい…だから、もっと遠回りをして…善果さんやユミユミにも話を聞いて…ひたすら唯一ヒントになりそうな二十一年前の事故を調べて、少しでも今の事件との類似性、それによって導き出される皆の居場所を考えた…だけど、わかんなくて…でも出来ることはして…そして、貴方に再びたどり着いた。せーじゅ達はすべき事を全て終えた!だから、もう、貴方しかいないんです…お願いだ、協力をしてほしい!」
「…」
「総を信じているから貴方を信じた。だけど今、せーじゅは、ただあなた信じたい、先生と協力したい。もしも貴方がせーじゅ達のために忘れたふりを決めたのならば、どうかこの本気の思いを汲み取って、一緒に解決へと導いてはくれませんか?」
シーンと教室は静かだ。机や椅子の、床を引きずる音も、下らない雑談も、チョークが黒板を汚す音も、プロジェクターの効果音さえ鳴らない。
数秒は正珠の感覚を、何時間も狂わせるかのような苦痛を味あわせる。
やがて暁は、小さくため息をついた。
「なんだ、俺が黙っていてもそんなに調べられるのか。それじゃあ俺が、お前に今さら手を貸さない理由もないな。」
「え…!?」
嘲笑気味に、暁は口角を少し上げる。
「負けたよ、負けた。俺は正珠や総の信頼を裏切れるほど、冷たくないね」
「あ、暁先生…!!」
正珠は思わず誰彼構わず抱きつく癖が発生されかけたが抑え、代わりに深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「ただし!そんなに期待するなよ。俺だって全てを知っていたら、こんなに失踪者を出さずにすませていたからな。」
暁は舞い上がる正珠に釘を刺すが、その細く短い釘は効力を発する前にどこかへ飛んでいった。
「そうだな、俺は二十一年前、ちょうど狼クラスを受け持っていた。だから事故当時も俺は皆の側にいた。」
二人は教室の中央で、向かい合わせに座った。正珠が座ったのは本来桃花の席で、暁は夜の椅子だが、そこはちょうど早めのクーラーの風がほどよくあたる。今日は雨じゃなくとも、湿気の残ってじめじめした肌感覚を乾かしてくれる除湿は、嫌な感覚を消し飛ばしてくれている。
「俺は事故がある前までバスの中で寝てしてしまっていてな。おそらくだが、事故の後はずっと気を失っていて、それで目を覚ましたのは数日後の病院だ。だから俺が話せるのは、何故そういったニュースが外に漏れなかったのか、だ。」
「それは何故?」
「簡単さ、あのバス事故には生き残った者がいた。…何人か、わかるか?」
「先生をいれて、五人」
「そう。」
即答した正珠に、暁は優秀だと誉めるような、調べすぎだと呆れるような、そんななんとも言えない顔をしてから頷く。
「弓子達生徒四人が生き残った。報道の奴らや一部のミーハーな人間は表現の自由という盾を片手に四人をしつこく追い回すという未来が見えている…だから俺は仲の良かった教師…今の校長に頼み込み、学校の教員を全員集めて、学校ぐるみで事件を隠すと決めた。もちろん、他の生徒にもだ。元から寮棟も違って、クラブには言っていたものも極端に少ない。何故か嫌われている傾向にあった狼クラスの事なんて、隠すのは案外楽だった。」
「でも、いきなり四人に減ったんでしょ?ならば気づくのは多いと思うけど…」
「だから噂や怪談として今も残り続けてるだろ?」
「あ…」
正珠は空のノートの、ぎっちり詰め込まれた文字を思い出す。以上に多い怪談や噂は、事実を隠した代償にしては少ない気もするが、とにかく不完全ながらも暁は隠蔽に成功したということだけはわかりきっている。
「弓子達も基本授業は寮の会議室で、俺が教えてたっけな。全教科は無理だから、仲良い教師数名と代わりばんこに行ってさ。あいつら頭良かったから、他のクラスと比べても、授業の遅れもなかった。むしろ進んでたんだ。」
「寮に昔、会議室なんてあったんですね。」
「おう、一番セキュリティーがしっかりしてた部屋だったよ。今は食堂の一部になってるけど、それほど外見は昔と変わっちゃいないぞ。机や椅子の配置や大きさが違うくらいでな。」
「へぇ…」
寮に来てから一度も知らなかったな…と、正珠と暁はそんなどうでも良いような会話を交えつつ、暁の独白は続く。
「そんで…時間は経って、八年くらいか?それくらい前にな、一人のやつが幻覚を見始めたんだ。狼クラスの奴らが襲ってくるってな。きっと昔から皆、限界がきてたんだ。それから続々と似た症状を持ったやつが増えてってな…結局、最後には教師の総入れかえを行ったんだ。」
