紙山文具店の謎解きな日常

夏目もか

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一 消しゴムと消えた親友

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「私の消しゴム、知らない?」
あの日、ランチを食べようとした時でした。早苗はそう言ったかと思うといきなり三年A組の床に這いつくばると、自分の机の下を覗きました。艶やかな漆黒の長い髪の毛先が床に付くのもお構いなしに。そして「買いに行くしかないかなぁ」と諦めたように言うので「私の消しゴムの半分、あげようか?」と声をかけました。でも、彼女はううんと首を横に振って微笑みました。
「まだ時間あるし、紙山まで行ってくる」
「うん、気をつけてね」
それから早苗は風のような速さでお弁当を食べてしまうと近くにある文具店へ行くと言ってお財布だけを持ち、中等部の校舎を出て行ってそのまま姿を消したんです。
すごく後悔しています。あの日、一人で行かせなければ良かったって。それでさっきこのお店の表の貼り紙を見て。はい、どんな謎もスカッとって書いてあるやつです。そうです、親友を探して欲しいんです。探偵さん、お願いします。

そのボールペンは好きな色をしていた。白雲に透けた青空のような淡い水色は最近買ったばかりの雪色のフェイクレザーの手帳とペアで使ったらさぞ素敵だろう。さっそくペンを手に取る。ペン先を出して左右に動かしてみる。さらさらと力を入れなくても綺麗に線が作られた。軽々とした書き心地に興奮して思わず笑みがもれた。
「試し書きは禁止のはずだが」
背中に低い声が飛んできたのは突然のことだった。ペンがささっていた棚のアクリル板に挟まれた紙札を眺めると「試し書き、ご自由にどうぞ」と綺麗なペン字で書かれている。私はついさっきこの札を見た。だからこそ気ままに手に取り試していたのに。それを禁止とは一体なぜ?
振り返ると声をかけてきたのは妙に顔つきの良い男だった。緩く波打つ豊かな量の黒髪に長めの前髪が垂れて隙間から漆黒の切れ長の目がこちらを不服そうに睨んでいる。シルエットのゆったりとした白いシャツ、色褪せて膝が少し擦れたブルーのデニム、すらりとした長い足には濃紺の鼻緒の草履を履いている。恰好こそ部屋着の類に見えないこともないが、顔面の良さとスタイルの良さが手伝って品があるように見えるのが不思議な男だった。鼻緒と同じ濃紺のエプロンをつけているところを見ると、おそらくはここの店主なのだろう。
「ごめんなさい。少し使ってしまったので買います。あとでまた買いに来るので取って置いてもらえませんか?」
謝りながらぺこりと頭を下げた。返事はない。そうっと顔を上げると男はいつの間にか私のそばに来ていて棚の札を見つめながらまるで独り言のように呟いた。
「俺は文具を大切にしない人間が大嫌いだ」
「え?」
「使ってしまったから買うと取って付けたような理由で買われては、このペンが哀れだとは思わないのか?」
 男は隣に立つ私を見下ろす。心臓がびくんと飛び跳ねた。凛とした冷ややかなまなざしの眼は強い非難の色を帯びているのに、それが妙に色気めいていて計らずも綺麗だと思ってしまった。
「それは……あの、その」
なんと返してよいかわからないまま彼を見つめて固まってしまった私を置いて男はその棚札を取り上げると店の奥へと戻って行った。
なんだか、とっつきにくい人。その背中を見送ってから手元のボールペンを棚にそっと戻す。
……確かにあの人の言う通りかもしれない。今は会社の用事で来ている。自分の財布は持って来ていないのだ。買わないのに試し書きを試みたのは浅はかだった。仕事帰りにでも改めて買いに来ようと思い直し、手にしていた黄色いプラスチックの買い物籠に上司の墨田係長から頼まれた文具を次々と入れた。
私はこの近くにあるアウトドア用品全般を扱う知覚野ちかくの商事の総務部で働いている。今日は社内で使う文具の買い出しをする為に初めて紙山文具店を訪れた。
商品を籠に入れ終えてレジへ向かうと、先程の店主らしき男が眉間に皺を刻みながら深緑のブレザーを着て胸元に朱色のリボンタイをつけた学生服の少女と何やら深刻そうに向かい合っていた。
(お客さん、他にもいたんだ。)
肩まで垂れたおさげ髪の大人しそうな少女は赤く潤んだ様な目をしていた。泣いている?何かあったのだろうかと思いながらもお会計をしなければならないので恐る恐る声をかけた。
「お願いします。領収書は知覚野商事で」
男は椅子に座ったまま眼光鋭く私を見据えた。
「お前……見かけない顔だな。いつもの姉ちゃんはどうした」
「いつもの姉ちゃん?」
「出ているところは出ている女だ」
男は視線を無遠慮に私の胸のあたりに置いている。恥ずかしくなって持っていた籠をそうっと胸の前に持っていった。男は目を細めると今度は視線を上から下に這わせた。
「平均的な顔だな。丸顔の童顔、雑踏の中に紛れられたら一番に見失いそうな顔だ。髪の左右の毛束の向きが違うということは今朝は左側をセットする暇がなくそのままで来たという訳か」
男は威圧感たっぷりなまなざしのまま私の今朝の行動を言い当てた。確かに今朝は時間が足りなくて右側の毛先しかカールできなかった。でも平均的ってなんて失礼な!
ガツンと言ってやりたくなったが、この店は社内で使う文具一式を一手に引き受けてくれている昔からの取引先だとさっき係長から聞いてきたばかりだ。失礼があってはならないと作り笑いで微笑んだ。
「平均的な顔で失礼しました。この春から入社して総務部に配属されました筆野綴です。友達はとってもいい子ばかりなので雑踏の中でもすぐに私を見つけてくれますけど!」
 つい言葉に力が入って男に詰め寄ってしまう。男は私の剣幕を下から見上げて一瞬凍り付いたが、やがてフンと鼻で笑った。
「何です?」
「今年の新人は気が強い上に機転が利かないようだな。俺は今取り込み中だ。籠のものはそのまま持って行け。あとで領収書を持って行く」
男はそれだけ言うと口元に軽やかな笑みを浮かべて私達の様子を不安そうに見守っていた女の子の方に視線を移してしまった。   

仕方なく籠をそのまま抱えてガラス扉を開けて外へ出た。通りを籠を抱えたまま憤然と歩く。そりゃ、あなたはイケメンだけど?ちょっと好みだって思ってしまったけど?そんなふうに思ってしまった過去の自分を今は蹴っ飛ばしてやりたいくらい。あの人ったら無愛想で感じ悪いったらないじゃない!
