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2話
しおりを挟むハゾルは今日も忙しく働いていた。
公衆浴場での優雅な時間を忘れ、細工師の親方に怒鳴られながら懸命に手を動かした。ハゾルは不器用で、この歳になっても親方の指示がなければ一人で細工をすることができなかった。
工房は火を使うためじりじりと熱い。さらに炉から煙がもくもくと上がり、まるでベーコンにでもなった気分だ。髪にも指にも匂いが染みついて、なんとも不快だ。
こんな日に、公衆浴場に行けたなら、どれほどさっぱりするだろうか。ハゾルは今日もそう思った。しかし、空は曇天の強風である。風呂に入っても、これではきっとすぐに湯冷めしてしまう。籐の椅子に横たわる贅沢を味わうにはふさわしい日ではない。
ハゾルはぐっと我慢して、仕事に集中した。
例の男から貰った割り札はあるものの、それがあるからといって、ふさわしくない日に風呂にはいるなんて許されない。風呂には正しい入り方があるのだ。
それから、日差しが強すぎたり、暑すぎたり、または雨が降ったりして、なかなか風呂にふさわしい日は訪れなかった。ハゾルは毎日井戸水で清拭をして、体を清潔に保ちつつ、その日が来るのを待った。
ついに日がやってきた。
ハゾルは待ちに待ったその日を悟ると、いつもの二倍の速さで仕事をこなした。これには親方が目を見開いた。そして労いのために肩を叩き、褒められたハゾルはこれで心置きなく風呂に入れると喜んだ。
いつものように絹の服を着こんで公衆浴場にやってくると、ハゾルはおっかなびっくり割り札を差し出した。
すると、いつもは疑いのまなざしを向けてくる案内人は、その日はぱっと笑顔になった。そして「ご案内いたします」と言われた。ハゾルが何事かと首をかしげる暇もなく、奥から現れた男に恭しく頭を下げられた。
そして、奥へと案内された。
ハゾルは途中までは従順に男に着いていった。割り札を持つ者には特別に案内がつくのかと呑気に考えていたからだ。しかし、案内人の足がいつもの浴場に向かっていないことに気が付いて、足を止めた。
「あの……」
「いかがなされましたか」
「こっちは、その、浴場ではないですよね……」
言葉遣いで身分がばれてはいけないと思いながらも、言わずにはいわれなかった。今日はなんとしても風呂に入らなければならない日なのだ。
「ええ、割り札をお持ちの方には、特別な浴場にご案内しております」
ハゾルはその言葉にひっくり返りそうになった。
「特別って……!?」
「どうぞ、こちらへ」
よく教育されているらしい案内人は多くは語らず、ハゾルに歩くように促した。
ハゾルはためらった。慣れた大浴場が好きだった。しかし、風呂好きとして特別な浴場というのも一目見てみたい。
ハゾルは勇気をふり絞って案内人の後ろについていった。
*
そこはこじんまりとした空間だった。黒い床の上に安置された大きな黒石がひょうたんの形にくりぬかれて、そこに乳白色の湯がゆっくりと注ぎ込まれている。大浴場のごうごうと音を立てて注ぎ込まれる大量の湯は壮観であるが、黒石の浴槽からとろとろと湯がこぼれ落ちる音もなんともいえず耳を打つ。
ハゾルはこの小さな浴場を大変気に入った。天井が低いが、大きな窓があり、そこから夜空を見ることができる上に、ハゾルお気に入りの籐の寝椅子もあった。質素な木の壁も清潔感があって好ましい。
彼は手早く体を洗うと、その浴槽に体を沈めた。
ハゾルが湯につかっては、火照った体を籐の椅子で冷まし、といういつもの正しい風呂の入り方をしていると、浴場の扉が開いて、ハゾルに割り札を与えた男がやって来た。
「あ……」
「あなたがお越しになったと聞いて、飛んできました」
「タアツ様……」
「タアツ、と呼んでください」
大浴場で会ったときは、気づかなかったが、このタアツという男は身分のある人なのだろう。高額な割り札を偶然知り合った人間にぽっと渡せる程の財力を持っている。彼の優美な笑顔と品のある物腰に、ハゾルはやや気おくれした。
