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3話
しおりを挟むそれから2日後、俺は職場に休職願を提出した。心は決まった。俺は俺の平穏を守らなければならない。
俺は手早く私物を片付けた。そして絶対にここに戻ってくる、と決意を込めてデスクの上を丁寧に拭いた。
「休職するんだって?」
「うわああ!」
社内で段ボールを抱えて歩いていると、高梨課長に後ろから囁かれて、俺は素っ頓狂な声をあげた。
「課長!」
俺が眉を吊り上げて振り返ると、課長が悪びれもせずに立っていた。相変わらず悪い笑みを浮かべている。
——あ、遊ばれている……。
高梨課長は俺が抱えている段ボールの中を覗き込んで、そこに俺の私物が詰め込まれているのを確認すると、真剣な顔になって尋ねた。
「で? いったい何があって休職なんて言い出したんだ?」
「……」
「参ったな、多少なりとも信頼してくれていると思っていたが。私の独りよがりか?」
「そんなことは……」
ここまで言って、言葉が続かなかった。高梨課長は信頼できる人だ。恩人でもある。彼に何も言わないまま休職をするのは間違っている。少なくとも、俺の社内での後ろ盾は人事部と広報部だ。
俺は息を吸って、それから吐いた。自分がΩであることの象徴を人に話すことは抵抗がある。しかし、社会人としてそうも言っていられない。
「俺、結婚しようと思って」
俺の言葉に対して、今度は高梨課長が素っ頓狂な声を上げた。
「ええ!?」
俺は慌てて言い添える。
「あの、まだ相手はいないんですけど……その、婚活を始めるってだけで」
「えええ?」
高梨課長がさらに大きな声を出したので、俺はびっくりした。
彼は慌てて口を押えて、小さな声で謝罪した。
「いや、すまない。少し驚いてしまって。その、なんというか、君はそういうのには興味がないのだとばかり」
俺は曖昧に笑った。
「人並みに、結婚にはあこがれますよ」
この場合の「人」というのはβのことだ。しかし、そこまで要求してもしかたない。人は配られたカードの中から人生を選択していく他にないのだ。
「それで? 婚活と休職がどう結びつくんだ? 婚活してる社員なんていくらでもいるが、休職してまで婚活する社員は聞いたことがないぞ」
「それは、ほら、俺はΩなので……ヒートを起こさないと、αの匂いがわからないでしょう?」
夜通し考えてきた台詞を、練習してきたとおりに言う。ついさっき広報部の部長に伝えてきた台詞でもある。この台詞に、高梨課長はふむ、と納得した様子だった。
俺はほっと息を吐いた。
「しかしだなぁ……結婚したあとはどうするんだ? 仕事は続けるのか?」
高梨課長は心配そうに眉を寄せる。俺は胸を張る。
「もちろん、そのつもりです」
「お前の意見はそうかもしれないが……相手のαが許すかどうか……」
その言葉に、はっと息を飲む。
結婚したあとのΩがどのように振舞うのか、決定権を持つのはαだ。至極当然のことだ。
政府が出している統計値によると、結婚後、Ωを家から出さないαの方が多いらしい。
脳裏に、俺の親が浮かんだ。Ωは高校在学中に見染められて、卒業と同時に結婚した。ものを知らず、社会を知らない。αはそういうΩを好む。
俺は沈黙した。
なぜ、俺の人生にはこんなにも障害が多いのだろう。ただ普通の人のように自立して生きたいだけなのに。
俺の沈黙をどう受けとったのか、高梨課長は明るく言った。
「まあ、相手次第、お前の交渉次第だ。頑張れ」
顔を上げると、そこには相変わらず爽やかな笑みがあった。この爽やかな笑みを浮かべている男もαであるはずだ。
俺は尋ねた。
「高梨さん、あの、もしかしたらこれってよくない質問かもしれないんですが」
「言ってごらん」
「なんで高梨さんは結婚しないんですか」
高梨さんが独身であることは、社内中でたびたび話題に上がる七不思議のひとつである。
彼は顎に手をおいて、それからニッと笑った。
「いい質問だ。そして間違えている。私は結婚しないのではなくて、結婚できないんだ」
「ええ?」
「惚れた人がいてね。その人以外とは結婚できない体になってしまったんだ」
僕は苦笑した。高梨課長のイメージ通りの回答だった。
「すごく魅力的な人なんですね」
「ああ、とても。……それで、ヒートは起こせるのか? 確か君はヒートが起きない、と診断されていたはずだが」
「あ……それは、新しい薬ができたとかで……」
「そうか」
「残念だって、思いますか?」
「まさか。喜ばしいことだ。君が望むのなら、仕事復帰もバックアップするよ」
やっぱり、高梨さんは頼りになる。俺もはやく、高梨さんの役に立てるような社会人になりたいと改めて思わされた。
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