「すごくモヤモヤするんですけど!」
 思わず叫んだら向うから歩いて来た犬を散歩中のご夫人にじろじろ見られて気まずくなる。つまるところ紙山さんに対する私の第一印象は最悪だったわけだ。
 
紙山文具店から帰社した時には午後五時を過ぎていた。新入社員として働き始めて三日目、新しい業務を分刻みで教わる事が多く慣れない事に身も心も疲れていた。顔は良いけど失礼な人だったなあと文具店にいたびっくりするぐらいに浮世離れしたイケメン(おそらく店主)を思い出しながら借りてきた籠から買って来た文具を総務部の備品室に行き備品棚に入れていく。するとドアがいきなり開き、気難しい顔つきで墨田係長が入って来た。
「いたいた!筆野さんさぁ、戻ったら報告してよ」
「すみません。あと少しで終わりますっ」
慌てて籠に残っていた文具を棚に補充し買い出しリストに済の丸を付けていく。
「領収書は?」
「お店の方があとで持って来られることになって。支払いはまだです」
「はあ?」
墨田係長の咎めるような口調にまた何か言われると身構える。この人はとにかく細かい。仕事を教わっているのだけれど、いつも重箱の隅をつつくような細かい指摘が矢のように飛んでくる。入社三日目にして希望に膨らむ心が尖らせた言葉の矢尻でツンツンと毎日突かれてしぼんでいくような心許ない気持ちにさせる人だった。やっぱりあとで自分が店に取りに行きますと言おうとした時、ドアがノックされて同じ総務部の女子社員の菊池さんが顔を覗かせた。
「筆野さん、受付に来客よ」
「まさか紙山が来たのか?」
墨田係長が顔をしかめると菊池さんは申し訳なさそうに頷いた。
「あいつがオフィスに入って来るといろいろ面倒なんだよ。筆野さん、もうチェック済んだ?」
「あっ、はい!たった今、終わりました」
「じゃ、ちょっと来て」
部内に戻ると総務部専用の持ち運び式の小型金庫を渡された。
「これで代金支払ってさっさと帰ってもらって」
「さっさと?」
「いいからさっさと!」
「はっ、はい。さっさと行って来まーす!」
押し出されるように部内から廊下に出ると追いかけて来た菊池さんに声をかけられた。手には紙山文具店で借りた黄色い籠を持っている。
「これ、忘れ物」
さっき慌てて出てきて備品室に忘れてしまったのだ。頼れる先輩にありがとうございますとお礼を言うと、「気をつけてね」となぜか心配そうな顔で見送られた。
廊下を進みエレベーターの前に行く。けれど混んでいるのか待っても待っても来ない。仕方なく総務部のある三階から一階のエントランスホールまで階段を駆け降りた。すると一階のエントランスホールの来客の受付カウンターの前にすらっと背の高い人物が立っていた。私の足音にその人が振り向く。確かにさっきの無愛想イケメン!やっぱりあの人が店主だったんだ。けれど、なんだかさっきと雰囲気が違っている?店で見た時は着古したようなシャツにデニムというカジュアルな格好だったのに、大事なプレゼンをしに参りましたみたいな仕立ての良いライトグレーのビジネススーツを着て白シャツに薄紫の上品な色のネクタイを締めている。わざわざ着替えてきたの?いやしかしさっきとは別人のように見えてファッションモデルみたいにかっこいい……。それでも唯一服に釣り合っていないのが足元で、店で見た時と同じ濃紺の草履履きから色白の足の踵がひょこっと見えていた。
「お待たせしてすみませ……」
言い終わる前に彼は草履をパタパタと鳴らしながら私の元にやって来ると目の前に領収書とレシートを突き出した。
「いっ、今すぐにお支払いしますね」
それらを受け取ると受付カウンターの隅に行きレシートと買い出しリストを急いで付け合わせた。思えばあの時、彼は制服姿の女の子と話していて、私が籠に入れた店内の商品をパッと見ただけだった。果たしてレシートの中身はちゃんと合っているのかと思いながらチェックすると実際に買ったものと全く相違が無かった。
「店の文具の動向は総て頭に入っている」
私の表情から驚きを読み取ったように彼は淡々と告げた。
「そ、そうですか。それはすごいですね」
ドヤ顔で言ってもらった方がまだとっつきやすいのにと思いながら金庫を開けて領収書と引き換えに文具の代金を手渡した。彼はスーツの後ろポケットに代金を無造作に突っ込むとじっと私を見た。やっぱり無駄にイケメンだ。見られると凛とした視線に品定めされているようでなんだか落ち着かなくなる。用事は今終わったはずなのに何か言いたげなその視線は何なのだ。至極落ち着かない気持ちになって思わず俯くと、足元に置いていた黄色い籠が目に入った。
「あっ、すみません。お借りしたままでした。今日はわざわざ出向いていただきありがとうございました。では私はこれで。失礼いたします」
彼の手に籠を押しつける。ぺこりとお辞儀をしてさっさと退散しようと金庫を持って部に戻ろうとした。
するといきなり制服の袖を掴まれた。驚いて振り向くとやけに切なげなまなざしで至近距離からじっと見下ろされていた。
「ま、まだ何か……?」
「彼女が辞めた理由を聞いているか?」
「え?」
何を言っているのだろうと戸惑うと、その人は胸ポケットから名刺を一枚出して見せた。
「ここの総務にいたボインの姉ちゃんに渡せたら伝えてくれ。もし連絡をくれるなら勝手に店の商品の試し書きを許したお前の悪戯を無かった事にしてやってもいいと」
そう言うなり私に自分の店の名刺を握らせた彼は去って行った。遠ざかる背中を呆気にとられて見送る。
「ボインの姉ちゃんって、誰?」
するとさっきから受付に座っていた受付嬢の女性二人に声をかけられた。
「ね、そこのあなた!」
話しかけられると思っていなかったので何だろうと近寄って行くと妙に化粧の濃いその女性の片方が怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「あなた紙山さんと知り合いになったの?」
「知り合いというか……備品の調達を頼まれて初めて紙山文具店に行ったんです。そしたらあの方がいて。店長さんなんですよね」
「そうよ、あそこの店長。あいつまったくありえないでしょ。自分でふったくせに人に伝言頼むとか、未練がましいにも程があるわよ」
どうやら彼に対してずいぶんとご立腹のようだ。
「未練?」
「あいつ、あの店の創業者の孫でさ、総務によく出入りしているんだけど、ちょっと変わっていて」
もう一人の女性が声を潜めて言う。
「さっきあなたに伝えて欲しいって言っていた子、私の同期だった奈々子の事だと思う。あいつと最近まで結構長く付き合っていたんだけどケンカして別れたのよ。奈々子余程ショックだったのか先月急に会社辞めちゃって」
「辞めた?」
「たぶんそのケンカが原因」
