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プロローグ:静寂へと落ちる技術者
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ソウヤは、『あと五分』だけでも寝ていたいと思っていた。
どこかで鳴るアラームの音が、遠くから聞こえてくる。
閉じた瞼の裏で光がうっすらと点滅し、まるで信号のように彼を呼んでいた。
――だけどこれは朝の目覚ましなんかじゃない。
頭の片隅で、そんな冷静なツッコミが浮かぶ。
半分眠った意識が、突然の叫び声と警告音によって不安定な状態に引き戻される。
研究施設。
化学薬品や大掛かりな装置が並ぶエリアに併設されている安全管理室。
篠崎ソウヤは、会社の同僚から緊急通信を受けたとき、まともに休息をとっていなかった。
徹夜で資料をまとめ、安全基準の再調整とシミュレーションを行っていたからだ。
「篠崎さん、急いで! 実験ラインBの温度が異常上昇してます! 警報が鳴り止まないんです!」
端末越しに飛び込んできた同僚の悲鳴にも似た声。
ソウヤは寝落ちしかけていた自分に鞭打って立ち上がる。
いつもなら冷静でいられるのに、今日は睡眠不足と焦燥感が重なって全身がだるい。
「ラインB? 昨日、一度試験停止したはず……」
混乱する頭を振り払うように、安全装置の緊急マニュアルを確認する。
社内のプロジェクトの一環で、大型設備の動作検証を行っていた矢先だった。
もともと問題が散見されていたが、今朝ほどの『深刻なエラー』は想定外だ。
周囲には工学系の専門家や技術者が多く詰めている。
けれど実質的な安全管理の責任者として、『最後のストッパー』を担っているのはソウヤ自身だった。
少しでも対応を誤れば、大規模な事故に発展する――その重圧が胸を締めつける。
「篠崎さん、やばいですよ! リミット温度を越えそうです!」
「緊急停止プログラムは……ダメだ、受け付けない! コマンドが反応しません!」
研究室の奥から続々と絶望混じりの声が届く。
画面を睨みながら、ソウヤは素早く手元のキーボードを叩いた。
緊急時用のバックアップ制御はまだ生きているはずだ。しかし……。
「コマンドが通らない? そんな馬鹿な」
真夜中まで掛かって調整していた安全装置が、今まさに不具合を起こしている。
脳裏に嫌な予感が走る。
『パラメータの初期値設定がズレていた?』
『予備ラインの配線不良?』
いくら原因を想定しても、現場がもうそんな猶予をくれそうにない。
施設の奥、ラインBの実験室に向かって走り出す仲間の背中を見て、ソウヤも即座に追いかけた。
パネル操作だけでは対処できない場合、現場のバルブを直接閉じるしかない。
ずきりと心臓を掴まれるような嫌な感触。
――もし、これが手遅れだったら?
「今度こそ、失敗したくない」
小声で呟いて、ソウヤはロッカーから防護服の上着を掴む。
自分が安全管理に携わってきたプロジェクトで、二度と大きな被害は出させない。
自分の仕事には意味があった。
そう信じたかった。
廊下の照明が赤色に切り替わり、サイレンが鳴り止まない。
研究棟の扉を抜けると、焦げくさい臭いが鼻を刺す。
既にどこかで火花が散っている証拠だ。
仲間が叫ぶ。
「篠崎さん! もう内部へ立ち入るのは危険です! もうすぐ爆発――」
言葉を最後まで言い切らないうちに、一際大きな警報が鳴り響いた。
それはまるで『あと数秒で限界を超える』とでも言わんばかりに、施設全体を震わせる絶叫だった。
目の前の分厚い扉の先から、白い煙が噴き出す。
熱を帯びた金属のきしむ音が不気味に響く。
(あと……ほんの少しでも早く気づいていれば)
後悔が胸をえぐり始める。
誰かを救いたい。
この技術は、本来、人々の生活を豊かにするためのものだったのに……。
視線の先には、操縦卓にしがみついて操作を試みる同僚がいる。
