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エピソード

『ドランリープ』より 3章 -0-  ■北神の報われた恋■

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 ■北神の報われた恋■

*** *** ***

北神と南神のその後についての説話 おまけ掲載

*** *** ***

 こんな事言っても君は信じないかもしれない。僕はね、世界の時間以外の『全て』。
 『全て』を見届ける瞳を持っているんだ。あらゆる事が手に取るように分かり、僕の知らない事は何一つない。知りたいと思えば答えは僕の前に常に開けている。
 そのかわり、と言っては何だけど……僕は『答え』に口出しする事を許されていなかった。
 私情の入り込む余地が無い僕の瞳は、では……何を基準に何を『見る』のだろう。
 興味は一種の感情と言えるのだろうか?
 運命という偶然を、素晴らしいと思わず手を叩いて祝福したいのか?
 とにかく、僕はただこの世界を見守るのみ。僕にとっては既にもうどうでもいい事をただ、何の脈略もなく『見る』
 これは僕に課せられた罪科の様なものなのかもしれない。そんな風に考えて気を病んだものだけど今は吹っ切れてしまったね。そこの奴らは僕は未だに病んだままだと思っている様だけども。

 これは僕が望んだ事であったのか、それとも素晴らしくて憎たらしい『運命という偶然』であったのか……『全てを知る者』となった今、それは僕にも良く分からない。
 因果を辿って行くと何が原因であるのかが良く分からなくなるのさ。きっかけとなった事は一体ドレで、何時の、どんな決断が今に紡がれているのか。途中分からない事があればいいけど、残念ながら今知りたいと願えば全部を知り得てしまう。でもわかった所でそれは『答え』だとは限らないだろう?
 たった一つ、僕が自由に出来ないものは時間くらいかな。
 だから、実は全てを知り得たとしても、それを実際に自分の意識下において整理していくのには時間がかかったりする。そればかりは瞬時に、と云う訳にはいかない。時間だけが思い通りにならないというのはそういう意味だ。例え僕でも全てにおいて時間と云う制約は受けなければならないって事だね。すでに、僕ら方位神は『時間』に見放され、時の外にあるにも関わらずに、だよ。
 良く分からないといった顔だね?具体例か……そうだな。

 全ての答えは目の前に開ける。でもそれを僕が受け取って、どう思うかというのはまた別だ、という意味だよ。どういう気持ちになるか、それを知って何を思うか。次に何を知りたいと願うか……そういう事を判断するには普通の人間と同じくらいの時間が掛るっていう事さ。

 え?未来の事は分からないのかって?

 ふふ、君は……どう思う?僕は未来をも見通していると思うかい?



 ルミザは少し考えてから……さっきから黙ったまま自分たちの問答を眺めながらお茶を飲んでいるファーステクを見た。何も答えるつもりは無い様で、小さく肩を竦めて見せる。
 次に、その隣でやはり黙って話を聞いているだけのラウェイに視線を投げると、すでにそうやって意見を求められることが分かっていたかの様にラウェイもこちらを見ている。ルミザとラウェイは眼が合った訳だが……『そう云う事に』彼、ルミザは臆する事がない。
 そうだった、そういう奴だという諦めの吐息を微かに漏らし、ラウェイは少しだけ眉根を寄せて迷惑そうな視線を返してから、逸らす。
 仕方が無く、黒い癖の無い長い髪をそのままに肩に垂らした青年ルミザは視線を元に戻した。
 つまり、こちらの質問を質問で返してよこした不思議な『少年』イン・テラールに、だ。

「語れない制約がある、だから……未来が見えているかどうかは答えられない、かな?」
「正解」
 ルミザは、恐らくは馬鹿にされたらしい言葉をさほど気には留めなかった。
 イン・テラールからは辛辣な物言いをされるかもしれないが、気にするなと事前に言い含められていたからだ。それに、田舎青年だと云う事を否定はしない。実際、カルケードよりもっと南のファイアーズ地方の生まれだ。ド田舎から来たという自覚は十二分にあった。

 子供の頃にある程度の読み書きを教える学校に通っていたが、そこで別段特別な評価を得たという認識はなかった。最低限位の事は教えて貰ったが、働ける年齢に達すると自然と仕事を手伝うように願われて学校になど行っている暇が無くなってしまう。ルミザの故郷とはそういう所だ。
 そんな故郷を内包する国、南国カルケードが敷く行政機関は、率先して子供に学業を受けさせるようにと働きかけている様ではある。敷居を低くして、どんな田舎町にも最低一人学習院専門の役人が配属されて居るのだと聞いた。また、これとは別に外国からの学習院というのもある様で同じように子供の面倒をみつつ知識を与える教室を開いていた。カルケードの行政機関、つまり公立学校に比べ外国院は競い合う様に子供を集めている所があるともいわれ、地域によっては公立より流行っている所もあれば、逆に怪しまれて追いだされてしまう事もあると聞く。

 外国の学校は確か、宗教関係の機関だった。天使教というのが主で、その他にも西教の機関もあったはずだ。カルケードの宗教感は緩く、国でこれと云って薦める神の教えがあるわけでもない。土着の風習は根強く残るが、それらに外来の宗教観が混じってしまって割合緩いものであるらしい。
 比べれば、外国は……窮屈だ。
 ルミザにとって外国とはカルケード国以外、と云う事になるのだが、こうやって外国に出る機会が出来て色々な事を見たり、聞いたり出来るようになって自分の知識を広げる事は楽しい事だ。理解が進むと、外国の宗教観がカルケードに比べると極めて窮屈だという話は最もだとルミザも思うようになった。
 しかし、物事に向けて理解が進んでいく事についての戸惑いもある。
 何しろ、ルミザ自身がその『宗教の一つ』の担い手だというのだ。とんでもない話である。
 事も在ろうか、自分はカルケードで土着している風習の根底にあるのが方位神、ルミザ・ケンティランドだというのだ。自分がそのルミザだという話は、正直に言えば未だに信じられない話で、本当にそうなのかと疑う余地がある。
 彼自身は信じる必要は無くて、他の信じる者達の為に『理解をしろ』と云われた。
 ルミザという南方方位神の座は空白で……しかして必要な時には必ず現れてその座を埋める。そういうものであるという自国の宗教観は理解している。そういうお祭りの儀式としてルミザは、ルミザの役を演じる事を求められてそこに、座した。

