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第2話
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気がつけば、手を伸ばせば届く距離まで来ていた。
「ちょっと、早くこれを開けてよっ!あんたも、あの3人に会いたいんでしょ・・・!?」
引き戸を背に、桂花は言った。扉が開かない以上は、もう何処にも逃げ場がない。
「と、いうことは、この校舎にもう来ているんだね・・・」
「そうよ、だから早く此処から―――」
幸斗の表情がかすかに憂う。瞳が僅かに潤んだ。
「そっか・・・・・・ようやく・・・みんな、に―――」
そして彼が俯く。少し肩が震えてた。
泣いているの?桂花はそう思った。
「幸斗・・・?」
彼女は少しずつ幸斗に近づいた。
「ねぇ、ちょっと・・・」
心配する彼女に答えるかのように、彼が言った。
「僕、とても嬉しいよ」
次の瞬間、桂花が強い力で両肩で掴まれた。
「!?」
幸斗はその細い両腕で桂花を持ち上げると、引き戸の横にある窓ガラスに彼女の身体を押し付けた。
「ちょっ・・・幸斗!やめて!!」
彼女がもがいた。しかし、その力に抵抗できる筈もなく。
「やだ、嫌・・・・・・!」・
硬いはずのガラスは何故か水面のように揺らぎ、桂花の身体を少しずつ蝕み始める―――。
静寂が支配している校舎に絶叫が響き渡った。
それはしっかりと3人の耳に届いていた。彼らがほぼ同時に絶叫のしたほうに振り向く。
「・・・!今の、悲鳴って・・・」
「桂花・・・だよね・・・?」
愛の言葉に、優が答える。
「な、何があったの!?」
続けて優が言った。
「とにかく、助けに行かないと―――」
愛が走り出そうとしたその時。
「待て、愛。俺が行く」
啓祐が愛の肩を掴む。彼女が振り返る。
「啓祐くん?」
「俺があいつを助けに行くよ。だから、お前らは此処で待ってろ。分かったな?」
「で、でも」
啓祐が諭すように言った。
「俺は大丈夫だ。必ず、俺があいつを連れて戻るから、信じろ」
「・・・・・・分かった」
彼女たちは顔を見合わせ、そして頷く。啓祐はいつだって彼女たちを危険から守ってきた。決して彼1人だけで愛や優を置いて逃げるような真似事はしない。2人はそれを知っていた。
「じゃ、ちゃんと此処で待ってろよ。あいつと合流できたら、連絡するから」
啓祐はそう微笑むと携帯を手に走り出した。
「くそっ・・・あいつ、何処に消えやがった?」
教室の外に出、桂花の絶叫に聞こえた方向へと駆け出した。先程の絶叫からして、そう遠くはないはず。彼は連なる教室に顔を覗かせた。
「桂花!何処に居るんだ!」
そうして探し回っているうちに、彼は廊下の隅にうずくまっている影を見つけた。
「あれは・・・?」
腰まで伸びた黒髪、力なく座り込むその肩は嗚咽とともに震えていた。
「お、おい・・・桂―――」
啓祐が彼女に近づこうとしたその時。
「・・・・・・啓祐・・・・・・・・・」
それは耳元で囁くように。
「―――?」
声のしたほうに振り返ったが、しかし、其処には誰も居なかった。
気のせいか・・・啓祐は自分にそう言い聞かせて、桂花に向き直る。
「・・・・・・啓祐?」
「うわっ!?桂花?」
さっきまでうずくまっていたはずの彼女は、いつの間にか立ち上がっていた。しかし、彼女の瞳は彼を見ておらず、虚空を見つめている。
「驚かせて、ごめん・・・」
彼女の唇が動いて、そう言った。力なく呟いているように彼は見えた。
「桂花、お前・・・大丈夫か?」
「う、うん・・・」
桂花の右手にある帽子を見て、啓祐が言った。
「愛の帽子、見つかったのか」
「うん、早く、二人のところへ行こう?」
笑顔を見せることも、彼と目を合わせることもなく、彼の横を通り過ぎていく。
二人は一言も会話を交わさぬまま、黙って廊下を歩いていた。靴底が床を叩く音だけが響く。その時だった。桂花がぽつりと言い出したのは。
「・・・ねぇ、啓祐」
「どうした?」
「私・・・今思えば、幸斗にひどいことしたと、思ったの・・・」
「・・・な、なんだよ、いきなり・・・」
歩いている姿勢はそのままに、桂花を続けた。
今思えば、私はあいつが大嫌いだった。私、愛や優ちゃんたちに嘘ついて、あいつの事ハブいていたのよ。わざと幸斗の都合の悪い日とかに遊ぶ予定を合わせたりしてさ。多分、優ちゃんは気付いていたと思う。あの子はああ見えて勘が鋭いから。
淡々と紡ぎ出される桂花の言葉に、啓祐は何も言わずに歩き続けた。何も言えなかった、という部分もあったが。
でも、やるんじゃなかった。人にやった事は、自分に返ってくるって誰かが言ってたけど、それは本当。だって・・・すごく苦しいんだもん・・・・・・。
「桂花・・・お前、さっきから何言って―――」
言いかけて、啓祐は言うのを止めた。うつむいていた筈の桂花の視線をこちらをまっすぐに見据えていた。それだけではなく。
「・・・・・・・・・・・・!」
啓祐は目を見開いた。桂花の肩に幸斗が背負われていたからだ。彼もまた、彼女の肩越しに啓祐を見ていた。そして、幸斗は目元を細めて言った。
「啓祐、見っけ」
「―――!!」
啓祐は咄嗟に駆け出そうとした。しかし、それは叶わなかった。
足が、動かない。
「へ・・・?」
両足を動かそうとして、視線を下に移すと。
彼の両足にがっしりとしがみついている少女と少年が居た。笑いながらしかし、その手を放そうとはしない。