防護マスクの向こう側で、絶望的な表情が浮かんでいた。
ソウヤは何かを叫んだ気がする。
しかし、その声は轟音と火花に呑まれた。
次の瞬間――世界が、爆ぜた。
◆
空中を舞う自分の身体。
視界の半分が色と音を失い、爆風の衝撃が鼓膜を破るかのように襲いかかる。
周囲に散らばる破片。
激しくぶつかったコンクリート床が、まるで地獄の底みたいに暗く見えた。
「……誰か、を。助け、なきゃ……」
うまく声が出ない。
自分の腕や脚はどうなっているのか。
痛みがあるような、ないような――意識が遠のいていく。
「もっと……できるはずだったのに」
自分が築いてきた技術、培ってきた安全基準。
そのすべてが今、形を成さず崩れ去っていくように思えた。
宙を舞う破片の一つがゆらりと視界を横切る。
煙と爆炎の狭間に、同僚の誰かが倒れているのが見えた。
血まみれの腕をこちらに伸ばしている―― 。
ああ、助けたい。
せめて最期まで、何かできることはないのか。
ところが、魂が抜けていくように息が弱まり、呼吸すらままならない。
脳裏で、「安全基準を怠ればいずれ大事故を招く」という教訓が何度も何度も反響する。
責任を背負って、必死にデバッグしてきたはずなのに。
(結局、自分は何も守れなかったのか……)
意識は深い闇へと沈んでいく。
サイレンの音も人々の悲鳴も、すべて遠ざかる。
まぶたの裏に蘇るのは、小さな子どもを抱えて避難する母親の姿――以前、別の現場でも同じような事故を経験し、ソウヤはその時にも誰一人完璧には救えなかった。
悔しさが滲んだ涙が頬を伝う。
もう、時間切れだ。
――もしもう一度、生きられるなら。
――たとえ違う世界でもいい。技術で人を救える道を、俺は……。
彼の瞳から光が失われ、すべてが暗黒に溶ける。
◆
暗闇の中、ソウヤは意識だけが宙に浮かんでいるような感覚を覚えた。
まだ意識があるという事実すら不思議で、身体の感覚はどこかへ消え去っている。
『ソウヤ』という名。
思い出せるのは、自分が背負っていた後悔と、未練。
『もっと人を救いたかった』
『技術は危険かもしれないけど、正しく使えば人を守れると信じたい』
この想いだけが、残響のように意識の底を巡っている。
――次の瞬間、遠くから声が聞こえた。
それははっきりとした人の声とは言いがたい。
風の囁きとでもいうような、柔らかい音色。
「……芽吹きを……誰かが……」
言葉の一片が断続的に耳を掠めるが、理解は追いつかない。
それでも確かに、誰かがこちらに呼びかけている。
『こっちへおいで、あなたにはまだやることがある』
そんな意味を、直感的に受け取った気がした。
気づけば暗闇はゆっくりと薄れていき、どこからか淡い光が射し込んでくる。
――これは死後の世界なんだろうか。
頭の片隅でそう思いながらも、ソウヤはその光に手を伸ばした。
意識の輪郭が少しずつ形を取り戻し、呼吸の仕方を思い出す。
今度こそ、誰かを救うために技術を使いたい。
その願いだけが、彼を前進させる力となっていた。
◆
すう、と微風を感じる。
まぶたが重かったが、ゆっくりと開ける。
痛みのはずが、今はまるで夢の続きのように何も感じない。
どこかで草木が揺れる音がした。
遠くで鳥が鳴いている。
鼻腔をくすぐるのは、都会では嗅いだことのない土や緑の濃い香り。
ソウヤが視界を確かめると、そこには青空と――見知らぬ荒野の風景が広がっていた。
ビル群の影も、研究所の無機質な壁も、サイレンの残響もない。
(ここは、どこだ?)
混乱のまま身体を起こそうとすると、頭痛がずきりと襲う。
意識ははっきりしているが、身体が思うように動かない。
地面に手をついて上半身をなんとか起こす。
周囲を見回すと、乾いた大地がどこまでも続いており、奇妙な形の植物や岩が散在していた。
まるでファンタジーの世界に紛れ込んだかのような光景。
なぜか、自分の服装もおかしい。
研究施設で着ていた防護服はどこへ行った?