 勿論、それが人柱という意味を含んでいる事は分かっている。

 現在、彼はルミザと呼ばれているが両親から貰った名前は違うものである。
 どちらが真名であるかという拘りは無く、今はルミザとして認識されているから自分は確かにルミザなのだろう、と思っている、その程度。
 今だ手探りの中で、その不安が自然に漏れ出ているのだろう。それで色々な人から支援を受けているのだとルミザは思っている。

 例えばこの、会合が行われている庭のある館の主、ファーステク。それから知識的な面も含めて色々とおせっかいを焼いてくれるラウェイ。特にラウェイには御世話になりっぱなしだ。一見活発そうな青少年だが、話をしてみると異様に落ちついた所がある。何事にも動じない、深い洞察力が備わっている様な、達観しているように気苦労を顔ににじませる事があった。
 南方方位神として『迎え入れられ』て、まぁそんな事云われたって意味が分からないだろうからしばらくウチで色々勉強しろよと、学士の庭と呼ばれる彼の住居に長らくお世話になっていた。
 勉強は嫌いかと聞かれ、ルミザは即座にそんな事は無い、勉強はしたいと答えたからだ。
 実は仕事の都合学校を途中で放り投げていた。学校は、嫌いではなかった。知らない事が沢山あって、それを理解するに知識というものは大いに役立つものだった。

 今は、雨が降る仕組みというのも理解している。世界的な天候の推移で例年の歴が狂う事はよくある事で、そういう時にはどうすればいいのか、という方法論についても昔よりはずっと理論的な解決方法を考える事が出来るようになった。

 祈れば雨が降る訳ではないのだ。祈りから、雨が齎される事は極めて異例な事である事を今は理解している。

 たとえば、彼が住んでいた地域は草原気候と言える、後付けの知識なのだが。
 カルケードの国土は、6割が砂漠だ。歴史を学ぶと、カルケードがファイアーズ地方を治める前は8割が砂漠だったという。砂漠気候に近いと、年間雨量が少ない。実際、ルミザ住んでいた地域において雨は最も重要な天候で、宗教的な事はほぼ雨に関する事だったと言っても過言では無かっただろう。
 雨が降るか、どれくらい降るか、それに全てが左右される生活を送っていた。
 比較的南部で、雨量が多い地域に畑を開いて生計を立てている地域がルミザの故郷である。遊牧を行う者も居れば、さらに南に在る森林地帯に入って薪を作る者も居た。
 天候は、年ごとに大体決まったサイクルを繰り返すものの多少気まぐれな所がある、その気まぐれと感じる所に信仰に値する『何者か』の存在を感じるのだろう。
 それは『嘘を吐かない正直な竜』である、とルミザの村では信じられていた。
 嘘吐きは悪しき事として教育し、カルケードの風土もあって一番罪が重い事として教えられる。嘘吐きは『嘘を付かない正直な竜』から何らかの罰を受けるものだと脅されて育つ。名称は地域や村によって違う事もあるようだが、ルミザはノーデライと呼んでいた。
 しかし、ノーデライは雨を降らす竜ではなかった。
 伝承を照合するとノーデライは日照りを齎す事象であり、農作物を枯らし土地を荒すモノだ。
 ノーデライの機嫌を取って、嘘を吐かずに正直に暮らす。そうすると、ノーデライは遠ざかって日照りなどが収まり上手く行けば雨が降る。そういう事らしい。

 あくる年、日照りが続いて凶作が続いた。流行病が蔓延し、いくつかの村が砂漠に飲まれた。

 ルミザの両親は凶作に喘いでいる内に流行病で死に、そうこうする内に草木は枯れて砂が飛び、田畑はどんどん枯れ地へと変わり果てて行く。
 ノーデライのご機嫌を取っている場合では無くなったのだ。ノーデライという気まぐれで、手に負えない存在が害を成した時にはどうするのか。
 そういう時、もっと超常的な存在への祈りが必要になってくる。ノーデライを圧倒する、得体のしれない何者かではなくて……化け物を成敗する特別な『神』への祈りが生まれる。
 空白の座を埋める時だ。
 平穏な時代においては空白で、必要な時には顕れて『剣を振る者』……それが、南方方位神ルミザ・ケンティランドという神様だった。
 両親が死んで途方に暮れた彼は、雨乞いの為にノーデライを征伐する『ルミザ』になるべく捧げられた人柱だ。それで、本当に雨が降るとその時……彼は信じていた。
 ノーデライという驚異が存在するのなら、それを圧倒する『神』もまた必要な時には必ず現れるのだと信じていたのだ。だがそれが、自分だという話には間違いなく戸惑いがあった。自分が、それになる事で全てが救われると云う話を信じろと、云われたのではなかった。