「奈々子、いつもあいつの話で幸せそうに惚気話ばかりしていたからもう会いたくなかったんじゃないかな。仕事している限りは嫌でもあいつに会わなきゃいけないからさ」
「あの……ケンカの原因って何だったんですか?」
気になってそう聞いた時、ちょうど午後五時半のチャイムが鳴った。終業時刻である。二人の先輩は席を立つと伸びをした。そしてチャイムの音で私の質問が聞こえなかったらしく帰り支度を始めてしまった。
「終わり終わりと」
「帰ろ帰ろ。今日も疲れたね。あ、ちょっと歌って帰る?」
「いいねぇ、行こ行こ!」
二人は手荷物をカウンターの下から引き出すと受付を出て行ってしまった。お疲れ様でしたとその背中に声をかける。すると行きかけた二人がどちらともなく顔を見合わせて頷き合うと私のところに戻ってきた。そして心配そうに私の肩に手をかけて顔を覗き込んでくる。
「ね、もしかしてあなたが奈々子に代わって今度から総務の備品担当だったりする?」
「はい、備品担当は私だって聞いていますがそれが何か?」
「あなた名前は?」
「筆野です。今年総務に入りました。まだわからない事ばかりなのでいろいろ教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いします!」
頭を下げると二人は顔を見合わせて苦笑いした後、一転して明るく笑いかけてくれた。
「いいねー、新人さんは挨拶もフレッシュ!」
「ねー!」
けれど次の瞬間、二人は怖い顔をして耳元に顔を寄せて小さく囁いてきた。
「一つだけ忠告しとく。紙山の奴にだけは心を許しちゃだめ」
「あいつ顔だけで中身はかなり変わってるって奈々子から話を聞くたびに思ってたの。惚れても苦労するだけから間違っても惚れちゃだめだからね」
「くれぐれも気をつけて新人ちゃん」
二人に代わる代わるそう言われて頭がこんがらかりそうだ。左右から肩をポンポンと何度も叩かれてさらに不安になる。先輩達は言うだけ言うと帰って行き、一人ポツンと残された。
そういえば菊池さんにも気をつけてと言われたなぁ……。備品室で墨田係長も紙山さんがオフィスに来ると面倒とか言っていた。結局、元彼女だったらしいボインの奈々子さんがなぜ紙山さんとなぜ別れたのかは聞けずじまいだったけれど、とりあえず相当の要注意人物であることは間違いなさそうだ。就職活動で面接を二十社落ちまくった私をそれでも良いと受け入れてくれたこの会社の恩に報いる為にも、安全に社会人生活を送る為にも紙山さんと接する時は大いに気をつけようと気を引き締めながら総務へ戻ったら、自席の机によりかかり鬼のような顔をした墨田係長が腕組みをしたまま立っている。また何かやらかしてしまったのだろうかと顔が青ざめる。
「さっき棚に補充してくれた備品さ、頼んだものと全然違っていたよ」
「えっ、ええっ、そんなはずは」
「ちょっとリスト見せて」
慌ててポケットに入れていた買い出しリストを開いて墨田係長に見せると深々とため息を吐かれた。
「あ~、悪い。忙しかったからってすぐメモしてって口頭で君に頼んだ僕が馬鹿だった。次から僕がチェックして書いたのをメールで送るからそれをコピーして買って来て」
改めて見てみるとどうやら紙山文具店に行く前に備品室で一緒に在庫のチェックをしていた際、係長に口頭で言われた文具の数を空欄である発注リストの欄を一つずれて記入してしまっている。それを上司に頼まれて文具をまとめて取りに来た他の部の課員が頼んでいたはずのクリアファイルが無いと文句を言ってきたらしく間違いが判明したという訳だ。
「ほ、本当に申し訳ないです……」
 うなだれた私に係長は呆れ顔で続けた。
「君、入社式の挨拶での意気込み、なんて言ったか覚えている?」
「……はい」
「もう一回言ってみてよ」
「社会人として一日でも早く仕事を覚えて皆さんの……お役に立てるようになりたいです」
最後はごにょごにょと声が小さくなった。
「役に立ってよ」
「はい、すみませんでした」
まだ入社三日目だけど、墨田係長は容赦なく厳しい。情けなくなって泣きそうになったけれどミスしたのは自分だ。頭を下げて何度も謝った。

終業後。係長の叱責に意気消沈していた私は帰る支度をしてから隣のフロアの経理部を覗いた。ここには同期の湯原莉乃がいる。彼女を誘って喫茶店で甘いケーキにお茶でもしながらたわいもない会話をして家に帰ればちょっとはリフレッシュになるかもと考えたのだ。しかし彼女もさっきの私みたいに自席で険しい表情をした女性上司に睨まれてペコペコと謝っている。やっぱり社会って大変だ……。誘うのはまた今度にしようと先に帰る事にした。

会社のエントランスを出て最寄りの駅に向かって歩く。すると目の前を見た事のある制服の少女が横切った。深緑色のブレザーに朱色のリボンタイが胸元で揺れている。彼女をどこかで見た事があるような気がして次の瞬間、思い出した。紙山文具店で紙山さんと話していた子だ。俯きがちに歩いていた彼女は立ち止まり道の真ん中で制服のブレザーのポケットから何かを出して見つめている。その表情はとても悲しげに見えた。そういえばあの時。彼女は紙山さんを前にして目を赤くしながら泣いていた。あれってもしかして紙山さんにふられて泣いていたとかだったのかな?いや……そんな訳はないか……。あの子からしたら紙山さんはだいぶ年上そうだ。じゃあなぜ泣いていたのだろうと見ていたら彼女がこっちに歩いてきて目が合ってしまった。彼女は「あっ」と短い声を出すなり足早に駆け寄って来た。  
「今日、紙山にいましたよね?」
頷いた私に彼女は切羽詰まった表情で告げた。
「私の友達が昨日から家に帰っていなくて探しているんです。それでさっきこれを紙山の近くの路地で拾って」
彼女は手首に巻いた赤と白のストライプ柄の細いヘアゴムを掲げた。悲しげな顔つきにそれがさっきポケットから取り出して見つめていたものだと察した。
「いなくなった日に友達が腕につけていたのと同じものなんです。私達、近くの中学に通っていて、たまに放課後一緒に紙山でノートとか文具を買うんですけどその路地を通るのが近道でいつも使っていて。だから早苗がそこを通ったのは確かなんです。それで紙山に行って友達が来なかったかって聞いたんですけど来てなかったって言われて。でもお店の前の壁に謎を解くって貼り紙があったので店長さんに探すのを手伝ってもらえないかってあの時店主さんに頼んでいました。早苗のお父さんも警察に捜索届を出したらしいんだけどまだ見つからなくて。私があの時、早苗を一人で行かせなければこんな事にはならなかったかもしれない……そう思うとやりきれなくて」 
彼女はそこまで一気に言うと声を詰まらせてヘアゴムに目をやり、目に滲みつつあった涙を拭った。
「それで紙山さんにはお願い出来たの?」
彼女は首を左右に振ると、表情を変えて怒った。
