魂魄シリーズ

常葉寿

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第四章「魁花披露目(さきがけるはなのひろめ)」

【魂魄・弐】『胡蝶は南柯の夢を見る』28話「扇屋夕霧」

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 ――滄溟そうめい、滄溟ったら

 ――う、うぅん……クミ、どうしたの?

 ――約束の場所に遅れちゃうよ


「約束?」

「うん、約束」

 幼き日の思い出。二人は大宰府だざいふ近くの海に向かう。その入江はヨイチが見つけた。人目に付くことはない秘密の場所。少年達の隠れ家だ。

 そこにはいつも彼らだけ。二人が着くとヨイチとサロクがすでに待っていて、遅れてきた二人に文句を言う。

「早く、早く」

「今日は結婚式だぞ」

 何気ない子供のおままごと。この日はクミが滄溟と結婚式を挙げる日だった。彼女は約束が決まった時から、ずっと、この日が来るのを指折り数え楽しみにしていた。

 他愛のない子供のごっこ遊びの上だとしても大好きな滄溟と結婚できるのだ。

「ほら、誓いのチューしろよ」

「チュー、チュー」

「やめてよぉ」

 茶化すヨイチとサロクに顔を真っ赤にして怒る滄溟。クミはそんな彼の手を握り「私じゃダメ?」と上目遣いに尋ねる。

 彼は「そんなこと……ないけど」と恥ずかしそうにうつむく。幼い滄溟の頬に両手を優しく添えてクミはゆっくり自分の顔を近付けていった――。

 ○

「アレ……なんで泣いてるんだろ」

 涙が止まらなかった。クミは一人で海を見つめている。水面にはもう幼い日の彼女ではなく、悲しい表情の汚れた少女が映りこんでいた。「もう、滄溟と一緒にいられない」と彼女は呟き、黒く淀んだ海原を見つめる。

 海が見たかった――

 滄溟は皆んなと鳩州に戻ろうと言ってくれたが、自分の居場所はもうそこにないと感じた。

 滄溟と手を繋いだあの娘。彼女はきっと滄溟の許嫁いいなずけだろう。心のどこかでは期待していた。親同士が決めた女性を滄溟は選ばない。きっと幼い頃に交した約束を覚えているはずだ。

 しかし、期待にはいつも裏切られる。

「もう、どうなってもいい……」

 彼女はおもむろに立ち上がると海原へと進む。すると背後で落ち着いた大人の女性が話しかけるのが聞こえた。

「死んでも楽にならんで」

「……えっ」

 振り返ると一目で夜の蝶と分かる格好の女性が、禿かむろと男衆を従えてクミを見つめていた。こんなひと気のない場所になぜ遊女が?と思ったが、しばらくほうけたあとに、彼女にとっては、どうでもいい事だと思い自虐的に笑う。

「あなたに……関係ない」

「まぁ、引き留めはせぇへんけどな」

「じゃあ、放っておいて」

「もったいないないと思ったんや」

 クミはその女性を見上げる。彼女は言った。死ぬのを止めはしないが、それはいつでもできる。

 それなら精一杯生きて思い切り楽しんでから、それでも死にたかったら死ねばいい……と。そして自分はさかい芳町よしちょう扇屋おうぎやという狂輪くるわを経営している者で、磨けば光る何かをクミに感じたとも言った。

「あそこの大渦が見えるかい。あれは不定期に現れるもんやさかい、いま跳び込めば確実に巻き込まれて死ねるで。自殺するアンタは地獄行きや、奈落ならくちるかも知れん。そうすりゃ生まれ変わることも出来んよ」

「……」

「でもな……地獄に堕ちたつもりで、もう一度やり直さんか」

 クミは彼女の瞳の奥を見つめる。そこには炎があった。信念と言う名の炎。肉婆のように淀んで異臭を放つ沼みたいな色ではない光り輝く覚悟の炎。

 クミはしばらく考える。こんな自分でももう一度やり直せるだろうか。滄溟を忘れて一から歩き出せるだろうか。後押ししたのは女性が伸ばしたてのひらの暖かさだった。

「ウチは夕霧ゆうぎり……女として生まれた喜びを感じさせたるわ」

「え……よろこ……び?」

「ウチを信じて……おいで」

 クミは夕霧の暖かな手をギュッと握り返してうなずいた。暑い夏がいよいよ終わろうとする、ある日の出来事だった――。

 ○

 ――約一ヵ月後。境にある芳町の扇屋

「さすがクミねえさん、凄いわぁ」

「ホンマに同じ遊女とは思えへん」

「ううん、ウチなんか……」

 たった一ヶ月ではあるが、クミはこの狂輪で一番の人気を誇る遊女となっていた。

 ここに来てから寝る間も惜しんで遊女に欠かせない教養である和歌、書道、茶道、華道、こと、そして三味線しゃみせんなどを徹底的に勉強した。

 孤児院にいた時は習い事など銭がなくできなかったので楽しさすら感じていたし、何より一度死んだものとして覚悟を決めてから苦などは一切感じなくなった。

 客を取るのもつらいのは最初だけ。二度目からはぜにとしか見えなくなった。それも今までであれば想像もつかないような大金を自由に使える。

 毎日、行商が運んでくる高価な食事や貴金属を好きなだけ選んでもまだ銭が残る。最近では自分が楽しむ以外に、ほかの遊女仲間に分け与えるそれびも感じていた。

 そればかりか大の大人が、それも一般的には高尚な職業と言われる、医師や高官、武人でさえも狂輪では彼女の言いなりになったのだ。

 一か月前に夕霧が言っていた通り、女として生まれた喜びをクミは全身全霊で感じていた。

「そういえば太夫が姐さんのこと探してはりました」

「そうなん、ありがとう」

 クミは身支度をして扇屋をとりしきる夕霧太夫の書斎へと向かう。

 色鮮やかな扇が壁一面に飾られている廊下を歩く。床はもちろんフカフカの赤い毛氈もうせんだ。建具や調度品など、どれをとっても品よく古今東西から一品を見抜く夕霧の感性が光る。

 夕霧は堺の街でも有名な敏腕びんわん経営者で、彼女の才覚を多くの商人が認めていた。遊女達が不満なく仕事できるように管理し、宝石の原石かと思う女子はたとえ町娘でも勧誘した。

 クミもその一人で、夕霧の通り、新造しんぞうからすぐに傾城けいせいとなり、一か月経った今では、努力と持ち前の魅力で扇屋一番の人気を博していた。

 これは本来であれば何年もかかる道筋である。こうして太夫の仕事場に入ることも、狂輪に入って一か月の遊女では許される事ではない。

「クミ、お前さんを太夫にという話がある…」

「なんやてっ……ウチが太夫?」
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