薄手のシャツに綿パンのようなズボン――この異世界めいた場所に似つかわしくない『中途半端』な服で寝転がっていた。
(事故のあと、救助された……? いや、あり得ない。あんな大爆発だぞ。俺が無傷っておかしい。というか……ここ、日本じゃないよな?)
心臓が早鐘を打つ。
足元を確認すると、白いスニーカーのようなものを履いてはいるが、どこか作りが粗末だ。
どこでこんな靴を手に入れたのか記憶がない。
『転生』という言葉が頭をよぎる。
そんな馬鹿な、という思いと、妙に納得してしまう感覚がせめぎ合う。
過去に読んだ物語のように、死後別世界へ来る展開なんて、現実にあるわけがない。
しかし、この光景を前に否定できない。
「あ……」
声が出ることに少し驚く。
乾いた喉から掠れた音が漏れた。
その時、不意に複数の足音が近づいてきた。
馬のひづめなのか、地面を叩く重い音。
「あそこに倒れてるのは……人か?」
「どうする、盗賊か何かの罠だったりして?」
聞こえてきた声は男たちの低い調子。
ソウヤは無防備な姿で横たわっていることに気づき、身を起こそうとするが、体力が回復しておらず立ち上がれない。
『これは危ない』と思った矢先、声の持ち主たちが馬を止めた。
ちらりと視線を送ると、見るからに粗野な……けれど胸甲をつけた兵士のような出で立ちをしている二人がいた。
その背後には、もう少し上品な装いをした騎乗の人物も見える。
(なに、この格好……コスプレみたいだ。鎧? マント?)
脳内で突っ込みを入れかけたが、この世界観では普通なのかもしれない。
騎乗している男が軽く手を挙げ、部下らしき兵士を制した。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「そ、それが、よくわからないんです……」
何とか声を絞り出すソウヤ。
兵士らが互いに顔を見合わせ、ひそひそと何かを言い合う。
やがて馬上の人物――浅黒い肌に短い黒髪、そしてやや上質そうな装いの男が馬を降り、そっとソウヤの顔を覗き込んだ。
歳の頃は三十代半ばか。
彫りの深い顔立ちに力強い眼差しを持つ。
腰には剣を吊り下げ、その柄には紋章らしき刻印がある。
「どうやら異国の者か……? 我が領内で倒れているとは珍しい。名前はあるか?」
「ソ、ソウヤ……です」
「ソウヤ……?」
その男は小首をかしげる。
奇妙な響きだとでも思ったのかもしれない。
(ここは一体どこなんだ?)
質問したいことが山積みだったが、唇が震え言葉にならない。
「とりあえず領主様の城へ運んでやれ。放置しておくのはあまりに不憫だろう」
「レオン様、しかし怪しい者かもしれません。」
「とにかく保護する。下手に放り出せば、後で面倒なことになるかもしれんしな」
『レオン様』と呼ばれた男は、重々しい態度で命じた。
(領主……? やっぱりファンタジー風なのか。まさか本当に異世界転生?)