「け、桂花!何だよ、こいつらは!」
彼は叫んだ。桂花は立っているだけで、何かをしようとはしなかった。
「・・・これはね、罰なのよ」
ぽつりと答える。
「・・・罰・・・?」
そして彼は見てしまった。桂花の肩に幸斗が背負われているのを。
彼もまた、彼女の肩越しに啓祐を見ていた。そして幸斗は目を細めて言った。
「啓祐、見っけ」
「―――!!」
ごとっ、と音が鳴った。啓祐のズボンのポケットから携帯電話が床に落ちた。
「・・・・・・はぁ・・・」
優が小さくため息をつく。
「啓祐、まだかなぁ・・・」
「遅いね、桂花も」
優の言葉に、愛がぼんやりと返す。辺りは薄暗くなり始めた。夜の帳が下りようとしていた。
校舎が薄闇に包まれる。あれだけ煩かった蝉の声は、もう止んでいた。
教室の椅子に背を預けていた愛は意味もなく天井を見上げた。彼らは何故こんなにも遅いのか?二人に何かあったのか?助けに行くべきか?それとも、此処でじっと待ち続けるべきか?―――1人で考えていた。ねぇ、愛ちゃん」
優がぽつりと言った。
「・・・・・・ん?」
「此処に来る時さ、幸斗くんの話ったじゃない?」
「事故にあって亡くなったっていう、あの話?」
彼女はこくりと頷く。そして続けた。
「信じてもらえないかも知れないけど・・・私ね、時々見えるの・・・幸斗くんが」
「まさか、それって・・・幽霊・・・?」
「うん・・・いつの頃だったからな。確か秋か冬くらいだったと思う。1人で学校から帰る時とか、夜寝ている時とかに視線を感じるようになったんだ」
初めて彼を見たのは秋だというのに何故か蒸し暑い日の夜だった。優はこの日、何故か眠りが浅く寝つきが悪かった。深夜に目が覚め、起き上がろうとした時に気が付いた。
身体が動かない。
金縛りに遭っているんだと、彼女は分かった。声すらも出せなかった。あそこへ―――、足音がやってきた。
―・・・何・・・?―
優は視線だけを動かして音の正体を知ろうとした。しかし暗闇の中では、それを目視することは出来なかった。
裸足で歩いてくる音。それは、やがて彼女の枕元に近づいてくる。
―・・・お願い、早く居なくなって・・・!―
彼女は目を固く瞑ってそう祈った。それ以外に手段がなかったからだ。
そして、彼女の祈りが通じたのか、音が止んだ。
「・・・・・・・・・?」
本当に居なくなったのか?彼女はそう思った。そして優を縛りつけていた金縛りが解けていた。寝返りを打って、一息をついて目を開けた―――その時だった。
部屋の窓の月明かりに照らされて、1人の青年が立っていた。
彼に表情はなく、色白の肌が月夜に晒されて生気の失せたそれをさらに際立たせた。虚ろな瞳は優を見下ろし、そして優は彼と目が合ってしまった。
―――束の間の絶叫。
・・・それが初めて見てしまった時なのだ、と優は語った。彼女は立てた膝に顔を埋めて言った。
「・・・私、怖かった。幸斗くん、寂しがりやだったから・・・きっと私を連れて行こうとしたのかなって・・・」
「そんな、考えすぎだよ・・・」
優の声色はだんだん嗚咽に変わっていく。
「愛ちゃん・・・覚えてる?啓祐や桂花と話して、一時期幸斗くん抜きで遊んだりしてたでしょ。それで向こうは勘付いて・・・怒っているのかな・・・」
「―――・・・それは・・・・・・」
ない、とは断言できなかった。愛自身にも、その記憶は片隅に残っていたからだ。
彼女の脳裏が、その当時の記憶の呼び起こされる。
最初に言い出したのは、桂花だった。その頃の彼の両親は共働きで帰宅時間も遅かった。両親と彼がともに過ごす時間がほとんどなかった事を彼女たちは知っていた。
その寂しさが尾を引いて、誰かと一緒に居なければ耐えられないような性格になってしまった。
そこは愛も優たちも理解してはいたが、やはり限界があった。
そこで彼女たちは思いついた。あえて彼の都合の悪い日に遊ぶ予定を入れようと。それを繰り返していくうちに、愛、優、啓祐、桂花の4人で行動するのが当たり前となった。
愛は一人遠くから離れて寂しげな瞳で見つめてくる幸斗の視線を感じて―――、頭を振った。
「ねぇ、優ちゃん」
彼女が明るい声で言った。
「優ちゃんなら、啓祐くんの携帯番号知ってるでしょ?どうせこの校舎の中に居るだろうし、電話して合流しようよ。桂花も一緒に居るかもしれないし」
愛の言葉を聞いて、優の表情が少しずつ明るくなっていく。
「愛ちゃん・・・」
優は椅子から立ち上がった。
「そうだよね。ありがと、愛ちゃん」
彼女は笑ってみせると、ポケットに入っている携帯電話を取り出した。
一通り操作して、それを耳に当てる。
しかし・・・いくら待っても電話の向こうから啓祐の声はやってこない。
「・・・うーん・・・出ないなぁ・・・」
「啓祐くんが?」
「うん・・・気づいていないはずはないんだけど・・・」
携帯電話を耳から離した時、優の耳にごく僅かな音量でメロディーが流れてきた。音のする方へ顔を向ける。
「・・・優ちゃん?どうしたの?」
愛の言葉に、彼女は人差し指を唇に当てた。
「しっ・・・・・・何か聞こえない?」
「・・・何か?」
愛は目を閉じた。聴覚神経を集中させて、小さなメロディーを聞き取る。
「これ・・・歌?もしかして、着うたとかかな?」
はっとした表情で優が言った。
「この歌・・・啓祐の好きな曲・・・ってことは―――」
そして叫んだ。
「この曲、啓祐のケータイからだっ!」