しかし、礼だけは言わねばならないと思って、ハゾルは小声で一気にまくしたてた。
「タアツ、さん……。あの、ここに招待してくださって、ありがとうございます。とてもいい場所ですね。こんな場所があったなんて、知りませんでした」
タアツはにっこりと笑った。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ、とても」
「それはよかった」
それから、タアツとハゾルは並んで湯に入った。
久々に会ったタアツは饒舌だった。
「ここは、命じられて私が設計したんですよ」
「ええ?」
「大浴場のような荘厳な風呂もいいんですが、こちらのような風呂も落ち着きたいときに必要かと思いましてね。この湯は地下から汲み上げたものをそのまま掛け流していて、硫黄が入っているんですよ。硫黄は神経痛にも効きます。東方では湯治といって、乳白色の湯に入って傷を癒すんです」
ハゾルは目の前の男が浴場を設計できるような立派な技師であることに驚嘆した。ものづくりに携わる者として、実力の差におそれおののいた。
「すごい技術、ですね」
「私の技術なんてたいしたことありません。ただ湯がいいだけです」
「とろとろしています」
「ええ、肌をやわらかくしてくれるんです」
タアツは上機嫌だった。彼は自分が設計した風呂をハゾルに認められたことが嬉しいようだった。
同じ風呂を愛する仲間であると認識して以来、ハゾルはタアツに親近感を抱いていた。二人は意気投合して話に花が咲き、話題はそのうちそれぞれの身の上話にまで及んだ。
ハゾルは尋ねた。
「タアツさんは、東方のご出身なんですか」
「ええ、母もです。父がこの国の人で15歳でこちらに来ました」
「それで、風呂に詳しんですね」
「ええ、まぁ。こちらには風呂がないと知ったときは驚きました」
東方には一つの家にひとつの風呂があるという。ハゾルはそんなすばらしい国があるのかと思った。
「ハゾルさんは、お仕事は何を?」
「ええーっと、あの……」
ハゾルはためらった。庶民で、風呂なんてここ数日まともに入っていない、と告白したら、この佳人はあわてて湯船を出てしまうかもしれないと思った。
「ここには二人だけしかいませんよ。本当のことを教えてください」
そう言われて、ようやくハゾルは決心した。
「細工師なんです……まだ見習いの……」
「へえ、それはすごい。何をつくっていらしゃるんですか?」
すごい、と素直に褒められて、ハゾルはもじもじしてしまった。仕事において、彼はあまり褒められたことがなかった。
ハゾルは自分の仕事を語った。
「その、実は、ここの、大浴場の、扉の取っ手があると思うんです。あの、花の形の……」
「ああ、入り口の扉ですか?」
「そうです、そうです。それを作ったんです。それで、風呂ってどんなところなのかと気になって、入ってみたら、気持ちよくて……」
「とってもすばらしいことですね。あなたが風呂に出会ったのは、きっと運命です」
自分の仕事と、風呂が好きだという気持ちを肯定されて、ハゾルはすっかり舞い上がった。
タアツは言った。
「ハゾルさんは、風呂が好きなんですね」
「ええ」
「そんなに気に入っていらっしゃるなら、明日も来てくださいよ」
そう誘われて、ハゾルはうれしかった。しかし、首を振って拒否した。それは正しい風呂の入り方ではないからだ。
「風呂というのは……」
そうしてハゾルは彼の「正しい風呂の入り方」を語った。タアツはうんうんと頷いて聞いていた。
風呂から出てほくほくと体を拭いているハゾルに、タアツは提案した。
「ところで、ハゾルさん」
「はい」
「私、もっとあなたと風呂の話をしたいです。どうです、この後私の家までお越しいただけませんか」
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