名前を呼ぶ時

一之瀬楓

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第1話

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―――規則的に揺れる電車とそれによって誘われる微睡のなかで、彼女は微かに田舎の風の匂いをかいだ。都会に溢れる人々の喧騒に比べて、こちらでは蝉の鳴き声が耳にざわついている。しかし、彼女にとっては決して嫌な音ではなかった。それだけではない。
彼女は幼い頃の夢を見ていた。
年の頃は十代にも満たないだろうか。彼女を含めた5人の少年少女が楽しげに笑っている。
一緒に走ったり、お喋りをしたりとても懐かしい夢だった。
その時である。1人の少年が彼女の名前を呼んだ。呼ばれた方向に振り向くと、其処には誰も居なかった。誰、と聞いても答えを返す者も居なかった。
そして、彼女はゆっくりと目を覚ます。
夢の中の出来事なのか、それとも現実なのか。誰かに肩を優しく揺すられたような気がした。
田舎に向かうローカル線の電車は3両編成なのにも関わらず、乗客はほとんど居ない。
彼女が座るボックスシートには彼女以外、誰も居なかった。
「―――・・・・・・」
慣れない長旅と疲れで夢を見ていたのだろう。
彼女はそう思うことにした。
やがて電車は終着駅に着いてしまった。眠い目をこすりながら、座席シートから立ち上がる。
着替えや生活用品などをいっぱいに詰めたリュックを背負うと、彼女は電車を下りた。
そして、田舎の新鮮な空気を吸い込む。そして、彼女は目指すことにした。
かつての友が待つ、懐かしの故郷へ。


古びた駅舎をを出た彼女―――白鳥愛という―――を待ち受けていたのは、身を焦がすような太陽の光だった。それに合わせて、むせ返るような湿気が愛の身体にまとわりついてくる。
「はぁ・・・相変わらず暑いなぁ・・・」
照りつける日差しに手をかざしながら、目を細める。そしてリュックを背負いなおす。一人、辺りを見渡した。木造の古びた駅舎の横には公衆電話がぽつりと立っているだけで、他には何もない。
小さくため息をつく。
小学生時代の後半と中学時代をコンクリートジャングルで過ごしてきた彼女にとっては不便なことばかりを感じた。それでも、旧友に会えることを思えばどうということはない。額から頬にかけて伝う汗を拭った時、ジーンズのポケットから聞きなれた音が鳴り出した。
電話の着信だった。
「はい、もしもし」
電話口の向こうから、明るい声が聞こえてくる。
「あ、愛!今どのあたり?」
「桂花」
どうやら電話の主は一人目の親友からだった。桂花と呼ばれた彼女―――宮内桂花という―――は走っているのだろうか、やたらに息を弾ませながら電話越しに言った。
「そろそろかなって思って電話したんだ。はぁはぁ・・・今向かっているから、愛は其処で待ってて」
「分かった。分かったから、桂花も気をつけて来てね」
通話を終えると、愛は携帯電話をポケットの中に戻した。そして一息つくと、不自然に新しいベンチに腰掛けた。ゆっくりと空を仰ぐ。
彼女の頭上には、都会で見ることのなかった何処までも広く澄んだ青空と、白い入道雲。時折、鳥の群れが空を通り過ぎた。
―――帰ってきたんだ。
愛は1人そう呟く。彼女はこの田舎で生まれ、幼少期と小学校の前半をこの場所で過ごし、都内のほうへと住まいを変えた。それまでは年賀状や暑中見舞いなどの季節の挨拶をわすことだけが彼女と友人たちをつなぐ唯一の絆だった。やがて中学にあがると、携帯電話を持つことを許されアナログなやりとりはデジタルに変わった。愛は彼らに会いに行きたいと両親に頼んだが、「女の子が1人で遠出するのは危険だから」と会いに行くのを許してくれなかった。やがて中学を卒業し、高校に入学して3年目の夏、両親からの許可がやっと下りてこの故郷に帰ってきた。もちろん、彼女の祖母の家に宿泊するのを約束して。
約十年ぶりだろうか。此処を訪れたのは。あっという間だったとも言えるし、すごい長い時間待ち焦がれたとも言えよう。
―ざあぁぁ・・・
風が流れて木々がざわめき、木の葉を揺らした。蒸し暑かったが、汗をかいた体にはちょうど良かった。
その時だった。遠くから己を呼ぶ声が聞こえたのは。
「愛!愛ーっ!」
呼ばれたほうへ振り向くと、手を振りながら走ってくる影が見えた。
「・・・・・・・・・あ」
目をこらして見てみると学校の制服だろうか、ピンクのワイシャツにグレーのチェックのスカート、膝下に紺色の靴下を履いていた。腰まで伸びた長い黒髪はカールがかかっている。彼女だ、と愛は思った。愛も同じく手を振った。そして駆け出す。彼女はその女子高生の名を叫んだ。
「桂花!」
二人は思い切り抱きついた。
「愛、久しぶり!超待ってたんだから!」
「ただいま、桂花!」
愛はほっとした。お互いに忘れていなかったから余計に嬉しかった。
「元気そうでよかった。愛と合流できたこと、早速あの二人に連絡しないとね」
「・・・あの二人?」
愛は首を傾げる。鞄から携帯電話を取り出し、メールを打ちながら桂花言った。
「ほら、優と啓祐。よく一緒に遊んだでしょ。覚えてない?」
あ、と思い出したように愛。
「優ちゃんと啓祐くんかぁ!二人に会うのも久しぶりだなぁ・・・やっと思い出した」
「良かったぁ・・・あの二人も愛のこと待ってるよ」
「本当に?」
「うん。あ、返事来た・・・先のバス停で優と待ってるってさ」
愛は微笑みながら言った。
「そっか、じゃあ急がなくちゃね!」
そして彼女は駆け出した。重そうなリュックをものともせず。
「あっ、待ってよ!」
そう言いながら、しかし桂花は安堵した。一番最初に彼女の笑顔を見ることが出来たから。