叫び終わると同時に、彼女は駆け出す。愛は引きとめようとしたが、優は構わず走って行った。
着信を知らせる歌を頼りに、優は教室の手前にたどり着いた。耳を劈く歌は一定のフレーズを繰り返し奏でている。
「この教室に・・・啓祐のケータイが・・・?」
そう呟きながら、辺りを見回す。そして気づく。暗がりの中、青い光を放つ物体が彼女にその存在を知らせていることに。手に取ると、それは携帯電話だった。ボタンを押して、着信を切る。再び静寂が訪れた。それは教室や学校だけでなく、彼女の心にまで侵略しようとしていた。
啓祐の携帯電話を握り締めながら、一人呟く。
―桂花・・・啓祐・・・二人とも・・・何処に行っちゃったんだろう・・・―
その時だった。背中から視線を感じたのは。彼女はおそるおそる振り返る。
「・・・・・・誰?」
しかし、其処に誰も居るはずもなく、返事をする者は居なかった。しかし、優にはこの視線がかつて自室で出会った幸斗のものに似ていることに気づいた。
「もしかして・・・幸斗くん?」
名を呼ばれて、教室の扉越しに幸斗は―――彼は一瞬表情を強張らせた。
彼女にはそういった人ならざる存在を感じ取る力を持っていることを思い出したからだ。
「・・・幸斗くんなの?」
彼女は再度問いかける。
その問いに答えるかのように、その人影は現れた。
背の高い影。それはゆっくりと、こちらを捉える。
「―――・・・啓祐?」
彼女の存在に気づいたのか、彼も少し驚いた様子で、
「・・・優?」
とだけ言った。
「啓祐!今まで何処に居たの?携帯鳴らしても出ないから、心配したんだよ―――」
「悪い・・・携帯、失くしちまって・・・」
半ば生返事のような声で啓祐。優を見ているが、心は其処にない。ただ、虚空を見つめている。
もう・・・と優は半ば呆れながら、ため息をつく。彼女は携帯を差し出した。
「ほら、携帯。大事なものなんだから、失くさないでよね」
「・・・・・・あぁ」
そして、優は桂花が居ないことに気づく。
「啓祐・・・そういえば桂花は?」
「居るよ・・・お前の事、心配してる」
「そっか・・・なら、良かった」
安堵したような声音で優。啓祐が歩き出すと、後から彼女がとことこと歩き始めた。ぽつりと彼は言った。
「桂花・・・あいつと一緒に話してるぞ。ほら、あそこで」
啓祐が指差すと、廊下の片隅に近づくにつれて、桂花の話し声が聞こえてきた。
「ふふっ・・・そんな事もあったねぇ・・・懐かしいなぁ・・・」
「でね、愛ってばこんな事を―――」
彼女の話し声を聞いてるうちに、彼女の中のそれは疑問に変わる。
「・・・ねぇ、啓祐」
優はそれとなく口に出してみた。
・・・桂花は誰と話しているの?
彼女は思った。
もし愛なら連絡くらいしてくれてもいいはずだ、と。それに、まだ前の教室に居るんじゃなかったっけ?
優の中に不安が渦巻いた。
優は歩みを止めた。
「啓祐・・・桂花は誰と一緒に居るの?」
「・・・・・・・・・誰って?」
彼が教室の前で歩みを止めた。
「・・・愛ちゃんと一緒じゃないの?」
扉に手をかけながら、彼が言った。
「居るよ・・・幸斗と一緒に」
「―――・・・・・・え?」
ガラガラと音を立てて、その扉は開かれる。
それまで扉の向こうにあった楽しそうな談笑は、いつの間にか消えていた。
「・・・・・・桂花」
代わりに優の目に飛び込んできたものは。
「桂花っ!」
並べられた机の上に横たわる彼女の姿だった。
眠っているような、穏やかな彼女の表情をその横で見下ろしていたのは、生前、学生時代をともに過ごした沢口幸斗の姿だった。
「桂花!桂花!」
優が桂花の体を揺さぶる。しかし、彼女の瞳は伏せられたままだった。
幸斗の瞳が桂花から優へと移る。
視線を感じて、優は視線をあげる。其処には、彼が居た。
彼女の姿を認めて彼が言った。
「優・・・来てくれたんだね・・・」
薄汚れて少しよれた学生服。少し伸びた黒髪。少し幼げな顔立ち。
彼の姿を見て、やっぱり、と思った。彼女の中の予感が確信へと変わる。
教室の外はもう陽が沈み始めている。
昼間の熱気はいつの間にか引いていた。優は寒気すら感じた。
「・・・やっぱり、幸斗くんだったんだ」
幸斗の顔を見るなり、彼女はそう言った。
「ずっと、幸斗くんがこの学校に居る気配はなんとなく感じていたから」
幸斗が僅かに唇を吊り上げる。
「・・・いつから、そう思っていたの」
「啓祐に会う前からよ。なんとなく見られていたのは分かっていたから」
「・・・そうなんだね」
「ねぇ・・・幸斗くん」
続けて言おうとして、言葉が止まった。彼女自身、どう言っていいのか分からなかった。
「・・・どうして?」
それだけを絞りだす。語尾がかすかに震えた。
「どうして・・・だって?」
幸斗が言った。伏せられた表情に込められた言葉に怒りが滲む。
「それは僕が聞きたいよ」
「え?」
「僕だってまだ―――死にたくなかった」
幸斗が続ける。
僕だって、もっと友達が欲しかった。一緒に遊びたかったし、もっと勉強もしたかった―――それなのに。
「それなのに、あいつは!僕を轢き殺した!救急車を呼ぶなり、なんなりしてくれたなら、僕だって許した!でも、そうはしてくれなかった!誰にも気付かれないまま―――僕は死んだんだ」
彼の言葉は次第に弱くなっていく。どこか泣き出しそうな声音だった。
「誰も僕のことに気付いてくれなかった・・・どんなに助けを求めても、みんな知らない振りをしてて・・・・・・。どうしてだろうって思っていた矢先に気付いたんだ・・・僕はあの日の夜に死んだんだって」