「聞いて下さいよ!あのおじさん、君の友達を探すのを手伝ってやってもいいが君は学生だから先に報酬をいただいておくって言ってきて」
「報酬?」
「十万円だって言うんです」
「十万?」
制服を着た学生に十万って。酷すぎる。
「まだ中三なのでそんな高いのは払えないし自分で探すしかないと思って探していました」
腕時計を見ると午後六時半になろうとしている。街灯が薄闇を明るく照らしていた。
「遅くなるとご両親が心配すると思う。今日はもう帰った方がいいかも」
「……はい。……あのお姉さんはこの近くで働いているんですか?」
「そうだけど」
彼女はじゃあと言ってスマホの画面を開き一枚の写真を見せてくれた。そこには道端でフルーツが山盛りになったクレープを手にして満足そうに笑う長い黒髪にすらりと手足の長い少女が映っていた。綺麗に通った鼻筋が目を引く年齢の割には大人びた印象の美少女だった。
「いなくなったお友達?」
「はい。新城早苗って言います。この辺りで見かけたりしませんでしたか?」
「うーん、ごめんなさい。見覚えがない」
「……そうですか。引き留めてしまってすみませんでした」
沈んだ声でそう言うと彼女はペコリとお辞儀をして駅とは反対の、私が今しがた歩いて来たオフィス街や商店の立ち並ぶ方へと辺りを探るように見回しながら歩いて行った。もしかしてまだ探そうとしているのだろうか。遠ざかる小さな背中を見つめていたら友達の安否を気遣う優しい彼女の助けになってあげたいと思えた。
「ねえ!」
思い切って声をかけると彼女は振り返った。
「お友達を探すの、私にも手伝わせてくれないかな?お役に立てればだけれど」
「嬉しいです!ありがとうございます」
その時私はさっき会社で墨田係長に言われた鋭い矢尻の様な言葉を思い出していた。
”役に立ってよ”
これは違う形だ。けれど、もし彼女の役に立てたなら。それだって役に立つということだ。そう考えたのだ。彼女に近寄って会社の名刺を手渡した。
「筆記用具、借りられる?」
彼女からボールペンを借りて、名刺の裏に自分の携帯電話の番号とメールアドレスを書いた。
「筆野……」
「つづりって読むの。まだ入社したての新人だけど、あなたの為に頑張りたくなって」
彼女は私の好意を有難く受け取ってくれたようで名前を教えてくれた。
「私、篠原美優っていいます」
「よろしくね、美優ちゃん。私も下の名で呼んで」
「綴さん。よろしくお願いします」 
最寄り駅まで一緒に歩いて反対方向だという彼女と改札内で別れた。彼女は後で早苗の写真を送りますと帰っていった。おさげ髪を揺らしながら去って行く背中を見送り、電車に乗り込んだ時、美優ちゃんから写真添付のメールがスマホに届く。さっき見せてもらった早苗ちゃんの笑顔の写真だ。そして添えられた文面には気になる事が書かれてあった。
“一つ気になる事があって。早苗は昔から頭が良くて前は偏差値の高い子だけが入れる特進クラスにいたのに、今年の春、三年に進級したと思ったら、私と同じ普通クラスに変わったんです。特に成績が落ちた訳でもないみたいだったので不思議でした。”
中三は受験勉強も本格的になる学年だろう。その時期になってなぜ学力と見合わないクラスへと移ったのか?確かに引っかかるものがある。まずはこの週末、手がかりが他にもないか私も自分の足で調べてみようとスマホを閉じた。

その週末の土曜日、早速行動に移す事にした。いつもなら目が覚めるまでベッドの上でごろごろ、起きたらお昼だったということもあるのだけれど、その日は気合いを入れてスマホの目覚ましアラームを朝八時にかけて飛び起きた。
都心にある職場から電車で三十分程の住宅街にあるアパートを借りてこの春から一人暮らしを始めている。実家も同じ都内なのだけれど社会人になったのを機に親元から自立しようと思った。最寄りの駅から少し離れた立地の二階、ワンルームのその部屋は築年数がかなり経っていることもあって家賃が格安だった。広々として見えると聞いてインテリアは白で統一し、部屋に置いた雑貨もほぼ白を選んで揃えた。引っ越しを手伝ってくれた母や二歳上の姉は汚れそうと言ったけれど使うのは私だけ。汚さないように気をつければいいだけの事だと気にしていない。
洗面所で顔を洗う。今日もあらぬ方向に自由きままに跳ねた毛先をヘアドライヤーで整える。今日は時間があるから丁寧にセットできた。洗顔後、玄関を入った廊下と一体になったキッチンにある冷蔵庫の上に置いたレンジでトーストを焼きながらフライパンでベーコンエッグを作る。焼き上がったトーストにピーナッツバターを塗ってお皿に盛り、珈琲を淹れたマグカップを手にリビングテーブルにあぐらをかいて座った。
テーブルの上のテレビのスイッチを入れると情報番組をやっていた。デートや行楽にお薦めだという春のお出かけスポットを報じている。
「桜は終わってしまいましたが、これからは新緑が目に眩しい季節ですね。春の装いをしてこのような公園でピクニック気分で過ごすのもいいでしょう」
薄いピンクのひらひらしたスカートをはためかせ、明るい同色のメイクをした女性リポーターが花咲くような笑顔で自然公園の中を案内している。マイクを持つふんわりと柔らかそうな手。握ったらそこから甘ったるい生クリームとかカスタードクリームだとかがにゅっと出て来そう。ああいう見た目からして可愛い人になれたらモテるのだろうなとぼんやり考える。でも実際のところ彼女のような見た目になったとしても誰かにデートに誘われてまともに会話できるような気はしない。苦い想い出があるのだ。高二の時にいいなと思っていたクラスメイトに告白されて初めて付き合った。でも三日目でふられた。一緒に帰るようになったけれど緊張のあまり何を話してよいかわからずにずっと無言でいたら“思っていたのと違った”と言われて突然ふられたのだ。次に誰かと付き合えてもきっとそういうレッテルを貼られてしまうかもなんて不安が今もあって。いいなと思う異性と知り合ってもいつも一歩が踏み出せず桜が咲くたびに彼氏いない歴を更新している。そんなことをつらつらと思い出していたら甘いはずの砂糖入りの珈琲が苦く感じた。
朝食を終えて捜索に出かける準備をする。大きめなサイズの白シャツに薄水色のロングカーディガンを羽織り、動きやすいようにキャメルの細身のスキニージーンズに足の甲の部分に金色の飾りのついたダークブラウンのローファーを履くことにした。部屋を出る前に立て掛けてあるスタンドミラーの前で回ってみる。これなら落ち着いてみえる。誰かに何かを尋ねて育ちの良いお嬢さんに見えて嫌そうな顔をされることもないだろう。
家を出て最寄り駅へと向かう。水彩の絵の具で薄水色に塗ったような四月の空が穏やかに広がっている。街行く私の背中を柔らかな日差しがぽかぽかと暖めて足取りも心も軽くしてくれるような陽気だ。