「―――ねぇ、愛ちゃんと桂花、まだかなぁ?」
「さっき、あいつから愛と合流したって連絡来たから、多分もうすぐだろ」
「小学生以来だもんね。啓祐もそうでしょう?」
「まぁな」
そんな会話を交わしながら、彼女―――天城優は瞳を輝かせながら言った。桂花と同じで、薄いピンクのワイシャツにグレーのチェックのスカートを履いている。一方で、腕をかざしながら道の果てと携帯電話を交互に見ているのは高島啓祐という青年だった。彼は白いワイシャツに紺のズボンを履いている。啓祐の切れ長の瞳が遠くから陽炎に混じって現われた2つの影を捉えた。
「お、噂をすれば・・・・・・」
そう言うと、彼は手を振った。2つの影―――愛と桂花である―――も啓祐の存在に気づいたのか同じく手を振り返す。そして、2つの影はこちらに向かって走り出した。
「優、やっと来たぜ。愛と桂花だ」
啓祐が優の頭1つ分小さいその背を押す。それに合わせて、彼女のポニーテールが揺れた。
「あ、本当だ!愛ちゃーん!桂花ー!」
一方で、近づきつつある愛と桂花もまた彼女の名を呼ぶ。
「優、啓祐!連れてきたよー!」
「優ちゃーん!啓祐くーん!」
最初は愛と優が、そして後から啓祐と桂花が合流した。
「よぉ愛、待ってたぞ」
「愛ちゃん、久しぶり!」
再会の挨拶を交わしているところを見ながら、桂花が言った。
「良かった、これで4人揃ったね」
顔を見合わせ、彼らは微笑み頷く。
「じゃあ行くか」
啓祐が言うと、3人は横に並んで歩き出した。
愛が景色を見渡しながら
「それにしても、ここは変わってないなぁ。ちょっと安心した」
「そう?」
桂花が答える。その表情は何処か不満げだ。
「変わらなさすぎよ。せめて、カフェの一軒でも建ってくれればいいのに・・・」
一本道を歩く4人の両隣には田んぼが広がっていた。その中でぽつぽつと家が建っており、遠くを望めば、雄大な山々が並んでいる。時折、車やバスが通りすぎるだけで、それ以外は蝉がうるさく鳴いているだけだった。
しばらく4人は東京での暮らしのことや通っている学校のことを話しながら歩いた。
「でも、やっと4人揃ったんだもん。私嬉しいよ」
優が明るい声で言った。
「そうだな。・・・本当は幸斗も居れば完璧だったんだけどな」
啓祐の言葉に愛は気づいたように
「そういえば、幸斗くんは?」
と問うた。その言葉に優と桂花は気まずそうに顔を見合わせ、口を紡ぐ。
「あ・・・あのね、愛ちゃん・・・幸斗くんは―――」
そう言いかけたのは優だった。しかし、
「愛、あいつは・・・幸斗は・・・死んだよ」
彼女の言葉を後押しするように啓祐が言った。
「ちょっと、啓祐!」
桂花が彼の言葉を制止する。
「愛に嘘言ったってしょうがねぇだろ・・・・・・本当のことなんだし」
「啓祐くん・・・どういうこと?」
「・・・・・・・・・幸斗はな、1年前に亡くなったんだよ」
啓祐は愛に告げた。
幸斗という青年―――沢口幸斗は1年前の夏、交通事故に遭ったことを。
彼は夏休みの間だけアルバイトをしていたのだが、その夜の帰り道、何者かに轢かれた。それはひき逃げも同然で、未だ犯人は捕まってはいないこと。彼の遺体が見つかったのは明け方近くだったこと。たまたま通りかかった村人の通報で発覚したこと。啓祐たちのもとにその知らせが入ったのはその日の昼近くだったこと。
彼の葬儀はその数日後に行われたこと。
それから幸斗の母親が精神を病んでしまったこと。
啓祐は愛に全てを話した。
「―――・・・そんな・・・幸斗くん・・・・・・」
愛の口から亡き友人の名がこぼれ落ちる。
彼女の知る沢口幸斗はもともと大人しい性格の少年だった。口数も大して少なく、学校の教室でも1人で本を読んでいたり、休み時間に何処かに行っていたりするのを愛は見ていた。それを見かねて、彼女は幸斗に声をかけたのを覚えている。
―――それは、梅雨が明けたようによく晴れた日のことだった。
「・・・ねぇ沢口くん」
その時の彼は机に向かって図書室から借りてきたであろう文庫本を読んでいたように思う。
「その本、面白い?」
声をかけられて驚いたのか、彼は愛のほうをちらっと見ただけだったが、少し遅れてこくんと頷いた。
「何を読んでいるの?」
愛が言うと、彼は本の表紙をこちらに見せてきた。
「・・・・・・これ」
それはファンタジーの世界の物語を綴った本だった。
「僕、この本好きなんだ」
「そうなんだ!ねぇ、このお話聞かせてよ!」
そこから、愛は幸斗に話しかける努力をし、幸斗は愛と会話をする努力を始めた。