そう思うと同時に、自分の意識が再び揺らぎそうになる。
荒野の強烈な日差しと疲労で、まぶたが重い。
視界がブレる中、レオンと呼ばれた男が部下に何か指示を出し、兵士が慌ただしく動くのを感じる。
「おい、水を……喋る気力もなさそうだ」
「はい、ただちに!」
誰かが水筒を差し出し、ソウヤの口元へ水を垂らす。
ごくりと、喉を通る冷たい感触。
思わず咳き込むが、体内に生気が戻る気がした。
(ここがどこであろうと……助かったのか、俺は)
緊張の糸が切れ、思考がとろける。
まるで死の淵から解き放たれ、別世界に流れ着いた――そう確信しかけながら、ソウヤは静かに意識を手放した。
◆
遠のく意識のなか、ただ一つ、強く願う。
自分が生き延びることができたのなら、この世界でこそ『誰かを助けたい』と。
現代で救えなかった命や過去の失敗を、今度こそ繰り返さないために。
そう胸に刻むと、穏やかな暗闇が訪れた。
かくして、一人のエンジニアが命を落とした先で出会う異世界の運命は、まだ何も知らぬまま始まろうとしていた。
どこかで鳴るアラームの音が、遠くから聞こえてくる。
閉じた瞼の裏で光がうっすらと点滅し、まるで信号のように彼を呼んでいた。
――だけどこれは朝の目覚ましなんかじゃない。
頭の片隅で、そんな冷静なツッコミが浮かぶ。
半分眠った意識が、突然の叫び声と警告音によって不安定な状態に引き戻される。
研究施設。
化学薬品や大掛かりな装置が並ぶエリアに併設されている安全管理室。
篠崎ソウヤは、会社の同僚から緊急通信を受けたとき、まともに休息をとっていなかった。
徹夜で資料をまとめ、安全基準の再調整とシミュレーションを行っていたからだ。
「篠崎さん、急いで! 実験ラインBの温度が異常上昇してます! 警報が鳴り止まないんです!」
端末越しに飛び込んできた同僚の悲鳴にも似た声。
ソウヤは寝落ちしかけていた自分に鞭打って立ち上がる。
いつもなら冷静でいられるのに、今日は睡眠不足と焦燥感が重なって全身がだるい。
「ラインB? 昨日、一度試験停止したはず……」
混乱する頭を振り払うように、安全装置の緊急マニュアルを確認する。
社内のプロジェクトの一環で、大型設備の動作検証を行っていた矢先だった。
もともと問題が散見されていたが、今朝ほどの『深刻なエラー』は想定外だ。
周囲には工学系の専門家や技術者が多く詰めている。
けれど実質的な安全管理の責任者として、『最後のストッパー』を担っているのはソウヤ自身だった。
少しでも対応を誤れば、大規模な事故に発展する――その重圧が胸を締めつける。
「篠崎さん、やばいですよ! リミット温度を越えそうです!」
「緊急停止プログラムは……ダメだ、受け付けない! コマンドが反応しません!」
研究室の奥から続々と絶望混じりの声が届く。
画面を睨みながら、ソウヤは素早く手元のキーボードを叩いた。
緊急時用のバックアップ制御はまだ生きているはずだ。しかし……。
「コマンドが通らない? そんな馬鹿な」
真夜中まで掛かって調整していた安全装置が、今まさに不具合を起こしている。
脳裏に嫌な予感が走る。
『パラメータの初期値設定がズレていた?』
『予備ラインの配線不良?』
いくら原因を想定しても、現場がもうそんな猶予をくれそうにない。
施設の奥、ラインBの実験室に向かって走り出す仲間の背中を見て、ソウヤも即座に追いかけた。
パネル操作だけでは対処できない場合、現場のバルブを直接閉じるしかない。
ずきりと心臓を掴まれるような嫌な感触。
――もし、これが手遅れだったら?
「今度こそ、失敗したくない」
小声で呟いて、ソウヤはロッカーから防護服の上着を掴む。
自分が安全管理に携わってきたプロジェクトで、二度と大きな被害は出させない。
自分の仕事には意味があった。
そう信じたかった。
廊下の照明が赤色に切り替わり、サイレンが鳴り止まない。
研究棟の扉を抜けると、焦げくさい臭いが鼻を刺す。
既にどこかで火花が散っている証拠だ。
仲間が叫ぶ。
「篠崎さん! もう内部へ立ち入るのは危険です! もうすぐ爆発――」
言葉を最後まで言い切らないうちに、一際大きな警報が鳴り響いた。
それはまるで『あと数秒で限界を超える』とでも言わんばかりに、施設全体を震わせる絶叫だった。