 『理解しろ』と言い含められて彼はルミザになった。

 そうして、本当にルミザ・ケンティランドに成ってしまったのだ。

 ルミザはその時の事を、昨日の事のように思い出す事が出来る。
 実際あの時から何年の月日が経っているのか少し自信が無い、学士の城と呼ばれる所では、日数は数えるが冬が来た回数まではあまり重要視されていない。それに気が付いた時、一体自分は何年ここで勉学に励んでいるのか数えてこなかった事を知り、少し慌てたものだった。
 ラウェイ曰く、自分たちには無意味な事だとも云われたが……。

 空白の座を埋め、ルミザとしてノーデライを倒す様にと祀られて……見た事が無い、美しい飾りの施された剣が献上された。それはカルケード国から此度の祭事に貸し与えられたものだという。国宝だ、これを帯びる事が許されるのはルミザだけであると聞かされ、国から許可を得て初めてこの神事は行える極めて特別なものである事を、祭りを取り行う神官達から丁重に教えられた。
 ご神託があり、国宝剣を以てルミザ降臨祭を取り行えばノーデライは除かれるという。

 家族と死に別れ、一人になってしまった青年は望まれる通りに祀られ、剣を帯び、ノーデライの面前へと送りだされた。

 それは、砂漠のど真ん中に一人で置き去られるという事だった。
 食料も水も与えられず、戦う装束を身に纏って放置されればどうなるのかは想像に難しい事ではない。それは、死ぬと云う事だとルミザは即座理解出来た。
 迎えは、来ないという。
 ルミザが再び座したのなら、ルミザの剣である国宝剣は彼のもとに在るべきだから国に取り戻す必要が無い。
 しかしその美しい剣で、一体どうやって見えないし触れる事も出来ないノーデライを打ち倒す事が出来るのだろう?

 一人砂漠に立ちつくし、ルミザは照りつける日差しに喘いでいた。

 しかし程なくして……生温かい風が吹いた事に顔を上げた。見る間に日差しが陰り、頭上に黒い分厚い雲が渦巻きながら発達していくのを口を開けて眺めていただろう。
 雷が轟き黒い雲の合間を走り抜ける。
 冷たい雨が降り始めるのに、さほど時間は掛らなかった。雨を冷たいと感じた事など一度もなかった。そもそも冷たいとは何だろうか?冷たいという表現は分かる。それは学校で習っていた。しかし冷たいという感覚は南国では難しい表現で、先生も教えるのに苦労していたのを思い出している。水の少ない時期に苦労して桶一杯の水を集めて、それを柄杓で掬って打ち掛けるという贅沢な方法で先生は『冷たい』を教えてくれたが、大半は理解出来なかっただろう。

 しかし、ルミザはその時降った雨が先生の教えた『冷たい』雨である事を理解出来た。

 ルミザの棲む地域において雨は、どんなに強く降ろうとも冷たいものでは無かったのに。
 掌に雨を掬うと、白い粒が混じっている。それを見て、噂には聞いたことがある氷というものを思い出していた。氷の粒だ、今降っているのは雨ではなく……氷の粒だから冷たいのだろうかと顔を上げた時、何時の間にやらすぐ目の前に人が立っていた。
 驚きは無かった事を覚えている。
 冷たい雨を浴びながら、何か想像を絶する事が起きていてすでにその渦中にあるのだと悟っていたからだろうか?

「雪は初めてですかね」
「……雪?」
「いえ、雪では乾燥に耐えられず四散してしまうので正確には雹を降らせているのですが、地表に到達するまでに殆ど氷の粒ですね」
 見た事が無い服を着ている青年が小さく会釈をして、敵意が無い事を示す様に微笑んだのが分かった。その時になってルミザは自分が、何を課せられていたのか思いだした。腰に帯びている剣を見る。
「ノーデライ?」
「違います、違いますからその剣は抜かないでくださいね」
 慌てて青年は手を振る。
「私はイースと云います。イース・ラーンという北方の……そうですね、魔術師と云った所ですか」
 ルミザは動転していて目の前の青年に、慌てて自己紹介をして返した。
「カトリ……じゃなかった!ええと、ルミザ……ルミザ・ケンティランドです」
 イースは大きく頷いている。
「そうでしょう、そうでなかったら私の首が危うく飛ぶ所です。その、剣を目印にしたので間違いは無いと思いますが一応、確認させていただきました」
「イースさんが……この雨を降らせている?」
「そうです、それくらいご自分でやればよろしいと思うのですが、砂漠のど真ん中に行くのが面倒などと云う方でしてね、人使いの荒い方です。さぁルミザ、貴方を迎えに参りました。雨は満遍なく、この地域に降らせて置きますから後の心配は無用」
 そう言って、イースが手を差し伸べてきたのにルミザは、あまり迷いもなく手を重ねていたのを思い出せる。そして、その手が幾分『冷たい』事も。
「イン・テラールが貴方を待っています」
 その名前は、どこかで聞いた事があると思った。
「参りましょう、とりあえずは状況の整理も必要と思いますので……緑の館へ向います」


 空間転位、という魔法の一種らしい技でルミザが緑の館、と呼ばれるファーステクの棲み家に連れて来られてから……それからは怒涛の様に過ぎていった。

 自分が、本当に『ルミザ』になってしまった事。
 それを理論的に説明しようにも、今はまだ飲み込む事の出来ない事だろうからと、ファーステクは有無を言わさず東に座する方位神ラウェイを呼び付けて、彼の世話を受けるように頼んだ様だった。そういうファーステクはどうなのかと云えば、それは当然南に座した君の前に居るのだから方位神に決まっているだろう?と言った後、という事情も勿論知らんだろうな、と一人呟いてルミザをその場に置き去りにする様に匙を投げた様である。
 実際その通りで、何が何やらさっぱりルミザには分からなかった。
 砂埃を纏っていただろう戦装束は、イースの降らせた雨に洗われて幾分さっぱりとはしていたが清潔感は無かっただろう。
 ……という事はイースも方位神なのか、
 漠然とそういう風にも疑問が湧いたが、それを口に出す余裕が彼には無かった。