「・・・・・・ごめんね、愛」
ぽつりと桂花が愛の隣で言った。彼女の言葉で、小学生の頃の思い出から現実へと引き戻される。そして桂花は続けた―――隠してた訳じゃなかったんだ、と。啓祐と優は桂花の横で気まずそうに口をつぐんでいる。
「桂花や2人が謝ることじゃないよ。・・・そうだ」
愛が思いついたように言った。
「ねぇ、みんなで幸斗くんのお墓参りに行こうよ。私、明後日までには此処に居るからさ」
「愛ちゃん・・・」
そう言いながら、優は目元に光る雫を指先で拭った。
「明日あたりにまた集まって、行こうか。3人とも、いいでしょ?」
愛の言葉に3人は頷いた。桂花が
「もうお盆だしね。じゃああたしは墓参り用のお花でも買ってこようかな」
「じゃあ俺は線香でいっか。確か家に余っているのがあったはず・・・」
2人のやり取りを見て、愛と優は微笑みあった。
その時だった。
突風が彼らに吹きつけたのは。その風は愛が被っていた帽子をあっという間に攫っていく。
「・・・な、なんだ、今の突風・・・」
啓祐が乱れた髪を整えながら言った。
「すごい風だったね・・・」
優と桂花がスカートの裾を直していると、後方で悲鳴が聞こえた。
見れば愛が自分の頭を押さえながら絶望的な表情を浮かべている。
「愛、どうしたの?」
桂花の問いに彼女が答える。
「私の帽子・・・飛ばされちゃった・・・」
「どっちの方向?」
「多分あっち・・・」
愛が帽子が飛んでいったであろう方向に指を指す。
「おいおいマジかよ・・・」
彼女が指差したその先には―――朽ち果てた校舎が建っていた。
「ねぇ啓祐・・・あそこ、確か・・・・・・」
桂花が呟くように啓祐に言った。
「あぁ・・・出るって噂の廃校だ・・・」
「どういうこと?」
優が校舎を見つめながら言った。
「この辺りは元々2つの中学校があったんだけど、だんだん生徒の数が少なくなってきて、それで私たちが中学2年の時くらいだったかなぁ・・・あの学校を廃止にして、私たちが通ってた学校と合併したの」
優の説明を付け足すように啓祐が言った。
「ところが、廃校になってから暫く経った頃、あの中学校を肝試し感覚で出入りし始めた奴が居てな。あそこで幽霊を見たとか、失くし物を探し求めて生徒の霊が夜な夜な校舎を回っているとか、変な噂が流れたんだったな。それ以来、噂が噂を呼んで今じゃ誰も近づかなくなったって訳さ」
「へぇ・・・」
関心した愛はしかし、すぐにはっとした。
「じゃあ急いで探しに行かないと!暗くなったら大変・・・」
「そうね、早く行こう!今からなら大丈夫だよ」
桂花が言った。3人は同意して、廃校へと歩を進めた。