紙山文具店の前まで来ると店の前でスーツを着た二人の男に何やら質問されている紙山さんを見つけた。気がつかれまいとくるりと踵を返して物陰から様子を見ようとそばの路地に入って身を隠した。そうっと店の方へともう一度顔を覗かせたら目の前に険しい顔の紙山さんが立っていて危うく悲鳴を上げそうになる。そんな私の口を彼は容赦なく手で塞ぐと冷ややかな視線で見下ろしてきた。
「知覚野商事の筆野綴だな。今お前がやろうとしている事に協力するから頼みがある。今から俺の嫁のふりをしろ」
「はい?」
彼は手を退けると小声で話せと言った。
「何で私があなたのお嫁さんのふりとかしなきゃならないの?」
「静かに話せと言っている。説明しよう、まず店の前にいる二人は刑事だ」
「刑事?」
「俺が行方不明になった女子中学生を店に監禁しているんじゃないかと疑われている。だからお前が俺の嫁のふりをしてこの場を切り抜けろという意味だ」
「監禁!どうしてそんな事したんですか?」
「している前提で話すな。……まぁ、いい。もし話にのってくれるなら昨日、お前が篠原美優から受けた捜索依頼を手伝ってやってもいい」
「えっ、どうしてそれを」
「事件に関わる人物の尾行は探偵の基本だ」
しれっとそんな事を言う顔つきに十万円とか言って美優ちゃんを尾行していたということは初めからただで調べてあげるつもりだったのではと思える。一見冷たそうに見えて意外と良い人なのかもしれない。
「しかしお前は予想を裏切らないな。私服も地味なのだろうとは思っていたが」
……前言撤回。
「わかりました。やりますよ。でも紙山さんも約束してくれたらになりますけど」
「約束?」
「ただで美優ちゃんの依頼を受けてあげて下さい。中学生相手に十万円なんて大人げないです」
じろりと見られたけれどここで怯むわけにはいかない。一人の少女の行方と友達を想う美優ちゃんの後悔の涙を見過ごす訳にはいかないもの。やがて根負けしたように紙山さんはため息を吐いた。
「わかった。じゃ、頼んだぞ」
紙山さんは私のショルダーバッグに付いていた飾りのスカーフの結び目をシュルっと解き私の首元にリボン結びに巻くと、この方がいいとニヤリと微笑んだ。そして強引に私の手を掴み取ると刑事達のところに行き、余裕の笑みを浮かべた。
「ほらこの通り、俺には愛する嫁がいますんで。だからその人物とは何の関係もない。監禁する理由もまるでない」
刑事達は口を半開きにして物陰から突然現れた私に呆気に取られている。しかし嘘の言葉であるというのにさっきよりことさら強く握られている手にドキドキとしてしまうのはなぜだ。異性と久しぶりに手を繋いだせいか、あるいは刑事さん達にバレたら怖いのドキドキか。後者であって欲しいのだけれど。案の定、二人の刑事は疑り深そうに上から下までじろじろと私を見つめてきた。緊張のあまり下腹部あたりが催しそうなんだけど……。
「やあやあ、奥さんでしたか。旦那さんとなかなか戻って来ないからどうされたのかと思いましたよ」 
中年の刑事が顎で私達がさっきまで話していた曲がり角を示してきた。明るい口調で言いつつも目つきは猛犬のごとく険しいままだ。うん、まだ疑われているね……。紙山さんどうするのと隣に立つ本人を見上げたら今度は腰をぎゅっと掴まれて引き寄せられた。変な声が出てしまいそうになって慌てて堪える。
「嫁が友達と海外旅行にでかけていましてね、イタリアに。それで積もる話をしていたんですよ。ほら、このイタリアで買ったスカーフ、うちの嫁さん、なかなかセンスがいいでしょう?」
さっき地味過ぎるとか言っていたのがまるで嘘のようじゃん。余裕そうに微笑む紙山さんがなんだかムカついてきた。しかしバレてはいけないのだ。内心ぶつぶつ言いながらも私も愛想笑いを作ってみせた。
「シャレてますでしょう?おーっほっほっほっ!」
刑事達の目の前でスカーフの両端をぷらぷらと持ち上げてみせると刑事達は渋い顔をした。
「ノリさん、今日のところは引き上げましょう」
若い方の刑事が言う。ノリさんと呼ばれた中年のいかめしい顔つきの刑事はフンと苦虫を噛み潰したような顔で鼻を鳴らして私達を睨んだので、紙山さんと顔を見合わせて微笑み合って見せた。
「仲が宜しい事ですな。では今後何かありましたらこちらに連絡を」
そう言って刑事達は私達それぞれに名刺を手渡すと帰って行った。
「冷や汗が出ました」
「おほほと笑う女に初めて会った」
「バカにしてます?」
ムカッとして言ったら紙山さんはニヤリと笑って私の腰から手を離した。
「だが演技はなかなかうまかった。お前、嫁の素質あるのかもなぁ」
「それってどういう意味ですか」
「そういえば、この前俺が頼んだことは伝えてくれたか?」
「あー」
「あー?」
「私その方の連絡先知らないですし、それに第一私には関係ない事ですし」 
紙山さんは頭をぼりぼりと掻いて何も言わずに俯いてしまった。何だか悲しそうだ。奈々子さんに相当の未練がありそうだ。
「あの、奈々子さんの同僚の方から聞きましたけど、自分からふったのにまだ好きなんですか?」 
店に戻ろうとしている紙山さんの背中に思いきって聞いてみる。
「俺は―、俺はただ勝手にしろと言っただけだ。……ふってはいない」
それにしては表情が怒りに満ち満ちて見えるけれど。
「あいつは文具を大切にしなかった。俺は文具を大切にしない人間は大嫌いなんだ」
紙山さんはそう言うと開店の準備を始めてしまう。
「ボールペンが書けなくなったらレフィルを買わずに新しいのを買う。ノートが雨に濡れたら新しいのに変える。消しゴムが真ん中で割れたからとすぐに新しいのを買う。俺のプレゼントした万年筆を他の男に使わせるのは特に許せん」
紙山さんは怒った様な顔つきで万年筆が並んだショーケースのガラスをやけにごしごしと力を入れて濡れ布巾で磨いている。
「最後のその万年筆がケンカの原因なんですね」
手が止まる紙山さん。そのまま返事をせずに店の奥に入ってしまった。どうやら図星だったみたい。
「あの―、今日はお財布持って来たのでこの前のボールペン買っていきますね。あれは本当に欲しくて買いたいのでいいですよね?」
話題を変えてあげた方が良いかなと思った私はそう声をかけ、初めて店に来た時に試し書きをしたボールペンの場所に行ってみた。けれど他の色はたくさんあるのにあの色だけがない。あの時は確か何本かあったはず。もう全部売れてしまったのかもしれない。がっかりしていたら紙山さんがつかつかとこっちにやって来て私に何かを差し出した。それは試し書きをして怒られたあの淡い水色のボールペンだった。
「昨日、最後の一本になった。さっきの礼だ。やる」
ボールペンを受け取り自然と笑みがこぼれた。私の為に取り置きしてくれたってことだよね?