 どうすればいいのか、ここが緑の館、というのは分かったがここで自分は何をすればいいのか、まごついて、目を回している内に……活発そうな青年が飛ぶように館の玄関口の扉を開けた。
 そうしてルミザを一目見て、お前か、と一方的に何かを決めつけて近づいてくる。青年が目の前まで迫って来たがルミザはそれを呆然とただ見守ってしまうのだった。
「話はどこまで聞いている?俺はラウェイ・ディラ・クラスチス。おい、ファーステク!これがルミザだな?放置してんじゃねーぞおい、」
「放置はしておらん、茶の準備をしていただけだ」
「だから、ここに放置しといたらダメだろう、それよりまず先に色々と……ああ、もう!面倒だな、お茶なんかゆっくり飲んでられる状況かってんだ。なぁ?」
 顔を覗き込まれ、同意を求められたが、間違いなくそういう状況にあったと後から思うのだが、その時はルミザは答えに窮した。何と答えて良いか分からなかったのだ。
 何が分からないのかも分らない。
 そうやってただ突っ立っているしかないルミザを『理解』している様なラウェイは、ファーステクのお茶を辞退し、引っ掴むようにして自分が棲む学士の城に彼を招いた。
 問答無用で連れて行かれたのかもしれない。その辺り何と問答をしたものかミザはよく覚えていなかった。とにかくラウェイの薦めで緑の館から、今度は風の吹き荒ぶ高山に座す、不思議な城に連れてこられた。
 着いてすぐ風呂を勧められ着替えを与えられ、部屋を与えられて食事が出された。
 その頃になってようやくルミザは、ノーデライの討伐が上手く云ったという事実を把握し、自分の住んでいた村が救われて、立ち直って行くだろう事を保障されて安堵のため息を漏らす事が出来たのだった。

 そうして、勉強は嫌いか?という問答があった。

 色々な事を一から、丁寧に教えて貰ったし、文字も一通り読めるから勧められた本は一所懸命に読んだ。
 知らない事が、するすると理解出来て行くのが楽しくて時間を忘れ、衣食住過不足無い環境で必死に知識を蓄えて自分が何者なのかを理解しようと務めた。
 困った事があるとすれば、城の住民は皆一様に『幽霊』だという事だろう。まさかと思ったものだが、実際透明ですり抜けてしまって触れなかったり、色々と常識だと思っていたことが通じない。彼らは『飛びぬけた所』に居る所為なのか極めて非常識で自分勝手で、冗談も含めて嘘を沢山吐く。
 嘘を吐く、そこが一番ルミザにとっては信じがたい事だったが、それは文化の違いだという事は暫くして理解出来るようになった。

 自分は、疑う事をあまりしないのだという事にも理解が行った。
 嘘を吐かない様正直に生きる事が、あまりにも普通であったから目の前で起こった事を疑うという選択肢があまりないらしい。身に起こった事を、ありのまま受け入れられるからアンタにはこの環境がちょうどいいんだとラウェイが言っていたと思う。

 学士の城の環境に慣れた頃、ルミザはようやくイースから言われた言葉を思い出す事になった。

 『イン・テラールが待っている』

 勿論すぐにラウェイに相談をしたら、それはそうだろう。イン・テラールはずっとお前待っている、それはここに居る誰もが知っている事だから気にするな、それよりも何故インテラがお前を待っているのか、それをお前が理解する方が先だ、という返事を貰った。
 それを理解する前にインテラに会いに行っても、会話にならないからお勧めしないとラウェイは言うのだ。
 ずっと待っているのに、待たせて置いてもよいものか?と聞いたはずだ。

 大丈夫だ、奴は待つのが得意だ。

 いいかルミザ、インテラを待たせているのは『ルミザ』だ。
 まずはルミザに『成って』からでも会うのは遅くない。奴が恋い焦がれてるのはカトリじゃない、ルミザなんだ。そこを忘れる事が無いくらいに理解してから会う方が、多分筋ってものだろう。


 もう、あれから何年立ったのかはよく分からない。
 実は、いまだに自分がルミザで良いのかという確信があるわけではない。
 それでも、今日ようやく念願のイン・テラールに会った。ラウェイは渋っていたが、ファーステクが段々どうだろうと話を持ち掛けてきた様である。
 イン・テラールが催促したという話ではない様だった。だからだろうか、イン・テラールは唐突にやって来た。
 どのような会合の席にするか、ラウェイとファーステクが話し合っている最中に突然、イン・テラールはテーブルの席に現れたのだった。



「余計な入れ知恵をしたのはラウェイか?」
「あれ?お気に召さなかったカンジ?」
「そんな事は無い、どっちかっていうと感謝してるよ。何も知らずにこんな所に拉致されたら、普通面倒くさい事になるだろう?」
「お前……本当に面倒な事はしない主義なんだな」
 ほら、僕の分のお茶を入れろよ、というジェスチャーに向けて溜息で返事を返し、ファーステクが席を立つ。
 そうして、お茶のおかわりと……ケーキをホールで運んで来る。
「ちゃんと僕の分のお茶受けも用意してあるじゃないか」
「私がしっかりしているのではないな、イースの方が気が利かせているのだ。お前が何時もそうやって気まぐれに来るからな」
「役に立ってるかい?彼」
「慣れない仕事に無駄に慣れてしまったと、何時も大げさに嘆いとるよ」
 ルミザを迎えにきた『魔術師』のイースは、この館の管理を任されているらしい。主はファーステク、彼は学士の庭でよく見る様な白衣をまとった研究者と云った身なりの初老の男なのだが、曰く家事的な事は一切せずに、この庭で土いじりばかりしている……らしい。
 今は知っている。彼らも方位神だ。イースは北の東寄り末席、ファーステクは北西に座する古参の一人だという。
 方位神というものは、時間に取り残されているんだ、とラウェイが言っていた。難しい話で正直理解出来ていない事を示すと、ようするに世界一般の奴らとは立ってる世界がちょっと違うのだ、と言う。
 ラウェイ曰く乱暴に言えば、顔を合わせて話が出来るなら方位神にとってはそれは、方位神だという事らしい。
 ここから色々な話をするハメになったが、ルミザはまだすべてを把握しているという自覚は無かった。ラウェイ曰く、無自覚な奴も居るからそんな必死になる事ではない、と慰めてくれた事もある。