―――遠くから、4人のやりとりを見ている一人の青年が居た。
白いワイシャツに黒いズボン。少し伸びた黒髪に、何処か幼さを残したような表情。じりじりと照りつける陽光が降り注ぐ中で、彼の肌は不自然に白味ががっていた。彼の足元には影はなく、彼の体は汗すらなかった。青年は4人が廃校に向かっていくのを見送りながら、視線を遠くの校舎に移す。そして、1人呟いた。
「やっと・・・5人、揃う日が来る・・・」
口元が不意につり上がった。


時刻はもう夕刻にさしかかり、廃校の校門の前に長く4人の影を長く落としていた。
うるさく賑わせていた蝉の鳴き声は、今ではすっかりひぐらしの声が辺りに響いている。徐々に失われていく威厳は最後の抵抗のように、校門に立つ彼らを緊張させた。校舎は招かれざる客をいつでも受け入れるかのように其処に佇んでいる。もちろん生徒の声などなかった―――彼らを除いては。
「どう?ありそう?」
「んー・・・どっかに落ちてるはずなんだけどなぁ・・・」
閉ざされた校門から身を乗り出しながら問う桂花に、愛が答える。校門の柵に背を預けていた啓祐が言った。
「こんなとこでしゃべっていても、時間を食うだけだ。さっさと入ろうぜ」
「でも・・・見つかったら怒られちゃわない・・・?」
不安げな口調で、優。
「大丈夫だよ、優ちゃん。手分けして探してすぐに出ちゃえばいいんだし」
「そうそう、仮に見つかっても事情を話せば分かってくれるもんね・・・ん?」
愛に続けて桂花が言った。その時、何かに気づいたようだった。啓祐が口を開く。
「どうした、桂花?」
「ねぇ、あれ」
彼女が指差す方向に一匹の猫が居た。猫は大事そうに帽子を咥えている。
「あの子が咥えているの・・・愛の帽子じゃない?」
「あ、ほんとだ」
桂花の言葉に愛がうなずく。彼女は校門の僅かな隙間を抜けて、校庭に踏み出した。
「ちょっと私、行ってくるね」
彼女は3人に振り返りながら言った。そして再び校庭のほうに振り返った時―――事件は起きた。
あろうことか、愛の帽子を咥えていた猫は彼女に背を向けると、まるで住処に帰るように廃校の中へと入っていってしまったのである。
「・・・嘘・・・・・・」
彼女が呆然とした声でぽつりと言った。猫の姿はもう校舎の中に入っていってしまい、4人の立っているところは確認することは出来ない。
「・・・あの子・・・校舎の中に入っちゃった・・・」
「最悪・・・」
「マジかよ・・・」
愛の後ろに立つ彼らが立て続けに言った。
「ど、どうしよう・・・」
愛が言った。その瞳と口調は完全に動揺している。校門の柵越しに優が言った。
「愛ちゃん・・・行きたくないけど、行くしかないと思うよ・・・」
「それじゃあ・・・」
愛の後ろでがちゃがちゃと音が聞こえた。桂花が校門を越えた音だった。
「あたしも一緒に行くよ」
桂花が愛にウィンクする。
「しょうがねぇな・・・俺も行くか」
頭をポリポリ掻きながら、啓祐。
「帽子見つけたら、さっさと帰るからな」
「啓祐」
2人が柵を乗り越えたのを見て、優が言った。
「待って!私も行く」
「優?」
「だって・・・私だけ此処で待ってるなんて出来ないよ。私もちゃんと探すから」
4人はお互いに顔を合わせ、微笑んだ。
じゃあ行こうか、と誰かが言った。4人は朽ちた校舎を見上げた。