「幸斗くん・・・・・・」
優の口からは、それ以上の言葉が出てこなかった。
「・・・でも、いいんだ」
幸斗がぽつりと言った。一歩一歩近づきながら、彼は唇を吊り上げる。
「優、君なら―――、僕たちと一緒に居てくれるよね?」
「な、何を言ってるの・・・?」
優が言いながら後ずさる。その時だ。彼女の背後で語りかけるように声がした。
「幸斗の言うとおりだ」
優の背中に何かが当たる感触。彼女が振り返ると、すぐ後ろに啓祐が立っていた。
「啓祐―――」
「俺たちはまた、五人で一緒に居られるんだ」
妙に優しげなその言葉。彼の表情もその動作も、彼女が見たことない程穏やかだった。言いながら、彼は優のその細い肩に両手を置く。
そして、その手に力が入った時、
「―――いやぁぁっ!」
叫びながら、彼女は咄嗟に彼の手を振り払った。そして机の上で寝ているままの桂花を激しく揺らす。
「桂花!桂花!起きてよ!」
しかし、眉一つ動くことなく、机の上の彼女は起き上がることはなかった。
「何で?何で起きないの・・・?」
桂花の腕が机から力なく垂れ下がった。
「ど、どうしよう・・・」
そして、彼女は思いついた。愛に助けを求めよう。きっと、まだあの教室で待ってるかも知れない。まずは連絡しよう。そう思って、引き戸に向かって走り出そうとした―――その時だった。
不意に左手に冷たい感触。
「何処へ行くの?」
その声に優が振り返ると、桂花が机の上に横たわったまま、こちらを見ていた。
「・・・桂花?」
優が視線を落とすと、その冷たい感触の正体は桂花の手だった。
「何処に行こうとしてるの?」
桂花は繰り返し言った。優がそれに答える。
「桂花・・・此処は危ないよ。早く逃げよう?愛ちゃんも桂花のこと、待ってるから」
「愛は無事なの?」
「うん、だから早くこの学校から出ようよ。此処は危険だから―――」
「そんなことはないよ?」
桂花が優の言葉を遮る。
「・・・・・・え?」
桂花は続けた。
「優の周りには可愛い子達が居るのに、もったいないよ」
「桂花・・・何を言ってるの?」
その時だった。幼い子供のような甲高い笑い声が聞こえてきたのは。
そして、桂花の両側にいつの間にか少年と少女が立っていた。少女が右手を差し出す。
「お姉ちゃんも一緒に遊ぼう・・・?」
一方で、一人取り残された愛は―――。
「優ちゃん!・・・優ちゃん!」
声を張り上げて、親友の名を呼んでいた。校内はすでに暗く、携帯電話のライトだけが唯一の心の支えだった。
優以外の名を呼びかけても、桂花や啓祐からも返事はなく。ただ、愛の声は闇の中に吸い込まれるだけだった。
「優ちゃんまで・・・何処に行っちゃったの・・・?」
友人を求めて行き先も分からず、足だけが動いた。それと同時に焦りも募っていく。心細かった。
「―――・・・・・・・・・」
廃校の闇に押しつぶされそうだった。愛の視線がわずかに滲む。同時にあれだけ動いていた足は止まった。
「桂花・・・啓祐くん・・・優ちゃん・・・」
友を呼ぶ声は次第に嗚咽の変わった。しかし、いつまでも泣いているわけには、いかない。彼女は手の甲で涙を拭った。
―・・・と、とにかく、三人を探さなきゃ。早く三人と合流して、此処から出ないと・・・―
そして、愛は再び歩き出そうとして―――、止めた。
暗闇の彼方から、甲高い悲鳴と思しき声を聞いた。
「・・・・・・!?」
一瞬、体が硬直した。しかし、愛は暗闇を凝視し、両耳を集中させた。
「―――・・・・・・・・・」
そして、彼女は気づいてしまった。甲高い悲鳴の正体が、優の叫びであることに。やがて、尾を引く絶叫が静寂を裂いた。
「優ちゃん!?」
彼女は悲鳴の聞こえたほうへ走り出した。しかし、どんなに走っても、校舎を見渡しても、優の姿は見えなかった。
愛は彼女の名を力の限り叫んだ。優ちゃん、返事して。聞こえるなら返事をして、と。しかし、優からの返事は何もなかった。
「・・・優ちゃん・・・」
暗闇の中で呆然と立ち尽くした。
孤独になったという感覚―――、指先が冷たくなり、足の力が抜けていくのを愛は感じた。
その時だった。
誰かに呼ばれたような気がしたのは。
愛は振り向く。
「・・・誰?」
其処には誰も居ない。しかし、確かに見られている。
「誰・・・?誰か、そこに居るの・・・?」
かすれたような、力ない声で言った。そして、その問いの答えは少し間をおいて、返ってきた。
「・・・こっちよ・・・こっち・・・」
目を凝らしてよく見てみると、少し離れた場所に見知らぬ少女が愛に向かって、手招きしていた。暗がりの中で姿を捉えるのがやっとなので、その少女の表情は愛からは見えない。
「・・・女の子・・・?」
その手に導かれるように、愛は歩き出した。何故、こんなところに女の子が?彼女は考えを巡らせようとして、やめた。とにかく、誰かと一緒に居たかった。
愛が少女に近づいていく。距離が縮まり、もう少しのところで少女は左へ移動しながら消えていった。
「―――・・・・・・・・・」
愛は少女の消えた場所まで駆けつけると、教室の扉の前に着いた。
扉一枚隔てた向こうに何があるのか。彼女はそれを知ってはいけない気がした。しかし、この扉を開けなければいけないことも、彼女は知っている。
愛の右手が扉に触れた。軽い力を入れれば開くはずなのに、この時だけは重くて冷たい鉄の扉だ。
彼女の呼吸が震える。
硬く目を瞑り、彼女は引き戸に手をかけた。手に力を強める。