「ありがとうございます。紙山さんって本当に記憶力が良いんですね」
紙山さんはまんざらでもなさそうに口元を緩めたけれど、あの時棚札が挟まっていた場所を眺めて物思いに耽っている。
私は鞄に入れていた手帳を取り出してそのボールペンを挟んでみた。うん、やっぱりこの手帳と良く合う。
「私これからこの辺りを捜索してきます。まだ美優ちゃんが見落としている何かがあるかもしれないので」
「何かあれば連絡しろ。くれぐれもド素人が一人で何かやろうとするなよ」
紙山さんはエプロンの胸ポケットから名刺を出してボールペンで何かをさらさらと書くと渡してくれた。店名と電話番号が書かれた裏側に携帯番号が書かれてある。その時、店内に客が入って来て声をかけられた紙山さんは対応に行ってしまった。何も起きなければよいな……。名刺をそっと鞄の中にしまうと私は店を後にした。
 偉そうに私の事ド素人とか言っていたけれど、自分だって文具店の店主じゃない。そう思いながらも紙山さんの第一印象が揺らいでいる。きっとさっきのボールペンのせいだ。
 
街中を歩くのは久しぶりで新鮮な気持ちがした。最近、引っ越しの荷物の整理に追われて休日も部屋に引きこもってばかりいたから。
入社した近覚野商事は主にアウトドアスポーツ用品の製造・販売をしている。土日祝日の営業は休みだけれど近くに来たのでちょっとだけ寄ってみようと自社ビルの前まで歩く。誰かが休日出勤しているのか、営業部のある階の照明だけがぽつぽつと点いていた。
もう少し日にちが経てば私も休日に出勤をこなす必要が出てくるほどにいろんな仕事を任せてもらえるのだろうか。けれどそれはまだだいぶ先の未来のように思えた。社会に出たからといってすぐに周りの役に立てる人間になれるとは思っていなかったけれど、出だしからちょっと空回りし過ぎている自覚がある。入社以来何度かケアレスミスもしてしまっているし気を取り直してまた週明けからがんばらないと。自分に喝を入れ直して会社を後にした。
知覚野商事のあるエリアは散歩のようにじっくりと歩いてみるとなかなか面白い街だった。商業ビル、雑居ビル、コンビニ、古本屋に感じの良いカフェや小さな八百屋などがあって、その近くには近所でも見た事のある有名スーパーがあった。自分から見れば生活圏ではなく通勤に来るだけの街でもここで暮らしている人もいるのだなぁとしみじみと感じつつ歩いた。
”私達が通っているのは私立・明解《めいかい》学園です。小・中・高等部があって、校舎は三つ、それぞれ敷地内に独立して建っています。敷地内に文具を扱う売店はそれぞれ一軒ずつあるけど、あまり種類がなくて。でも紙山文具は種類がたくさんあるし外国製とかデザインも可愛いのがけっこうあって、うちの生徒でもそこに買いに行くって子、多いです。”
昨夜のメールのやりとりの中で美優ちゃんはそう言っていた。火曜日の会社の帰りに見かけた時、彼女はしらみつぶしに紙山文具店周辺を行き交う通行人に前日にいなくなった早苗ちゃんの写真を見せて目撃情報がないかを片っ端から聞いていたらしい。それでもめぼしい情報は得られずに歩いていたところ、私に出くわしたという訳だ。彼女がいなくなったのは今週の月曜日、失踪してから今日で六日目になる。
彼女の事をニュースでやっているかと思って家を出る前にネットのニュースサイトで事件の記事などをざっと見てみたが、それらしきものは見当たらなかった。警察はまだ公開捜査に踏み切っていないのだろうかと考えていると姉妹みたいな母娘らしき二人とすれ違った。背が少し高い方が「お母さん、お昼どうする?」と楽しげに母親の腕に甘えるように掴まっている。友達親子って言うのだろうか、とても仲が良さそうだ。すれ違った二人の背中を立ち止まって見送る。もし自分の娘が六日間も行方不明になっていたらと想像してみる。自分の子供は可愛いだろうし、そんな自分の分身のような存在がある日突然いなくなってしまったら生きた心地がしないだろう。そう思うとやはり他人事とは思えない。一刻も早く探し出してあげたい。この辺りで手がかりがないとすれば、学校の近くとかはどうだろうか?
佇んでいたその場所から明解学園の所在地をスマホで調べるとそう遠くないことが判り現地へ向かった。

学園は土曜日の授業は休みのようで立派な佇まいの西洋風の建物の黒い鉄門の門戸は閉まっていた。傍らに守衛さんが立っているのが見える。白髪混じりのその中年の男性はブルドックの様な厳めしい顔つきをしていた。校門にいつも立っているであろう彼なら何か知っている事があるかもしれない。勇気を出して声をかけてみる事にした。
早苗ちゃんのスマホの写真を見ると彼の顔つきが穏やかになった。
「ああ、この子ね。学内じゃ有名な子だよ」
彼が指さす方向を見上げる。中等部だという校舎の赤レンガの壁に白地に黒文字で印字された大きな垂れ幕が下がっていた。
”ジュニア軟式テニス全国大会 女子シングルス優勝 新城早苗”
「本当だ」
「優しい子だよ、あの子は。目が合うといつも笑顔で挨拶してくれるんだ。いつだったかな、朝、痰が詰まって咳き込んでいたら駆け寄って来てのど飴をくれてね。本当に優しい子だ」
「そうなんですね」
強面の守衛さんも好印象を抱いているくらいに親切な子だったようだ。
「そろそろ交代なんだが、まだ何かあるかい?」
「新城さんが失踪した日もここに立っていらしたんですか?」
「ああ。朝は見かけた。登校して来て挨拶されたよ。警察にも同じ事を聞かれたなぁ。紙山に文具を買いに行ったと聞いたが、校舎を出たのはたぶんここじゃなくて東門からだと思うよ。そこがその文具屋には一番の近道だからね」
守衛さんに礼を言うと正門からその東門に行ってみることにした。バス通りに面した正門とは違って東門は正門から左に進み数分歩いた先の、人通りの無い路地を入ったところにあった。人通りの多い正門前の通りとは違って東門までの道には歩道がなく、車道の白線の内側を歩いて行く。東門から正面に立って見えた街並みは古めかしいビルが多く見える普通のオフィス街になっていた。東門からも中等部の校舎が見えた。さっき正門から見たよりもそれは近くに建っているように見えた。そして東門の入口の敷地内に電柱のような柱時計が新緑の木々に囲まれて突っ立っていた。そこで美優ちゃんが言っていた事を思い出した。紙山までの近道があって、そこを通って文具を買いに行っていた、と。さっきの守衛さんも東門から出るのが紙山に行くのに一番の近道だと言っていた。柱時計の時刻は十一時ちょうど。実際に歩いてどのぐらいかかるのか行ってみよう。スマホで紙山までの位置を確認し、実際に歩いてみることにした。