「まだ自分がルミザなのかどうか、戸惑っているんでしょう?」
 ふいと、自分にイン・テラールの矛先が向いたのをルミザは知って驚いて顔を上げる。
「俺の迷いも……知ってるんだ」
「本当にそうかな?カマ掛けただけかもよ?」
 イン・テラールは微笑んだままお茶を飲んで、早速ケーキをつつきながら言った。
「全てを知るって存外面倒なんだよ。僕はね、労力が伴う事はとても嫌で基本的には楽をしていたいし、面倒な事はしない主義だ」
 聞いていた通りの少年だ、とルミザは思った。イン・テラールの事は、主にラウェイから多分余計な事も含めて沢山話を聞いている。
「ラウェイは、そういう風に振る舞うしかないのだろうと言っていたけど」
 視界の奥で、ラウェイが何バラしてるんだよバカ、という感じの慌てた表情をして見せている。
「間違いじゃないね、そういう所はあると思うよ。ずっと君を待ち続けて色々と飽きてるから。貴重なんだよ、今の僕にそういう口を聞いてくれる人って彼らくらいなんだ。少し知識を得ると、全て僕に筒抜けだと理解をすると、会話自体が必要無いと思う人も居るし怖がって離れる奴も居る」
 そう、だからラウェイは言葉や仕草でイン・テラールに気を遣う様子を見せるが実際に全てにおいて『今更』なのだ。ルミザは微笑んで答えた。
「悪口を言ったって、どうせ知られているんだから気にするものか、とか……ラウェイが言っていたかな」
「だから、俺の話ばっかりするなよルミザ」
「ごめん、……俺は、嘘吐くとか基本出来ない性分だからなぁ」
 頭を掻いて、ルミザは照れ臭い風にイン・テラールを窺った。
「怖い人だって云われてるけど、俺はそうは思わなかった、かな」
「僕の事かい?」
「可愛い子なんだな、って思ったよ」
 十分な間があった。
 ラウェイとファーステクが固まって状況を窺っている事にルミザが気が付き、少し慌てる。
 イン・テラールはお茶を飲みほしてカップに置いて、そうしてから……暫く黙っていたのだがふいと顔を上げる。
 微笑んでいた、というよりは……恐らく、照れ笑いの様なものを浮かべてルミザを窺う。広角を上げているが、それが少し引き攣っている様にも見えるが怒っているという風ではなく……その、頬を引き上げる筋肉が久方ぶりに仕事をした為に戸惑っている様な印象を受ける。そんなぎこちない笑みを維持できないのか、イン・テラールは即座両手で自分の頬を覆った。
 そうして、呆然と呟く。
「ちょっと嬉しい」
 二人の目が合い、ルミザが応じる様に少し微笑んで返すとイン・テラールの方が慌てて視線を目前にあるケーキに落とす。レモンの利いたチーズタルトにたっぷりの生クリームが乗っているものだ。その先に乗っているミントの葉は苦手なようで、さっきから懸命に取り除くべくフォークで突いていたが上手く行かずにくっついたままだ。
「嬉しいなんて、暫く思ったことが無かったな……なんだろうなぁ、嬉しいで合ってるのかな。凄い、僕、恥ずかしいよファーステク」
「喜ばしい事ではないか、お前が取り乱す様子は数千年来見ていないとファースが言っている」
 頭を軽く指でつつくようにしてファーステクが言う。正直ルミザにはニュアンスがよくわかなかったが、それよりも気になる事があって正直に口に出る。
「数千年?本当に、方位神って死なないんだな?そのあたりの実感が沸かないというか、よく分からないというか……」
「じゃ、そのあたりを実感してくるかルミザ」
 と、ラウェイ。
「実感……て?」
「最初の頃結構、気に掛けてただろ、故郷が今どうなってるのか、とか。里帰りでもしてみるか?」
「え?いいの?」
 その提案は、少し望んでいた事でもあった。許されないとは聞いていないから、出来なくは無いのだろうと思っていたが実際どうすればいいのか、考えた事が無かった。
 ルミザが世話になっている学士の城は、位置的には東方大陸にあると聞いている。南国大陸のカルケード国に行く為に『方位神』は、どういう手段を取れるのかと云う事を具体的に確かめた事はまだ無い。
「方位神については、教えてあるのだろうなラウェイ」
「そりゃ、勿論。関連の書籍は読んでもらったし、理論的に簡単な所は説明してあるけど」
「では何が問題であるのかは分かっているな、ルミザ」
 ファーステクの問いの意味がルミザには理解出来た。
「方位神は基本的に……見えない。触れられない、幽霊みたいなもの、だから……一般世界に降りた場合何にも干渉……出来ないのかな?」
「そんな事は無い。ものすごい規模で干渉出来てしまう。ラウェイ、意味が伝わっていないぞ」
「ええとだから、方位神と云う事は嘘でも何でも理解されたらアウトだ。完全にアウトな、その時点で過干渉になって何がどーなるのかはもう保障されない。世界ってあり方がめちゃくちゃになるだろう。だから出来ないのではなく、しちゃいけない。その立ち位置を忘れるな」
「でも、出来ないって思いこんでいれば干渉はしないだろう?」
 ラウェイが口をまげた。間違っては居ないね、とイン・テラールが笑っている。
「方位神は、という前提を付けるなって事だ。……まぁいいか、この天然がそこまで分かっているなら問題無いと思わないかファーステク」
「そういう考え方もあると言える、か。まぁよかろう」
「ねぇ、僕もそれに付き合ってもいいかな?」
 ものすごい顔でファーステクがイン・テラールを振り返り、見た。それは、何とも形容しがたい顔で……怒っている様にも、呆れている様にも、笑っている様にも見えて……ルミザは色々諦めて『ものすごい顔』という認識をするしかなかった位だ。
「どういう顔をするんだよ、お前、」
 明らかに不機嫌な声を出したイン・テラールに……呆れた口調でファーステクが答える。
「そんな面倒な事を言いだすとは思わなかった」
「あのねぇ、僕は基本的にルミザの事に関してはなんにも、面倒だと思った事は無いよ」