「―――!!」
思い切り、扉を開け放つ。
音を立てた後、再び静寂に包まれた。
「ちょっと、早くこれを開けてよっ!あんたも、あの3人に会いたいんでしょ・・・!?」
引き戸を背に、桂花は言った。扉が開かない以上は、もう何処にも逃げ場がない。
「と、いうことは、この校舎にもう来ているんだね・・・」
「そうよ、だから早く此処から―――」
幸斗の表情がかすかに憂う。瞳が僅かに潤んだ。
「そっか・・・・・・ようやく・・・みんな、に―――」
そして彼が俯く。少し肩が震えてた。
泣いているの?桂花はそう思った。
「幸斗・・・?」
彼女は少しずつ幸斗に近づいた。
「ねぇ、ちょっと・・・」
心配する彼女に答えるかのように、彼が言った。
「僕、とても嬉しいよ」
次の瞬間、桂花が強い力で両肩で掴まれた。
「!?」
幸斗はその細い両腕で桂花を持ち上げると、引き戸の横にある窓ガラスに彼女の身体を押し付けた。
「ちょっ・・・幸斗!やめて!!」
彼女がもがいた。しかし、その力に抵抗できる筈もなく。
「やだ、嫌・・・・・・!」・
硬いはずのガラスは何故か水面のように揺らぎ、桂花の身体を少しずつ蝕み始める―――。
静寂が支配している校舎に絶叫が響き渡った。
それはしっかりと3人の耳に届いていた。彼らがほぼ同時に絶叫のしたほうに振り向く。
「・・・!今の、悲鳴って・・・」
「桂花・・・だよね・・・?」
愛の言葉に、優が答える。
「な、何があったの!?」
続けて優が言った。
「とにかく、助けに行かないと―――」
愛が走り出そうとしたその時。
「待て、愛。俺が行く」
啓祐が愛の肩を掴む。彼女が振り返る。
「啓祐くん?」
「俺があいつを助けに行くよ。だから、お前らは此処で待ってろ。分かったな?」
「で、でも」
啓祐が諭すように言った。
「俺は大丈夫だ。必ず、俺があいつを連れて戻るから、信じろ」
「・・・・・・分かった」
彼女たちは顔を見合わせ、そして頷く。啓祐はいつだって彼女たちを危険から守ってきた。決して彼1人だけで愛や優を置いて逃げるような真似事はしない。2人はそれを知っていた。
「じゃ、ちゃんと此処で待ってろよ。あいつと合流できたら、連絡するから」
啓祐はそう微笑むと携帯を手に走り出した。
「くそっ・・・あいつ、何処に消えやがった?」
教室の外に出、桂花の絶叫に聞こえた方向へと駆け出した。先程の絶叫からして、そう遠くはないはず。彼は連なる教室に顔を覗かせた。
「桂花!何処に居るんだ!」
そうして探し回っているうちに、彼は廊下の隅にうずくまっている影を見つけた。
「あれは・・・?」
腰まで伸びた黒髪、力なく座り込むその肩は嗚咽とともに震えていた。
「お、おい・・・桂―――」
啓祐が彼女に近づこうとしたその時。
「・・・・・・啓祐・・・・・・・・・」
それは耳元で囁くように。
「―――?」
声のしたほうに振り返ったが、しかし、其処には誰も居なかった。
気のせいか・・・啓祐は自分にそう言い聞かせて、桂花に向き直る。
「・・・・・・啓祐?」
「うわっ!?桂花?」
さっきまでうずくまっていたはずの彼女は、いつの間にか立ち上がっていた。しかし、彼女の瞳は彼を見ておらず、虚空を見つめている。
「驚かせて、ごめん・・・」
彼女の唇が動いて、そう言った。力なく呟いているように彼は見えた。
「桂花、お前・・・大丈夫か?」
「う、うん・・・」
桂花の右手にある帽子を見て、啓祐が言った。
「愛の帽子、見つかったのか」
「うん、早く、二人のところへ行こう?」
笑顔を見せることも、彼と目を合わせることもなく、彼の横を通り過ぎていく。
二人は一言も会話を交わさぬまま、黙って廊下を歩いていた。靴底が床を叩く音だけが響く。その時だった。桂花がぽつりと言い出したのは。
「・・・ねぇ、啓祐」
「どうした?」
「私・・・今思えば、幸斗にひどいことしたと、思ったの・・・」
「・・・な、なんだよ、いきなり・・・」
歩いている姿勢はそのままに、桂花を続けた。
今思えば、私はあいつが大嫌いだった。私、愛や優ちゃんたちに嘘ついて、あいつの事ハブいていたのよ。わざと幸斗の都合の悪い日とかに遊ぶ予定を合わせたりしてさ。多分、優ちゃんは気付いていたと思う。あの子はああ見えて勘が鋭いから。
淡々と紡ぎ出される桂花の言葉に、啓祐は何も言わずに歩き続けた。何も言えなかった、という部分もあったが。
でも、やるんじゃなかった。人にやった事は、自分に返ってくるって誰かが言ってたけど、それは本当。だって・・・すごく苦しいんだもん・・・・・・。
「桂花・・・お前、さっきから何言って―――」
言いかけて、啓祐は言うのを止めた。うつむいていた筈の桂花の視線をこちらをまっすぐに見据えていた。それだけではなく。
「・・・・・・・・・・・・!」
啓祐は目を見開いた。桂花の肩に幸斗が背負われていたからだ。彼もまた、彼女の肩越しに啓祐を見ていた。そして、幸斗は目元を細めて言った。
「啓祐、見っけ」
「―――!!」
啓祐は咄嗟に駆け出そうとした。しかし、それは叶わなかった。
足が、動かない。
「へ・・・?」
両足を動かそうとして、視線を下に移すと。
彼の両足にがっしりとしがみついている少女と少年が居た。笑いながらしかし、その手を放そうとはしない。
「け、桂花!何だよ、こいつらは!」
彼は叫んだ。桂花は立っているだけで、何かをしようとはしなかった。
「・・・これはね、罰なのよ」
ぽつりと答える。
「・・・罰・・・?」