目の前の分厚い扉の先から、白い煙が噴き出す。
熱を帯びた金属のきしむ音が不気味に響く。
(あと……ほんの少しでも早く気づいていれば)
後悔が胸をえぐり始める。
誰かを救いたい。
この技術は、本来、人々の生活を豊かにするためのものだったのに……。
視線の先には、操縦卓にしがみついて操作を試みる同僚がいる。
防護マスクの向こう側で、絶望的な表情が浮かんでいた。
ソウヤは何かを叫んだ気がする。
しかし、その声は轟音と火花に呑まれた。
次の瞬間――世界が、爆ぜた。
◆
空中を舞う自分の身体。
視界の半分が色と音を失い、爆風の衝撃が鼓膜を破るかのように襲いかかる。
周囲に散らばる破片。
激しくぶつかったコンクリート床が、まるで地獄の底みたいに暗く見えた。
「……誰か、を。助け、なきゃ……」
うまく声が出ない。
自分の腕や脚はどうなっているのか。
痛みがあるような、ないような――意識が遠のいていく。
「もっと……できるはずだったのに」
自分が築いてきた技術、培ってきた安全基準。
そのすべてが今、形を成さず崩れ去っていくように思えた。
宙を舞う破片の一つがゆらりと視界を横切る。
煙と爆炎の狭間に、同僚の誰かが倒れているのが見えた。
血まみれの腕をこちらに伸ばしている―― 。
ああ、助けたい。
せめて最期まで、何かできることはないのか。
ところが、魂が抜けていくように息が弱まり、呼吸すらままならない。
脳裏で、「安全基準を怠ればいずれ大事故を招く」という教訓が何度も何度も反響する。
責任を背負って、必死にデバッグしてきたはずなのに。
(結局、自分は何も守れなかったのか……)
意識は深い闇へと沈んでいく。
サイレンの音も人々の悲鳴も、すべて遠ざかる。
まぶたの裏に蘇るのは、小さな子どもを抱えて避難する母親の姿――以前、別の現場でも同じような事故を経験し、ソウヤはその時にも誰一人完璧には救えなかった。
悔しさが滲んだ涙が頬を伝う。
もう、時間切れだ。
――もしもう一度、生きられるなら。
――たとえ違う世界でもいい。技術で人を救える道を、俺は……。
彼の瞳から光が失われ、すべてが暗黒に溶ける。
◆
暗闇の中、ソウヤは意識だけが宙に浮かんでいるような感覚を覚えた。
まだ意識があるという事実すら不思議で、身体の感覚はどこかへ消え去っている。
『ソウヤ』という名。
思い出せるのは、自分が背負っていた後悔と、未練。
『もっと人を救いたかった』
『技術は危険かもしれないけど、正しく使えば人を守れると信じたい』
この想いだけが、残響のように意識の底を巡っている。
――次の瞬間、遠くから声が聞こえた。
それははっきりとした人の声とは言いがたい。
風の囁きとでもいうような、柔らかい音色。
「……芽吹きを……誰かが……」
言葉の一片が断続的に耳を掠めるが、理解は追いつかない。
それでも確かに、誰かがこちらに呼びかけている。
『こっちへおいで、あなたにはまだやることがある』
そんな意味を、直感的に受け取った気がした。
気づけば暗闇はゆっくりと薄れていき、どこからか淡い光が射し込んでくる。
――これは死後の世界なんだろうか。
頭の片隅でそう思いながらも、ソウヤはその光に手を伸ばした。
意識の輪郭が少しずつ形を取り戻し、呼吸の仕方を思い出す。
今度こそ、誰かを救うために技術を使いたい。
その願いだけが、彼を前進させる力となっていた。
◆
すう、と微風を感じる。
まぶたが重かったが、ゆっくりと開ける。
痛みのはずが、今はまるで夢の続きのように何も感じない。
どこかで草木が揺れる音がした。
遠くで鳥が鳴いている。
鼻腔をくすぐるのは、都会では嗅いだことのない土や緑の濃い香り。
ソウヤが視界を確かめると、そこには青空と――見知らぬ荒野の風景が広がっていた。
ビル群の影も、研究所の無機質な壁も、サイレンの残響もない。
(ここは、どこだ?)
混乱のまま身体を起こそうとすると、頭痛がずきりと襲う。
意識ははっきりしているが、身体が思うように動かない。
地面に手をついて上半身をなんとか起こす。
周囲を見回すと、乾いた大地がどこまでも続いており、奇妙な形の植物や岩が散在していた。
まるでファンタジーの世界に紛れ込んだかのような光景。
なぜか、自分の服装もおかしい。
研究施設で着ていた防護服はどこへ行った?