明解学園の東門から紙山文具店までは徒歩十分程だった。            
「明解の東門から来たのか」
路地から出て来た私に店の外のノートとファイルのセールワゴンを整えていた紙山さんが言った。
「はい、行って来ました」
「近いだろ」
「あまりかからずに着けますね」
「失踪当日、新城早苗はその路地を歩き、途中でヘアゴムが腕から取れてしまったのにも気がつかずに紙山に向かおうとしていた。まぁ、本来なら篠原美優が警察に報告すべき事だが言わなくて良かった。あいつらが俺を誘拐犯扱いしたことがまず許せんからな。あいつらよりも早く犯人を挙げてやる」
「紙山さん、ヘアゴムの事も立ち聞きしていたんですか?」
「悪いか」
「……いえ、別に」
いったいどこから私達が話す会話を聞いていたのか、考えるとちょっと怖い。紙山さんは引き気味の私をじっと考えこむように見つめるとズボンのポケットから何かを出して「やる」と言った。思わず手を出してしまった私の掌に小さな鍵がのった。
「これ何です?」
「買い出しに行くから店番していてくれ」
「店番?」
「頼んだぞ」
紙山さんはお店の傍らに置かれていたチェーンの錆びついた自転車に飛び乗るとペダルにすらっと長い草履履きの足をかけた。
「ちょっと待って下さい。店番とか急に言われても困りますし。わかんないですよ」
「客にそう言っておけばいい」
「はぁ?」
紙山さんはそのまますうっとペダルを漕いで行ってしまった。一人取り残された私のもとに杖をついたおばあちゃんと孫らしき六、七歳位の少女が手を繋いでいそいそとやって来た。少女はリードを手に持ち、その先にふわふわとした茶色い毛並みの可愛らしいフェレットがちょこまかと動いている。
「こんにちわ。新しく入られた方ですかね?もうやっていますかい?」
「えっ?あ―、今はちょっと。店主が不在でして……」
言葉を濁した私におばあさんは不思議そうな顔をした。少女がそばで残念そうに言う。
「せっかく来たのに買えないのかな、おばあちゃん」
「そうみたいだねぇ、残念だけど他のお店を探してみっかい?」
「ゆず、ここの色鉛筆が買いたいの。この前可愛いのがあったの。そのために今日までためたおこずかい持って来たんだよ!」
ゆずと名乗った少女は肩から提げていた白いタッセルの付いた小さなポシェットから小銭を出して私に見せた。悲しげな瞳が赤らんでまるで親に見捨てられた子うさぎみたい。今にも泣きそうだ。うーん、困った、私も泣きそうだよ。仕方なくもらった鍵をお店のガラス扉の下にある鍵穴に差してみるとガチャリと開いた。
「買えるかね、店員さん?」
振り向くと、期待を込めたまなざしのおばあちゃんとゆずちゃんがすぐそばに立っていた。
「は、はいっ、い、いらっしゃいませ!ゆずちゃんは色鉛筆が欲しいのね?」
「うんっ!おばあちゃんに新しいスケッチブックを買ってもらったから色鉛筆買ってから公園に行って一緒にお絵描きするの」
ニコニコしながら話す女の子の欲しがっていた色鉛筆を一緒に探して手渡した。払ってくれた代金がちょうどぴったりだったのでそれを受け取ると二人は手を繋いで満足そうに帰って行った。とりあえずはやり過ごしたみたいだ。ほっとしたら今度は後ろからすみませんーと声をかけられて飛びあがった。
結局その後も何人かお客さんが来て聞かれた質問に四苦八苦しながら答えたり、レジを操作してエラーを出してしまい、お客さんに逆に操作を教えられながらもなんとか接客をこなした。

慣れないことにへとへとになり一息ついてレジ前の椅子にへなへなと座る。少ししてダンボールのみかん箱を一箱、自転車の後ろに紐で括りつけた紙山さんがのほほんと帰って来た。
「ちょっと酷すぎません?なんで私が留守番なんかしなきゃ……」
「お前、新人の割には役に立つ」
「え?」
「いつもより品が売れている」
店内を見回して開口一番にそう言うと、紙山さんはニヤッと笑って私を見下ろした。背が高いところから見下ろされてなんだか癪に障るけれど。けれど褒められているよね、これは。久しく褒められていなかったこともあって余計に嬉しくなった。
「ま、まぁ、紙山さんよりは愛想がいいのでお客さんが絶えませんでした」
紙山さんは私のドヤ顔混じりの返しにぷっと吹き出した。
「何がおかしいんですか?」
「お前、オムライス好きか?」
「へ?」
「礼だ。昼飯食って行け」
 
店の入り口のガラス扉に”休憩中”の札を下げ、三階にある紙山さんの住居らしき部屋で彼が作ってくれたオムライスをご馳走になる。一階から三階までの紙山文具店の入るビルは左側の外階段で総ての階が繋がっていて、二階は倉庫として使っているそうだ。
黄色くふわふわとしたオムライスにスプーンを入れる。口に入れるとトロリとした卵の甘みとデミグラスソースに溶け込んだ焦がし玉ねぎの苦みが相まってすごく美味しかった。
お腹が空いていたこともあって、スプーンを持つ手が止まらない。サイドに添えられたグリーンサラダにもフォークを刺して頬張る。ラディッシュとホワイトアスパラガスとレタスはどれも瑞々しくて即席で作ったというイタリアンドレッシングも美味でいくらでも食べられそうだ。もりもりと食べる私の向かいに座った紙山さんは満足そうに笑むと自分も食べ始めた。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」
満たされたお腹をさすりながらそう言うと紙山さんは立ち上がってアイスコーヒーを入れてくれた。
「意外に料理上手なんですね」
「意外は余計だ」
「……すみません」
「俺の腕の問題じゃない、素材のおかげだ。野菜も卵も近所の店の売り物だ。この辺りには良い個人商店がたくさんある。安売りのスーパー探しに血眼になっている奴が多いが俺は素材で選ぶから自然と味も良くなる」
「主婦を敵に回しそうな発言ですね」
「お前は主婦なのか?」
「違いますけど」
「一言多い女の方が嫌われるぞ」
紙山さんを睨んだらクスクスと笑われてむず痒いような心地になる。さっきからそのからかうような笑顔を向けられるたびにそれが取り繕ったものでないように見えてしまって妙に心をくすぐってくるのだ。この人はそのことに全く気がついてないようなので余計始末に困る。それに彼には悟られたくないけれど正直こうやって軽口を言い合いながら食べていると楽しい。一人で作り黙々と食べてきた今朝の朝食よりも今の方がより楽しく思えるのだ。それに墨田係長には役に立ってよと言われてしまったけれど、ここでの店番では役に立てたのかなと思うと気分が良かった。