そして彼は見てしまった。桂花の肩に幸斗が背負われているのを。
彼もまた、彼女の肩越しに啓祐を見ていた。そして幸斗は目を細めて言った。
「啓祐、見っけ」
「―――!!」
ごとっ、と音が鳴った。啓祐のズボンのポケットから携帯電話が床に落ちた。
「・・・・・・はぁ・・・」
優が小さくため息をつく。
「啓祐、まだかなぁ・・・」
「遅いね、桂花も」
優の言葉に、愛がぼんやりと返す。辺りは薄暗くなり始めた。夜の帳が下りようとしていた。
校舎が薄闇に包まれる。あれだけ煩かった蝉の声は、もう止んでいた。
教室の椅子に背を預けていた愛は意味もなく天井を見上げた。彼らは何故こんなにも遅いのか?二人に何かあったのか?助けに行くべきか?それとも、此処でじっと待ち続けるべきか?―――1人で考えていた。ねぇ、愛ちゃん」
優がぽつりと言った。
「・・・・・・ん?」
「此処に来る時さ、幸斗くんの話ったじゃない?」
「事故にあって亡くなったっていう、あの話?」
彼女はこくりと頷く。そして続けた。
「信じてもらえないかも知れないけど・・・私ね、時々見えるの・・・幸斗くんが」
「まさか、それって・・・幽霊・・・?」
「うん・・・いつの頃だったからな。確か秋か冬くらいだったと思う。1人で学校から帰る時とか、夜寝ている時とかに視線を感じるようになったんだ」
初めて彼を見たのは秋だというのに何故か蒸し暑い日の夜だった。優はこの日、何故か眠りが浅く寝つきが悪かった。深夜に目が覚め、起き上がろうとした時に気が付いた。
身体が動かない。
金縛りに遭っているんだと、彼女は分かった。声すらも出せなかった。あそこへ―――、足音がやってきた。
―・・・何・・・?―
優は視線だけを動かして音の正体を知ろうとした。しかし暗闇の中では、それを目視することは出来なかった。
裸足で歩いてくる音。それは、やがて彼女の枕元に近づいてくる。
―・・・お願い、早く居なくなって・・・!―
彼女は目を固く瞑ってそう祈った。それ以外に手段がなかったからだ。
そして、彼女の祈りが通じたのか、音が止んだ。
「・・・・・・・・・?」
本当に居なくなったのか?彼女はそう思った。そして優を縛りつけていた金縛りが解けていた。寝返りを打って、一息をついて目を開けた―――その時だった。
部屋の窓の月明かりに照らされて、1人の青年が立っていた。
彼に表情はなく、色白の肌が月夜に晒されて生気の失せたそれをさらに際立たせた。虚ろな瞳は優を見下ろし、そして優は彼と目が合ってしまった。
―――束の間の絶叫。
・・・それが初めて見てしまった時なのだ、と優は語った。彼女は立てた膝に顔を埋めて言った。
「・・・私、怖かった。幸斗くん、寂しがりやだったから・・・きっと私を連れて行こうとしたのかなって・・・」
「そんな、考えすぎだよ・・・」
優の声色はだんだん嗚咽に変わっていく。
「愛ちゃん・・・覚えてる?啓祐や桂花と話して、一時期幸斗くん抜きで遊んだりしてたでしょ。それで向こうは勘付いて・・・怒っているのかな・・・」
「―――・・・それは・・・・・・」
ない、とは断言できなかった。愛自身にも、その記憶は片隅に残っていたからだ。
彼女の脳裏が、その当時の記憶の呼び起こされる。
最初に言い出したのは、桂花だった。その頃の彼の両親は共働きで帰宅時間も遅かった。両親と彼がともに過ごす時間がほとんどなかった事を彼女たちは知っていた。
その寂しさが尾を引いて、誰かと一緒に居なければ耐えられないような性格になってしまった。
そこは愛も優たちも理解してはいたが、やはり限界があった。
そこで彼女たちは思いついた。あえて彼の都合の悪い日に遊ぶ予定を入れようと。それを繰り返していくうちに、愛、優、啓祐、桂花の4人で行動するのが当たり前となった。
愛は一人遠くから離れて寂しげな瞳で見つめてくる幸斗の視線を感じて―――、頭を振った。
「ねぇ、優ちゃん」
彼女が明るい声で言った。
「優ちゃんなら、啓祐くんの携帯番号知ってるでしょ?どうせこの校舎の中に居るだろうし、電話して合流しようよ。桂花も一緒に居るかもしれないし」
愛の言葉を聞いて、優の表情が少しずつ明るくなっていく。
「愛ちゃん・・・」
優は椅子から立ち上がった。
「そうだよね。ありがと、愛ちゃん」
彼女は笑ってみせると、ポケットに入っている携帯電話を取り出した。
一通り操作して、それを耳に当てる。
しかし・・・いくら待っても電話の向こうから啓祐の声はやってこない。
「・・・うーん・・・出ないなぁ・・・」
「啓祐くんが?」
「うん・・・気づいていないはずはないんだけど・・・」
携帯電話を耳から離した時、優の耳にごく僅かな音量でメロディーが流れてきた。音のする方へ顔を向ける。
「・・・優ちゃん?どうしたの?」
愛の言葉に、彼女は人差し指を唇に当てた。
「しっ・・・・・・何か聞こえない?」
「・・・何か?」
愛は目を閉じた。聴覚神経を集中させて、小さなメロディーを聞き取る。
「これ・・・歌?もしかして、着うたとかかな?」
はっとした表情で優が言った。
「この歌・・・啓祐の好きな曲・・・ってことは―――」
そして叫んだ。
「この曲、啓祐のケータイからだっ!」
叫び終わると同時に、彼女は駆け出す。愛は引きとめようとしたが、優は構わず走って行った。
着信を知らせる歌を頼りに、優は教室の手前にたどり着いた。耳を劈く歌は一定のフレーズを繰り返し奏でている。
「この教室に・・・啓祐のケータイが・・・?」