 久しぶりに見るかつての故郷は、豊かな緑に包まれていて気候そのものが変わってしまったのでは無いか?疑う程に穏やかになっていた。
 思っていたよりも年は立っていた、凶作続きにノーデライ討伐の儀式が行われてからもう五十年程は過ぎていると知ってルミザは驚いた。まさか、そこまで時が立っていたとは思わなかったらしい。精々10年かそこらだろうと思っていた、半世紀過ぎたのに外見はなんら変わらない自分というものをまじまじと水鏡の向こうに見て、ルミザは苦笑いを浮かべる。
 わずかな風に波立つオアシスの湖に写る、自分の輪郭がぼやけた。間も無く陽が落ちて、夜に行われる祭りが始まるだろう。
 湖に、いつの間にかうっすらと月が写り込んでいる。
「もしかして、時間の流れも違うのかな」
「そうだよ、僕らは基本的には時間に『取り残された』存在だ。ラウェイがそんな事言ってなかった?」
 ルミザは深く溜息を洩らしていた。確かにそれは聞いた、しかし正直、
「取り残されたの、意味が分からなかった」
 すっかり大きくなった町は、丁度祭りの時期らしく活気があってかつてこの地域で取り行われた神事についての記念碑が……立派な石碑が立っていた。ルミザの再誕を謳うものだ、このあたりの祭りの主神はすっかり悪竜を退治した南神ルミザ・ケンティランドになっている。

 それは、ノーデライ信仰がほぼ無くなっている事を意味している様だった。

 老人らを捕まえて、このお祭りはどんなものですかと聞いて回ると、夕方からすでに酒を入れて陽気な彼らは、ルミザらを旅人と察し喜んで昔の事を語って聞かせてくれた。
 その中に、微かに嘘を吐かない正直な竜が出てくる。今、それは再誕した南神によって撃ち倒されたので機嫌を取る必要が無いらしい。では今は嘘にも寛容か?と聞くとそんな事はないと男たちは笑って酒を酌み交わす。
 ルミザの剣は悪しき心を斬るのだから、そんな悪い事を心に飼ってちゃいけない。聖剣士の手を煩わせる様な事はしちゃぁいけないと陽気に笑い、今もここでは嘘は一番の罪に変わり無い様である。