「そ、そんなことが可能なの?」
「ん?ああ。実際できたろ。校長様々だな、全く。」
はあ、とため息を軽くついた暁は数秒間だけ木製椅子を無理矢理後ろに倒す。
よって向かい合っていた暁と少し距離が離れた正珠は、暁が疲労していることにも気がついてはいたが、それでも聞きたいこと全てを聞き終えようと話を切り替えた。
「じゃあ次だけど、先生はなんで今回の失踪事件、知らないような素振りを見せたんですか?先生だけじゃない、他の教師だってそうだ。何をせーじゅ達から隠そうとしている…んですか」
「お前、容赦なく突っ込んでくるな…もうちょいゆっくりいっても…」
「良くないです。」
正珠は机を握った左拳の四本の指の背でコツコツ鳴らすと、慌てて暁は正珠の言う通りに話し出す。
「わかったよ。……いや、本当はわかっていないんだ。」
「は、はぁ…?」
明確な答えなどなく、質疑の答えとして、曖昧ですらない言い草に思わず生返事をしたところで、暁は薄黒い双眸を正珠に向けた。
正珠には目の前の男がわずかに息を吸い込む音が聞こえて、そして次の瞬間に聞こえるだろう言葉を必死に聞き取ろうと、長い数秒にも満たない時間、集中して耳を傾ける。
――暁から飛び出たのは、思ってもいない言葉だった。
「超常現象といったら…お前は怒るか?」
「超常現象ぅ?」
一瞬、思考停止。
次に動揺、疑問。
そして「馬鹿じゃねえの?」という考えるより先に出た失言に慌てながら、最後に正珠の脳内に「それがありならなんでもありじゃねえか!」という少し荒っぽい心の声が聞こえたところで、やっとこさ暁は言葉の意味を続けた。
「正珠…俺は確かに、皆を覚えている。一年以上一緒なんだ、忘れるはずがない…ないはずなんだ。」
「しかし…」と正珠に有無を言わさず、暁は言葉を綴った。
「しかし、つい最近は…とっさに名前が思い浮かばない。顔がわからない。クラスメイトは元々、何故か四人だけな気がして、ならないんだ。」
「四人で…」
「クッ、ぼやけた皆を思い出そうとすると頭が痛くまでなるんだよ。」
「大丈夫ですか、腹痛薬ならありますけど」
「それは今は要らねえ」
左胸ポケットのペンとノートの隙間から見える缶ケースを取りだしたところを暁にバッサリと断られ、少しだけ正珠はしょげる。腹痛薬と胃薬と解熱剤はあるのに、何故か頭痛薬だけはない紫の缶ケースを再びポケットに仕舞い込むと、暁は申し訳なさそうに「腹が痛くなったら言う」と正珠を気遣ってやった。正珠は同時にストックが減らないで良かったと言いそうになったので、慌てて口を塞いだ。
「っと、話が逸れちまったが…ともかくそういうこった。二十一年前は故意に事実を隠したが…今は違う。お前らの事だけが抜けて忘れて…頭がおかしくなりそうだ。」
「そんな馬鹿な」
「信じてもらえなくてもしかたがない。だがそれでも俺を信じてくれるなら、今回の失踪事件の事は深入りしないでほしい…と言いたかったが、もう結構深入りしてんだよな、お前ら。」
「そりゃ、まあ」
平然と言う正珠に呆れた暁はふと、右手を伸ばして正珠の頭を撫でる。
「じゃあ、くれぐれも頑張れよ。俺だって協力できることはなんだってするさ。」
そのあと、暁は我に返ったように右手を引っ込めた。
「って悪い。教育委員会行きだったぞ、全く…」
「ほう、ならせーじゅが告発すればワンチャンス…」
「やめてください!」
正珠としてはいない父親のようでほんの少しだけ嬉しかったのだが、そんなことは勿論言えないので笑い飛ばすと、焦って暁は必死に懇願する。さすがにからかいすぎたと反省した正珠は話を切り替えようとした。
が、それより早くタイミングを見た暁はポケットに雑な四つ折りのノートの紙切れ達を取り出す。
「?それは?」
「…『透夏』って奴の日記の切れ端だ。二十一年前のでな。」
手に取った紙は、なるほど確かに汚れきっている。それでも保存の仕方が良かったようで、開いた紙の文字は辛うじて読める。
「バス事故の被害者?」
「いいや、唯一最後まで事故を主張した、一学年下のニンゲンだよ。」
「…!そうなんだ」
その頃にはすっかり敬語も抜け落ちた正珠は素早く文字を追う。速読は得意で、数ページぎっしりと詰められた独特な文字は、ざっと目を通しただけではあるが、全て表だけ文字があったこともあって、ほんの数分で読み終えた。