そう呟きながら、辺りを見回す。そして気づく。暗がりの中、青い光を放つ物体が彼女にその存在を知らせていることに。手に取ると、それは携帯電話だった。ボタンを押して、着信を切る。再び静寂が訪れた。それは教室や学校だけでなく、彼女の心にまで侵略しようとしていた。
啓祐の携帯電話を握り締めながら、一人呟く。
―桂花・・・啓祐・・・二人とも・・・何処に行っちゃったんだろう・・・―
その時だった。背中から視線を感じたのは。彼女はおそるおそる振り返る。
「・・・・・・誰?」
しかし、其処に誰も居るはずもなく、返事をする者は居なかった。しかし、優にはこの視線がかつて自室で出会った幸斗のものに似ていることに気づいた。
「もしかして・・・幸斗くん?」
名を呼ばれて、教室の扉越しに幸斗は―――彼は一瞬表情を強張らせた。
彼女にはそういった人ならざる存在を感じ取る力を持っていることを思い出したからだ。
「・・・幸斗くんなの?」
彼女は再度問いかける。
その問いに答えるかのように、その人影は現れた。
背の高い影。それはゆっくりと、こちらを捉える。
「―――・・・啓祐?」
彼女の存在に気づいたのか、彼も少し驚いた様子で、
「・・・優?」
とだけ言った。
「啓祐!今まで何処に居たの?携帯鳴らしても出ないから、心配したんだよ―――」
「悪い・・・携帯、失くしちまって・・・」
半ば生返事のような声で啓祐。優を見ているが、心は其処にない。ただ、虚空を見つめている。
もう・・・と優は半ば呆れながら、ため息をつく。彼女は携帯を差し出した。
「ほら、携帯。大事なものなんだから、失くさないでよね」
「・・・・・・あぁ」
そして、優は桂花が居ないことに気づく。
「啓祐・・・そういえば桂花は?」
「居るよ・・・お前の事、心配してる」
「そっか・・・なら、良かった」
安堵したような声音で優。啓祐が歩き出すと、後から彼女がとことこと歩き始めた。ぽつりと彼は言った。
「桂花・・・あいつと一緒に話してるぞ。ほら、あそこで」
啓祐が指差すと、廊下の片隅に近づくにつれて、桂花の話し声が聞こえてきた。
「ふふっ・・・そんな事もあったねぇ・・・懐かしいなぁ・・・」
「でね、愛ってばこんな事を―――」
彼女の話し声を聞いてるうちに、彼女の中のそれは疑問に変わる。
「・・・ねぇ、啓祐」
優はそれとなく口に出してみた。
・・・桂花は誰と話しているの?
彼女は思った。
もし愛なら連絡くらいしてくれてもいいはずだ、と。それに、まだ前の教室に居るんじゃなかったっけ?
優の中に不安が渦巻いた。
優は歩みを止めた。
「啓祐・・・桂花は誰と一緒に居るの?」
「・・・・・・・・・誰って?」
彼が教室の前で歩みを止めた。
「・・・愛ちゃんと一緒じゃないの?」
扉に手をかけながら、彼が言った。
「居るよ・・・幸斗と一緒に」
「―――・・・・・・え?」
ガラガラと音を立てて、その扉は開かれる。
それまで扉の向こうにあった楽しそうな談笑は、いつの間にか消えていた。
「・・・・・・桂花」
代わりに優の目に飛び込んできたものは。
「桂花っ!」
並べられた机の上に横たわる彼女の姿だった。
眠っているような、穏やかな彼女の表情をその横で見下ろしていたのは、生前、学生時代をともに過ごした沢口幸斗の姿だった。
「桂花!桂花!」
優が桂花の体を揺さぶる。しかし、彼女の瞳は伏せられたままだった。
幸斗の瞳が桂花から優へと移る。
視線を感じて、優は視線をあげる。其処には、彼が居た。
彼女の姿を認めて彼が言った。
「優・・・来てくれたんだね・・・」
薄汚れて少しよれた学生服。少し伸びた黒髪。少し幼げな顔立ち。
彼の姿を見て、やっぱり、と思った。彼女の中の予感が確信へと変わる。
教室の外はもう陽が沈み始めている。
昼間の熱気はいつの間にか引いていた。優は寒気すら感じた。
「・・・やっぱり、幸斗くんだったんだ」
幸斗の顔を見るなり、彼女はそう言った。
「ずっと、幸斗くんがこの学校に居る気配はなんとなく感じていたから」
幸斗が僅かに唇を吊り上げる。
「・・・いつから、そう思っていたの」
「啓祐に会う前からよ。なんとなく見られていたのは分かっていたから」
「・・・そうなんだね」
「ねぇ・・・幸斗くん」
続けて言おうとして、言葉が止まった。彼女自身、どう言っていいのか分からなかった。
「・・・どうして?」
それだけを絞りだす。語尾がかすかに震えた。
「どうして・・・だって?」
幸斗が言った。伏せられた表情に込められた言葉に怒りが滲む。
「それは僕が聞きたいよ」
「え?」
「僕だってまだ―――死にたくなかった」
幸斗が続ける。
僕だって、もっと友達が欲しかった。一緒に遊びたかったし、もっと勉強もしたかった―――それなのに。
「それなのに、あいつは!僕を轢き殺した!救急車を呼ぶなり、なんなりしてくれたなら、僕だって許した!でも、そうはしてくれなかった!誰にも気付かれないまま―――僕は死んだんだ」
彼の言葉は次第に弱くなっていく。どこか泣き出しそうな声音だった。
「誰も僕のことに気付いてくれなかった・・・どんなに助けを求めても、みんな知らない振りをしてて・・・・・・。どうしてだろうって思っていた矢先に気付いたんだ・・・僕はあの日の夜に死んだんだって」
「幸斗くん・・・・・・」
優の口からは、それ以上の言葉が出てこなかった。
「・・・でも、いいんだ」
幸斗がぽつりと言った。一歩一歩近づきながら、彼は唇を吊り上げる。