生徒が居なくなって久しい昇降口に彼らは土足で入っていった。上履きなんて持ち合わせていなかったし、何より土ぼこりによる汚れがひどかった。老朽化に伴い、彼らが歩くたびにギシギシと軋んだ音が耳にこびりつき、埃が舞い上がる。その度にくしゃみをしたり、咳き込んだりした。
「ごほっ・・・中に入っちゃえば大したことはねぇが・・・こりゃひでぇな・・・」
啓祐が言った。
「この校舎・・・廃校になってから本当に手付かずなんだね・・・」
言い返したのは愛だった。片手をマスク代わりに先頭を歩いている。
校舎の中は薄闇と静寂とともに存在しているだけで人一人居ない。時間に取り残され、俗世から隔離された其処に彼ら―――先頭から愛、桂花、優、啓祐の順に―――は進んでいく。
「・・・ねぇ、啓祐。どうしてあんたが一番後ろに居る訳?」
「そ、そりゃあお前らが先に行くからだろ・・・」
啓祐が自信なさげに言い返す。彼も朽ち果てた校舎に対して恐怖心がないと言えば嘘だった。やがて昇降口が遠ざかり、最初の曲がり角に差し掛かったころ、それは桂花の耳に響いてきた。
「・・・・・・・・・か・・・」
よく耳を澄ませないと聞こえないような青年の声。
「―――・・・・・・・・・?」
何故か、その声は桂花にだけ聞こえているようだった。先頭の愛といえばただ黙って歩を進めている。後ろの優と啓祐は時折会話を交わしているようだった。
「―――・・・・・・いか・・・・・・」
まただ、と桂花は心のなかで呟く。なるべく他の三人に気づかれないように周囲を見回す。しかし、彼女たち以外に人の気配などなかった。
―・・・・・・みんなには聞こえてないの・・・?―
あるいは聞こえていないふりをしているのか。様々な考えを巡らせているうちに、かすかな音のような声のようなそれは、確かに桂花の耳元ではっきりと聞こえてきた。
「―――・・・・・・桂花・・・・・・」
そして彼女はぴたりと足を止めた。
「・・・・・・誰?」
反射的に見えない誰かに問いかける。
「桂花・・・どうしたの?」
先頭を歩いていた愛が2、3歩先でこちらに振り返る。桂花が言った。
「誰か私のこと、呼んだ?」
「・・・いや、呼んでないぞ?」
答えたのは啓祐だった。彼に同意するように優も隣で頷く。
「そう・・・・・・」
自分の名前を呼ぶ声は確かに聞こえていた。あれは若い男の声だった。
桂花は思う。
―啓祐じゃないのなら、あの声は誰?―
彼女の中で嫌な予感が大きく膨らんでいった。
「ねぇ、桂花」
桂花ははっとした。後ろを振り返ると、優が震える声で言った。啓祐の服の裾を摘んでいる。
「早く愛ちゃんの帽子見つけて此処から出よう?なんだか怖いよ・・・」
「そうね・・・早く見つけないと暗くなっちゃうしね」
その時だ。啓祐があ、と声をあげたのは。
「あれ」
彼が廊下の果てを指差すと、そこには愛の帽子を咥えたあの猫が居た。しかし、気づいたのも束の間、近くの教室の中へ入っていった。
「あの野郎っ・・・!」
啓祐が走りだそうとしたその時。慌てた口調で愛が言った。
「だ、ダメだよ啓祐くん。あの子、余計逃げちゃうよ?」
「じゃあどうすればいいんだ?」
苛立った口調で啓祐。
「あたしが行くよ」
2人の会話を断つように、桂花が言った。
「桂花、でも・・・」
「あら愛、忘れたの?あたしの家、猫飼ってるじゃない」
「そ、そっか・・・そうだったね・・・」
思い出したように、愛。
「じゃあ、あたし行ってくるね」
桂花が手を振りながら、教室へと向かう。
「気をつけろよ!」
「分かってる!」
啓祐の言葉にそれだけを返して、彼女は廊下の暗がりへと消えていった。