 故郷の心は、信仰は違えど変わらずにある事にルミザは安心した。

「随分変わってしまったけど、無事に再興していてほっとした」
「これが方位神が干渉した結果の一つ、と言えるけど」
 南国の厳しい日差しを遮る為にすっぽりとローブを纏っているイン・テラールが言った。手に果実ジュースを抱えていて、それを麦の茎で吸い上げてちびちびと飲んでいる。もう日が暮れるのだから取ればいいのにと思ったが、それはさておきイン・テラールの言葉に自分の言葉を訂正する。
「……いいや、言いなおすよ。変わっていない。変わったのは風景だけだ」
「僕がここに君を直接迎えに来ていたら、君が今思うように『良い』方向へ変わったとは限らないんだよ」
「どういう意味だ?」
 ルミザを、この地から連れ出したのはイース・ラーンだ。彼はかつては北西に住んでいた北神イン・テラールの熱狂的な信者で、話を聞くにそれを拗らせすぎて方位神の末席に引き上げられたという。その後イン・テラールの命令により緑の館で自活力の無いファーステクの世話を焼いているのだと聞いた。好きで館の管理人をしている訳ではないらしい。
 イースは頼まれて自分を迎えに来たと言っていたはずだ……ルミザは、そう記憶している。
「雨を降らせたのはイースだ、勿論僕で雨を降らす事も出来るけど、僕は巷悪神などと罵られて悪意を集める方の『神様』だからね、差し出されたキミを得る為に僕が出て行ったら……」
 ローブの奥で、時に残虐と揶揄される北神、イン・テラールは薄く笑う。
「どうだろうね?雨なんか呼んだかな?気まぐれに雨を降らす様な僕じゃこんな風に気候穏やかにする事も無かったろうし、ヘタをすれば昔のままだったかもしれない。あるいは雨を降らし過ぎて人の命を奪い過ぎていたかもしれない。砂漠の進攻を止めずもっと衰退させてしまっていたかも……そういう意地悪な未来が、僕には描けたんだよ」
 だから別の人を迎えに寄越した、という事だろうか。律儀だろう?という問いかけが誰の事を言っているのかルミザには良く分かった。律儀なのだ、イース・ラーンは。
 几帳面が過ぎて、緑の館では終始、主であるはずのファーステクに向けて一方的にああでもない、こうでもないと説教らしい指図の言葉を投げている。ファーステクはイースの指図は殆ど無視して自由にするので、イースはその都度悲鳴の様な声を上げながら整理整頓に走り回っている様だった。
 彼はイン・テラールの『願い』は悉く完璧にこなす事を信条にしているのだという。自身でもそのように明言しているのを何度も聞いた。
 『南神ルミザを連れて来い』というイン・テラールの命令を、イースは完遂したのだろう。
 それはただルミザをイン・テラールの元に連れて行くという事ではない。儀式の上で『成った』ルミザを連れて行く代価として、願われた事は恙なく叶える事。
 カトリから、ルミザに成ったばかりの彼を完璧な『ルミザ・ケンティランド』にする為にファーステクの所に連れて行き、その為にどうするべきか判断を仰いで学ばせる為にラウェイに預ける……。
 イースに頼めば自然とその様に事が運ばれる事を、イン・テラールは知っていたのだろう。しかしそれは例の『すべてを知る』能力に因るのか、あるいはイース・ラーンという下僕の特徴を把握しての事なのか。
「分かっていた、のではなく?」
 些細な疑問を、ルミザは迷わず聞きただしていた。遠慮のない、彼の疑問にイン・テラールはローブの奥で屈託なく笑う。
「未来は変るんだよ、ルミザ。未来が分かると云う事は変える事が可能と云う事だ。しかし僕はそういう事をすべきでは無い立場に在る事を、十二分に理解しているつもりだ」
 ラウェイが言っていた、『世界がどーなるのかは保障されない』という事だろう、とルミザは思って小さく頷く。
「お前の『選択』じゃない。俺が、ここから生まれたから故郷は、世界は……変わったんだな」
「……ルミザ」
 小声でイン・テラールから呼ばれてルミザは、彼のフードの中を覗き込む。
「何だ?」
「君のその、正直な心の前には僕の悪心も斬られて、ズタズタだよ」
 意味がよく分からず、ルミザは首をかしげる。とかく彼のもの言いはラウェイやファーステク以上に難解な比喩が多い。しかし情報が全く読みとれない訳ではなかった。
 例えば、その声色やローブに隠された顔の表情から、言葉以上のものが読み解ける。
「なんだか不安そうだけど、何か気に障ったか?」
「不安さ、僕は何時でも……君に嫌われやしないかと内心ビクビクしているんだよ」
「人を嫌うなんて、どうして俺がお前を嫌うと思うんだ?」
「君がとても正直で、心が綺麗で、それに比べて僕は……」
 溜息を洩らし、小声で続ける。
「君の前では僕は自分の悪事を全部懺悔して、許しを乞わなければ気が済まない、そういう気持ちになるんだ」
 でも君は、多分僕を許すのだろうとイン・テラールは少し気を落とした様な口調で言った。
「許すって?……何をしたんだ?」
「話すよ、うん、本当は黙っているつもりだったし本当は黙っていたいんだけど、そういう僕の気持ちはもうすっかり折れたよ」
 そう言ってはいるけれど、本当は何も話したくないのだろう、そういう気持ちを察してルミザは、どうするべきか迷っていた。嫌なら黙っていればいいと云えばいいのか、それとも怒ったりしないから全部聞いてやると言うべきなのか。
「そういう予定調和も予感はしていたんだ、僕は……許される事も『知っている』事にがっかりしているんだよ。自分の事がものすごく残念な奴だと自覚できてしまって気が重い」
「お前は、そういう話を俺としたかったからついて来たのか?」
「……そうなのかな」
 ふっと顔をそらしてイン・テラールは小さく呟いた。顔を戻して困った顔で笑う。
「自分の事が一番よく分からないよ。全知の力も、存外役立たずなもんだね」
 それは、つまり彼は彼自身に興味が無かったという事だろう。知りたいと願わなければ、その先に答えは示されない……イン・テラールの全知というのはそういうものだと彼自身が言った通りだ。
「選択をしたのは君じゃない、この僕だ。この町を変えてしまったのは君じゃないんだよルミザ。きっと、僕の所為なんだ」

 ルミザが居たんだ。

 イン・テラールは遠くを見つめてぽつりと呟く。『ルミザ』と呼んだ、その人はどうやら今の自分ではない誰かだと……今のルミザは直感的に思う。
 何しろどうがんばってもイン・テラールが見つめる先にあるかつての『ルミザ』の事を、ルミザは知らない。知識の上で知る事は出来ても、かつてそれが自分だったという実感は未だに無いし、記憶が蘇る訳でもない。
 そして、別にそうやって何か特別な事が起きてかつての『ルミザ』が、そっくりそのまま目を覚ます訳では無い事はラウェイから、一番最初に念を押されている。
 伝説的なモンとして南神ルミザというのは『一度眠りについて』『再び目を覚ます』と言われてるわけだが残念ながら先代は比喩でもなんでもなく死んでしまったし、次にまたルミザがお前みたいな方法で現れたってそれはかつてのルミザとは別モンだ。いいかルミザ、残念ながら蘇る記憶みたいなものは一切無い、それは覚えて置け。
 別にイン・テラールもそんなものは望んじゃいねぇんだ。

 ずっとずっと、待っていた人がその未来に居たんだ。

 そう言って、イン・テラールが遠くに見ている『ルミザ』。それを、ルミザもぼんやりとやはり、遠くに見ている。

 僕がそれを知って、それをどれだけ待ち焦がれ、その未来を壊さない為にどれだけの事に関心を閉ざして来ただろう。
 そこに到達する為の道を、丁寧に、丁重に、僕は選んで来た。
 そうやって何人の人達が君に成れずに、運命を弄られて死んでいっただろうか。

 凶作が続いたのが偶然ではなくて、流行病で人が死ぬのも必然で、そうして君が神託とやらでルミザに成る為に、剣を帯びて僕ら方位神に列する為に身を捧げる事、全てが僕の干渉の通りだったとしたら、どうする?