それは感情的で、まるでファンタジー小説のような日記だ。物語はバス事故の後、異世界に迷い込んだということから始まり、そこから何があったかなのかが簡潔に記載されていた。登場する名前は全てイニシャルで誰かなのかははっきりとはわからない。
ただ、一つ言えることはノート中には確かに異常現象を遥かに越えたおかしな世界観が描かれている。緻密すぎて、本当にあり得るんじゃないかとすら思えてくる程に。
いや…必ずノートの中で語られる異世界や超常現象はある、と『信じきらせる力がそれにはあった』。
常識が塗り変わる瞬間に動揺しながらも、暁に訊ねる。
「…これ、先生が書いたんじゃあないですね?」
「違うよ、俺の文字は授業で知ってるだろ。こんな文字は書かない。」
「……」
「それにこの紙、古いんだ。ノート本体はどっかにいったんだが、これだけはな…」
暁は遠い目をする。
しかし見るところ、このノートの切れた部分は故意に千切られていると正珠はすぐに気がついた。しかも全ての紙の切れかたは全く同じでもある。終いにその千切れた端以外の全てに目立って千切れた部分はない。余程丁寧に保存されていたとわかる。
――余程の事がなければ、これは…ノートを千切ったのは、先生がしたことだ。しかもただのノートじゃない、異世界について説得力のある、少し変わったノートである。
そんな人の日記を千切るのはただ事じゃあないだろう。怪しいの極みだ。
それに…文字から見るに、そもそも、これはあの薩摩芋色のノートの一部だと推測できる。
そもそも二十一年前の、あのノートがずっと図書室にあるのも少し不自然だったのに、更に教師の暁から片割れが出てくるとなると、それはもう偶然では済まされない。
――疑うべきなのは、先生かもしれない。
「…けれど、何故か今、これを見せてきたってことは…」
正珠は小声で呟く。
悶々とした思考を整理するためだ。
(…本当に不都合によって千切って、二十一年前を隠したいなら、せーじゅからノートごと隠せば良い。
ましてや、千切ったノートの欠片を手渡すなんてしないはず。
わざわざ千切って人目から離したのに、渡してきたということは、余程の意味があって、善意によってだろう。
疑うばかりで良いのだろうか?
それに…信じると約束してしまった。道理は守らなければならない。)
――不思議なノートの端を見せてくれたんだ、せーじゅも先生をちゃんと、信じよう。
――そうだ、最後に念のため。
「先生、これを渡してどうする気です?人の日記の一部だなんて、理由があるんでしょう?」
「…少しでも信頼して欲しいんだよ。例え少ししか役に立たない物でもな。」
「……!」
強い信頼。
正珠は一人、にやりと笑う。
暁のノートの件はこの際置いておいて、今はとにかくノートを読み解こう。なにより、このノートの本体も正珠が持っている。
「ええ、そうですね!」
正珠は一人、こう決意した。
一人で決めた、一人で行動した。
――責任は全て背負おう。
だから、総、空、光、皆…一人勝手を許してね。
こうして話し合いは一段落ついて、教室を暁が出る間際。
ふと思い出した、と暁は振り向き、正珠にこう言った。
「そうだ。最後にこれだけ話さないとな。赤弓弓子についてだ。」
「ユミユミ?」
「ユミユミって…まあまあ年の差あるんだぞ…あいつはなんでそう呼ばせてるんだ…」
「愛称に年はないですよ、先生」
「…まあいい。弓子はな、弟をかつて事件で失ってる。」
暁は突然語り出したかと思えば、正珠を指差す。
「それからあいつはずっと、弟の復活を望んでいる。卒業論文にまで書くくらいだからな。しかも、それがまた本気で調べられてた。まあ、非現実的だったがな。」
「えっ」
「そしてあいつは透夏のノートを探してもいた。その時には俺はこの切れ端を持ってたんだが、なんか嫌な予感がして、知らねえって嘘をついた。」
「そうなんですか…」
「気になったから、一応な。じゃ。」
暁は靴のかかとをカツカツならしながら立ち去る。
正珠は唖然としながら、顔も知らない透夏に想いを馳せた。
――二十一年前、何があったんだ。
知らないことばかりで嫌になる、と正珠は大きく息を吐いた。
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