小さなキッチンの向かいにあるテーブルには椅子が二つあって私達は向かい合ってそれに座っていた。私が座っている椅子には四角い椅子カバーがつけられていてそれはピンクで、紙山さんの方は淡いブルーだ。もしかしてこの椅子の方にいつも奈々子さんが座ってこうやってご飯を食べていたのかもしれない。まぁ、いずれにせよ、私は紙山さんの彼女でもましてや友人でも何でもないので関係ないのだけれど。
「学園に行ってみて何か手がかりはあったのか?」
紙山さんは手にしたマグカップに淹れた珈琲に角砂糖を五個入れスプーンでクルクルと掻き回しながら聞いてくる。そのマグカップが椅子カバーと同じような淡いピンク色なのに気がついた。そっとキッチンの隣にある食器棚を見たら同じような薄水色のマグカップが下向きに置かれているのが見えた。もしかしてお揃いで買って彼女の方をわざと使っているのかもしれない。マグカップから珈琲を美味しそうに飲む紙山さんの様子を見て奈々子さんへの未練は相当根深そうだと思えた。これも全く私には関係のない事だけれど。
「聞いているのか?」
気がつくといぶかしげにこっちを見ている紙山さんがいて慌ててすみませんと謝る。
「正門にいた守衛さんから早苗ちゃんの事を聞きました。凄く優しい子だったみたいで、テニスでも全国大会で優勝するくらい実力があったみたいです。誰かに恨まれるような子ではないって美優ちゃんも言っていましたし、周りの評判も良さそうでした。だから、もし誰かに拉致されたとしても彼女の知り合いではないのかなと思います」
「どうしてそう思う?」
「だって好かれていたって事はそれだけ怨恨の可能性は低くなるじゃないですか」
紙山さんは意外にもじっと私の推理を聞いてくれたから少し得意げになっていろいろと今の考えを語った。凛としたクールなまなざしで見つめられていたものだから、ちょっと緊張しながらだけれど。
「不思議だと思わないか?」
話を終えると紙山さんは珈琲を一口啜った後にそう告げた。
「何がですか?」
「新城早苗が学園を出て紙山に向かったのは十二半頃だと言う。十分で東門からここに来て買い物をし、また学園に戻ったとしても到着時刻はおそらくお昼休憩の終了する午後一時ぎりぎりだ」
「ですね」
「不思議だ」
「だから何がですか?」
「お前も歩いて来たからわかったかと思うが、学園からここまでの道は殆どがオフィスビルに面している。実際彼女が失踪した月曜日と同じ平日の二日間、正午から午後一時の間、たくさんの勤め人がお昼を食べに十二時になると隣接したビルから出てきていた。そして一時になる前にわらわらと帰ってきていた。おそらく殆どの社が昼休憩を正午から午後一時までにしているのだろう。それだけ新城早苗が通ったであろう時間帯に人通りが激しくあった道で何かあれば誰かに見つかる可能性は高い。なのに未だ警察も目撃情報を得ていない」
「実際に二日間、それを調べていたんですか?」
「悪いか」
「いえ……凄いなぁと思って」
素直にそう言ったら鼻で笑われた。
「探偵の基本だ。何も刑事だけがアンパン片手に張り込みすると思うな小娘」
「小娘って、私ちゃんと名前があるので名前で呼んで下さい」 
ムカッとしてそう言ったら、おかしそうに目を細められた。
「じゃ、なんて呼ばれたい」
「そうですね、例えば……フデさん、とか」
「誰を真似している。あのどんな紙でもくっつけて一生離さなそうな刑事か」
「ノリさんです」
紙山さんはフンと鼻で笑うと、今度は顎に手を充てて私をじっと見つめてからポンと手を叩いた。
「筆だから……カッキー」
「誰かの名前、もじってます?」
「ダメか?」
「もうお前でいいです」
「そんなことより、もしお前が新城早苗だとしよう。急いで目的地に向かおうとした時、例えば門を出た所で誰か知っている人物に声をかけられて送ってあげるから車に乗れと言われたらどうする?」
「車に?」
「どんな人物だったら警戒なく乗る?」
「えっと、家族とか友達とか職場の人とかですかね」
「つまり心を許せると思える人物の誘いなら乗る、という事だろう」
「はい。それが何か?」
「つまり新城早苗はあの日、急いでいたはずだ。何しろ十二時半にでて校舎に戻って来るにはぎりぎりの時間だとわかっていたからだ。しかし、東門を出た所ですぐに知っている誰か、心を許せる人物の誘いに乗り、車に乗ったとする。そうすればいつもの近道を歩いて通ることはなく、目撃者もいなくなるということになる」
「なるほど!目撃者がいないのは、彼女が車で移動したからか」
「そう考える方が目撃者がいない理由になる」
「でも待って下さい。早苗ちゃんがあの日、腕にしていたのと同じヘアゴムを事件のあった次の日の火曜日に紙山へ行く近道の途中に落ちていたので拾ったと美優ちゃんが証言しています。そうすると早苗ちゃんはやはり近道を通っていたと考えられますよね?」
一気に早口でまくし立てたら紙山さんは呆れたようにため息を吐くと手を出せと言った。
「また何か握らせるつもりなら、出しません」
鍵を渡されていきなり店番させられた過去は記憶に新しいんだから、と疑いの目で睨んだら、紙山さんは「そういう事だ」と言って立ち上がると私の前の皿と自分の皿を重ねてキッチンの流し台の方へ行ってしまった。
「そういう事って、どういう事ですか?」
私も飲み終えていたアイスコーヒーのグラスを持って後を追う。
「一回嫌な事をされた相手の事は信用しない。でも何もされていない人間の事は簡単に信じる。なぜ俺の言う事は信じなくて、店で一回会ってろくに話もしなかった女子中学生の話は信じるんだ?」
「え……」
紙山さんはお皿を洗いながら言葉に詰まった私を見て持っていた空のグラスをひょいと取り上げてしまうと口元を上げて言った。
「お前は篠原美優が本当にヘアゴムをその路地で拾ったところを見たのか?」
「……いえ」
「ならばそれが真実であるという証拠にはならない。どんなヘアゴムだったのかはよく見えなかったが彼女がそれを腕につけているのを拉致した人物が知っていたなら捜査撹乱の為に後からだって現場に落としておける。或いは拾った本人がわざと落とした可能性だってある」
「まさか!何で美優ちゃんがそんな事するんです?」
「推理とはあらゆる人間を疑う。見るからに善良そうな人間も一度疑ってみる。そういうものだ。人を直ぐ信用してしまう人間がやるものじゃない。お前は店番には役に立つようだが探偵には向いてないようだな」                
 紙山さんが呆れたように言う。何も言い返せなかった。
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