 理由は、よく分からない。
 分からないがそういう物だと思うしかない。
 理由はイン・テラールだけが知っている。彼だけが心に秘めて、とにかく……イン・テラールはルミザを待っている。もしかすればルミザ、お前はあいつが心に秘めた思いを唯一知る事が出来るのかもしれない。その為の覚悟は、しておいてた方がいいのかもしれないな……。ラウェイの、やや軽薄な言葉が脳裏に蘇る。その時は、どういう覚悟をすればいいのか見当も付かないと途方に暮れた事も。
 イン・テラールの瞳を、ルミザはじっと見つめた。
 譲れないらしく、何時かの様に逸らす事なく見つめ合っている。

「それは、多分お前の勘違いだろう」
「……え?」
 やや、虚を突かれたというよりは失望に近い声を出すイン・テラール。
「お前、色々知りすぎているから、全部が全部自分に関係ある事だと思うんじゃないのか?」
「それはそうさ、……そうだろう?知りたいと願った先に答えがあるんだ。その時点で、無関係と僕は言いきる事は出来ないよ」
「関係無いかもしれないじゃないか」
 だって、お前言ってただろう?ルミザは少し笑って、満月が輝く空を見上げるようにして視線を逸らす。
「望んでいたか、運命的な偶然だったか良く分からない事だ、とか何とか」
 イン・テラールは自分の過去の発言を知るべく全知を使う。
 そうだ、言った。そのように自分の感情を語った事を思い出す。

 これは僕が望んだ事であったのか、それとも素晴らしくて憎たらしい『運命という偶然』であったのかは、全てを知る者となった今は良く分からない事だ……と。
「お前の主張通り、例えばこう……気候を操って日照りを続けさせてこの地域を沙漠に呑ませようとした事、そうやって俺が祭事に呼び出されて、一人沙漠に置き去りにされる事、それをイースが迎えに来る事、そういう段取りを組んだとしたって……そうしたいとお前が思った先に在る、偶然の結果だって思えば良い事だよ」

 未来に居た、ルミザに会いたい。
 そう望んで選別した運命は、上手く手繰る寄せたと思った糸は……。実は自在になのではなくて、偶々そのように偶然上手くここに紡がれているだけかもしれない。

「未来が変わるんだったら、今こうしてある現状を喜んでいれば良い事じゃないか」
 ルミザに会って、可愛い子だと云われた時の複雑な感情が自分に沸き起こる事をイン・テラールは止める手立てが無かった。今はもう分かる、よく思い出している。ずっと忘れていたけれど、完全に失った訳ではない心、これは嬉しいという事だ。
「……君は、やっぱり僕を許すんだ」
「なんだよ、嫌われたく無いんだろう?」
 心音が高まり、ジュースを飲んですっかり冷えていたはずの体温が急激に上昇したのを感じた。そしてその熱が、行き場を失った様に彷徨ってからついに、瞳から涙となって流れ落ちて行くのを止める事は不可能で、必死になって袖で拭っても後から後から溢れてくる。
 こんなに熱を持って涙を流したのは本当に、本当に久しぶりだった。どうすればいいのか分からずイン・テラールは内心慌てていたが、ふとルミザを見ると彼は、満面の笑みを浮かべて小さく頷いている。
「そうそう、嬉しいとなんだか泣きたくなるんだ。なんでだろうな、俺、あそこのルミザ再誕を祝う石碑を見て涙ぐんでたの知ってたか?必死に隠してたけど、多分バレてるんだろうなぁとか思ってた」
「知らなかったよ、そんなの、知りたくなけりゃ僕は知らないんだ」
 突然ルミザの手が伸びてきて、顔をすっぽりと覆うローブを払いのけられて言葉を呑む。
「今こうやって故郷が平和なのが、俺は堪らなく嬉しいよ。ありがとう、俺は、今自分がルミザである事も含めて悪くないなって思ってるから。大丈夫だよ」
 そのまま顔を拭おうとした手を取られて、イン・テラールは戸惑った。振り解く事も出来ず、熱いルミザの手に涙でぐちゃぐちゃの手を握り取られて、それがどうにも恥ずかしくて仕方がなかった。
「俺はお前を、嫌いになんかならないよ」
 そんな事は知っている事だ。
 知っているのに、疑わずには居られない、それは心が素直ではなくて、曲がっていて、悪を飼いすぎているからだ。そこまで分かって居ながら、一度道を逸れたら修正は難しい。正しくて、真っ直ぐで、純粋なものへの憧れは募るばかりだ。
 それでも強がりな心が口を吐く。
「知っているよ。でも、きっと君は僕の事好きじゃない」
「嫌いじゃなかったら好きだと思うけどなぁ、俺は」
「……本当?」
 手を握られて、額を寄せて、流れている涙を吸い取る様に接吻を落とされている。置いていたジュースのグラスがひっくり返ったのも気にせずに。
「お前は俺の事、どう思っている?」
 ここは、答えないと公正じゃないのかと思ってイン・テラールは微かに笑う。そんな事は、当たり前すぎて最近は意識した事すらないんじゃないかとも思える。

「勿論、好きだよ。君が居ない、ずっと前から」
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