「優、君なら―――、僕たちと一緒に居てくれるよね?」
「な、何を言ってるの・・・?」
優が言いながら後ずさる。その時だ。彼女の背後で語りかけるように声がした。
「幸斗の言うとおりだ」
優の背中に何かが当たる感触。彼女が振り返ると、すぐ後ろに啓祐が立っていた。
「啓祐―――」
「俺たちはまた、五人で一緒に居られるんだ」
妙に優しげなその言葉。彼の表情もその動作も、彼女が見たことない程穏やかだった。言いながら、彼は優のその細い肩に両手を置く。
そして、その手に力が入った時、
「―――いやぁぁっ!」
叫びながら、彼女は咄嗟に彼の手を振り払った。そして机の上で寝ているままの桂花を激しく揺らす。
「桂花!桂花!起きてよ!」
しかし、眉一つ動くことなく、机の上の彼女は起き上がることはなかった。
「何で?何で起きないの・・・?」
桂花の腕が机から力なく垂れ下がった。
「ど、どうしよう・・・」
そして、彼女は思いついた。愛に助けを求めよう。きっと、まだあの教室で待ってるかも知れない。まずは連絡しよう。そう思って、引き戸に向かって走り出そうとした―――その時だった。
不意に左手に冷たい感触。
「何処へ行くの?」
その声に優が振り返ると、桂花が机の上に横たわったまま、こちらを見ていた。
「・・・桂花?」
優が視線を落とすと、その冷たい感触の正体は桂花の手だった。
「何処に行こうとしてるの?」
桂花は繰り返し言った。優がそれに答える。
「桂花・・・此処は危ないよ。早く逃げよう?愛ちゃんも桂花のこと、待ってるから」
「愛は無事なの?」
「うん、だから早くこの学校から出ようよ。此処は危険だから―――」
「そんなことはないよ?」
桂花が優の言葉を遮る。
「・・・・・・え?」
桂花は続けた。
「優の周りには可愛い子達が居るのに、もったいないよ」
「桂花・・・何を言ってるの?」
その時だった。幼い子供のような甲高い笑い声が聞こえてきたのは。
そして、桂花の両側にいつの間にか少年と少女が立っていた。少女が右手を差し出す。
「お姉ちゃんも一緒に遊ぼう・・・?」
一方で、一人取り残された愛は―――。
「優ちゃん!・・・優ちゃん!」
声を張り上げて、親友の名を呼んでいた。校内はすでに暗く、携帯電話のライトだけが唯一の心の支えだった。
優以外の名を呼びかけても、桂花や啓祐からも返事はなく。ただ、愛の声は闇の中に吸い込まれるだけだった。
「優ちゃんまで・・・何処に行っちゃったの・・・?」
友人を求めて行き先も分からず、足だけが動いた。それと同時に焦りも募っていく。心細かった。
「―――・・・・・・・・・」
廃校の闇に押しつぶされそうだった。愛の視線がわずかに滲む。同時にあれだけ動いていた足は止まった。
「桂花・・・啓祐くん・・・優ちゃん・・・」
友を呼ぶ声は次第に嗚咽の変わった。しかし、いつまでも泣いているわけには、いかない。彼女は手の甲で涙を拭った。
―・・・と、とにかく、三人を探さなきゃ。早く三人と合流して、此処から出ないと・・・―
そして、愛は再び歩き出そうとして―――、止めた。
暗闇の彼方から、甲高い悲鳴と思しき声を聞いた。
「・・・・・・!?」
一瞬、体が硬直した。しかし、愛は暗闇を凝視し、両耳を集中させた。
「―――・・・・・・・・・」
そして、彼女は気づいてしまった。甲高い悲鳴の正体が、優の叫びであることに。やがて、尾を引く絶叫が静寂を裂いた。
「優ちゃん!?」
彼女は悲鳴の聞こえたほうへ走り出した。しかし、どんなに走っても、校舎を見渡しても、優の姿は見えなかった。
愛は彼女の名を力の限り叫んだ。優ちゃん、返事して。聞こえるなら返事をして、と。しかし、優からの返事は何もなかった。
「・・・優ちゃん・・・」
暗闇の中で呆然と立ち尽くした。
孤独になったという感覚―――、指先が冷たくなり、足の力が抜けていくのを愛は感じた。
その時だった。
誰かに呼ばれたような気がしたのは。
愛は振り向く。
「・・・誰?」
其処には誰も居ない。しかし、確かに見られている。
「誰・・・?誰か、そこに居るの・・・?」
かすれたような、力ない声で言った。そして、その問いの答えは少し間をおいて、返ってきた。
「・・・こっちよ・・・こっち・・・」
目を凝らしてよく見てみると、少し離れた場所に見知らぬ少女が愛に向かって、手招きしていた。暗がりの中で姿を捉えるのがやっとなので、その少女の表情は愛からは見えない。
「・・・女の子・・・?」
その手に導かれるように、愛は歩き出した。何故、こんなところに女の子が?彼女は考えを巡らせようとして、やめた。とにかく、誰かと一緒に居たかった。
愛が少女に近づいていく。距離が縮まり、もう少しのところで少女は左へ移動しながら消えていった。
「―――・・・・・・・・・」
愛は少女の消えた場所まで駆けつけると、教室の扉の前に着いた。
扉一枚隔てた向こうに何があるのか。彼女はそれを知ってはいけない気がした。しかし、この扉を開けなければいけないことも、彼女は知っている。
愛の右手が扉に触れた。軽い力を入れれば開くはずなのに、この時だけは重くて冷たい鉄の扉だ。
彼女の呼吸が震える。
硬く目を瞑り、彼女は引き戸に手をかけた。手に力を強める。
「―――!!」
思い切り、扉を開け放つ。
音を立てた後、再び静寂に包まれた。
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