薄手のシャツに綿パンのようなズボン――この異世界めいた場所に似つかわしくない『中途半端』な服で寝転がっていた。
(事故のあと、救助された……? いや、あり得ない。あんな大爆発だぞ。俺が無傷っておかしい。というか……ここ、日本じゃないよな?)
心臓が早鐘を打つ。
足元を確認すると、白いスニーカーのようなものを履いてはいるが、どこか作りが粗末だ。
どこでこんな靴を手に入れたのか記憶がない。
『転生』という言葉が頭をよぎる。
そんな馬鹿な、という思いと、妙に納得してしまう感覚がせめぎ合う。
過去に読んだ物語のように、死後別世界へ来る展開なんて、現実にあるわけがない。
しかし、この光景を前に否定できない。
「あ……」
声が出ることに少し驚く。
乾いた喉から掠れた音が漏れた。
その時、不意に複数の足音が近づいてきた。
馬のひづめなのか、地面を叩く重い音。
「あそこに倒れてるのは……人か?」
「どうする、盗賊か何かの罠だったりして?」
聞こえてきた声は男たちの低い調子。
ソウヤは無防備な姿で横たわっていることに気づき、身を起こそうとするが、体力が回復しておらず立ち上がれない。
『これは危ない』と思った矢先、声の持ち主たちが馬を止めた。
ちらりと視線を送ると、見るからに粗野な……けれど胸甲をつけた兵士のような出で立ちをしている二人がいた。
その背後には、もう少し上品な装いをした騎乗の人物も見える。
(なに、この格好……コスプレみたいだ。鎧? マント?)
脳内で突っ込みを入れかけたが、この世界観では普通なのかもしれない。
騎乗している男が軽く手を挙げ、部下らしき兵士を制した。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「そ、それが、よくわからないんです……」
何とか声を絞り出すソウヤ。
兵士らが互いに顔を見合わせ、ひそひそと何かを言い合う。
やがて馬上の人物――浅黒い肌に短い黒髪、そしてやや上質そうな装いの男が馬を降り、そっとソウヤの顔を覗き込んだ。
歳の頃は三十代半ばか。
彫りの深い顔立ちに力強い眼差しを持つ。
腰には剣を吊り下げ、その柄には紋章らしき刻印がある。
「どうやら異国の者か……? 我が領内で倒れているとは珍しい。名前はあるか?」
「ソ、ソウヤ……です」
「ソウヤ……?」
その男は小首をかしげる。
奇妙な響きだとでも思ったのかもしれない。
(ここは一体どこなんだ?)
質問したいことが山積みだったが、唇が震え言葉にならない。
「とりあえず領主様の城へ運んでやれ。放置しておくのはあまりに不憫だろう」
「レオン様、しかし怪しい者かもしれません。」
「とにかく保護する。下手に放り出せば、後で面倒なことになるかもしれんしな」
『レオン様』と呼ばれた男は、重々しい態度で命じた。
(領主……? やっぱりファンタジー風なのか。まさか本当に異世界転生?)
そう思うと同時に、自分の意識が再び揺らぎそうになる。
荒野の強烈な日差しと疲労で、まぶたが重い。
視界がブレる中、レオンと呼ばれた男が部下に何か指示を出し、兵士が慌ただしく動くのを感じる。
「おい、水を……喋る気力もなさそうだ」
「はい、ただちに!」
誰かが水筒を差し出し、ソウヤの口元へ水を垂らす。
ごくりと、喉を通る冷たい感触。
思わず咳き込むが、体内に生気が戻る気がした。
(ここがどこであろうと……助かったのか、俺は)
緊張の糸が切れ、思考がとろける。
まるで死の淵から解き放たれ、別世界に流れ着いた――そう確信しかけながら、ソウヤは静かに意識を手放した。
◆
遠のく意識のなか、ただ一つ、強く願う。
自分が生き延びることができたのなら、この世界でこそ『誰かを助けたい』と。
現代で救えなかった命や過去の失敗を、今度こそ繰り返さないために。
そう胸に刻むと、穏やかな暗闇が訪れた。
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