―――ギィィ・・・・・・
足を一歩踏み入れるたびに、廊下の軋む音が耳にまとわりつく。それでも桂花は進み続けた。天井にはくもの巣が張られ、蛍光灯が割れている。廊下の隅には埃がたまっていて、歩く度にそれらが舞った。校舎の中はひんやりと冷えているのに、どこかじめっとした空気があり。そして、人一人居ない校舎は不気味さも伴って、彼女は少し後悔した。
―確か・・・さっき、この部屋に入っていったんだっけ・・・―
彼女は引き戸の前に立った。見上げると、1―Aと書かれた表札が頼りなくぶら下がっていた。
引き戸に手をかけて、躊躇いこそしたが―――静寂を引き裂くように扉を開けた。
開かれた教室の中には茜色の夕日が静かに注がれていた。生徒用の机は規則的に並べられていて、最後列には生徒が通学用の鞄をしまうためのロッカーと、その日の時間割を伝えるための黒板があった。
彼女が教室の中へと入り込み、教壇の前に差し掛かった―――その時だった。
―がたっ・・・
教壇がわずかに揺れた。桂花の身体がそれに反応して一瞬硬直する。
「・・・まさか、ね・・・」
ゆっくりと教壇に近づく。屈んで教壇の中を覗き込もうとした、刹那。
己の正体に気づいたのか、教壇の中に隠れていたであろう猫が泣き声をあげながら、桂花に向かって飛び出してきた。
「ぅああぁっ!!」
猫が鳴き声を出してきたのもあって、思わず悲鳴をあげた。しかし、猫は彼女を攻撃する訳でもなく、横を通り過ぎていく。
「・・・あぁ・・・びっくりした・・・さっきの子だったのね」
深呼吸で高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせつつ、再度教壇の中を覗き込んだ。すると、、先程の猫が咥えていた愛の帽子があった。
「これ、愛の帽子―――」
手に取って帽子についていた埃を落とす。一通り観察して、彼女はほっと一息ついた。
―良かった、破れているところとかはないみたい・・・―
桂花は立ち上がり、スカートの裾を直した。
「よし、早く3人のところへ戻ろう」
歩き出そうとしたその時だった。
「―――・・・・・・桂花・・・」
また、あの声がした。確かに、誰かが私の名前を呼んだ。
彼女が声のしたほうに振り返ると―――教室の真ん中に先程までは居なかった青年が一人、其処に立っていた。白いワイシャツに黒いズボンの学生服。夕日に照らされて、彼の肌は血色がいいように見えた。
「―――・・・・・・あ」
彼女は半歩後ずさる。彼に見覚えがあったからだ。
一年前に不慮の事故で命を落とした、かつてのクラスメート。
「あんた・・・幸斗・・・?」
桂花の問いに幸斗と呼ばれた青年は微笑みながら答える。
「そうだよ」
青年が足を踏み出す度、桂花はまた半歩引き下がる。
「・・・やっと気づいてくれたんだね・・・」
震える声で、桂花。
「だ、だって、あんた昨年、死んだんじゃ・・・」
「あぁ、そうさ」
彼女が短い悲鳴をあげる。
「な・・・何で?じゃあ、なんであんたが此処にいるのよ!」
「別に・・・ただ、みんながこの校舎に入っていくのを見ただけさ。僕はまたみんなと一緒に居たいと思ったんだよ」
桂花は瞬時に駆け出した。引き戸に手をかけて、勢いよく扉を開けようとして―――、
「え?あ、あれ?」
扉が、開かない。
ぴったりと閉じてしまっているそれは、彼女の力ではびくともしなかった。
「な、何で!?入ってきたときは鍵かかってなかったのに・・・!」
桂花は思った。やばい。早く此処から逃げないと。このままじゃ、私は―――
彼女は力の限り扉を叩いた。
「愛!啓祐!優ちゃん!誰か開けて!」
しかし何度も扉を叩いても、その向こうで返事をする者は居ない。
「―――助けなんて来ないよ」
幸斗が冷ややかに嘲う。桂花は後方―――ロッカーが並んでいるもう1つの扉へと走り出した。しかし、こちらもびくともしない。
「ど、どうして・・・?」
考える間もなく、幸斗が彼女へと距離を詰めていく。
「何故逃げるんだい?桂花」

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