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第17話 慎重な偵察
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時任堂――あの古物商の店と、そこにいるであろう老人。
それが現状、俺が唯一掴んでいる手がかりだ。
だが、警告メッセージを受け取った以上、無策で飛び込むのはあまりにも危険すぎる。
俺はまず、あの店の周辺状況を探ることにした。
前回訪れたのは昼間だったが、今回は放課後、日が傾き始めた時間帯を選んだ。
人通りが少なくなり、物陰に紛れやすいと考えたからだ。
再び旧市街に隣接するエリアへ足を運ぶ。
例の裏通りが見える、少し離れた建物の陰に身を潜め、俺は息を殺して「時任堂」とその周辺の観察を開始した。
古びた店構えは、夕暮れの赤い光を受けて、昼間見た時よりもさらに怪しげな雰囲気を醸し出している。
ショーウィンドウの奥はやはり薄暗く、中の様子は窺い知れない。
俺は五感を研ぎ澄ませる。
視覚だけでなく、聴覚、そして……俺だけが持つ、あの奇妙な感覚も。
まず確認すべきは、監視の有無だ。
異能管か、雪城澪の組織か、あるいはメッセージを送ってきた「彼ら」か。
誰かがこの店を見張っている可能性は十分にある。
しかし、注意深く観察を続けても、それらしき不審な人影や車両は見当たらない。
隠しカメラのようなものも、少なくとも俺が分かる範囲では設置されていないようだ。
(……考えすぎか? それとも、俺が気づかないほど巧妙に隠されているのか?)
油断はできない。
俺は観察を続ける。
次に気になるのは、人の出入りだ。
古物商とはいえ、客はいるのだろうか。
三十分ほど経っただろうか。その間、店のドアが開くことは一度もなかった。
そもそも、この裏通り自体、ほとんど人が通らない。
時折、近所の住人らしき人物が通り過ぎるだけだ。
本当に、ここで商売が成り立っているのだろうか? いや、あの老人の目的は、普通の商売ではないのかもしれない。
あの店は、もっと別の……何かのための場所なのではないか。
俺は自分の感覚を、さらに店の内部へと向けようと試みる。
前回感じた、様々なエネルギーの気配。特に、あの黒い箱が放っていた、俺の力と共鳴するような波動。
そして、あの公園で感じたのと同じ、冷たく無機質なエネルギーの残滓を放つオブジェ。
(……やはり、何かある)
店の中から、微弱ながらも複数の「気配」が漏れ出てくるのを感じる。
それは、この寂れた裏通りには不釣り合いなほど、濃密で、複雑な気配だった。
結局、一時間近く観察を続けたが、人の出入りも、明確な監視の証拠も掴むことはできなかった。
分かったのは、あの店がやはり「普通」ではないということ、そして、外部からの偵察だけでは得られる情報に限界があるということだけだ。
(……行くしかない、か)
俺はため息をつき、建物の陰からそっと離れた。
直接、あの店のドアを開けるしかない。
だが、どうやって? 何を口実に? そして、あの老人とどう対峙する?
具体的な計画は、まだまとまらない。
だが、今日の偵察で、少なくとも白昼堂々と監視されているわけではない(らしい)ことは分かった。
それは、わずかながらも前進だ。
俺は、次なる一手について考えを巡らせながら、夕闇が迫る街を、アパートへと引き返した。
◇
アパートの自室に戻った俺は、まず今日の偵察結果を整理した。
時任堂の周辺には、少なくとも白昼堂々と監視しているような不審な動きは見られなかった。
だが、あの店の異様な雰囲気と、人の出入りの少なさは、やはり普通ではない。
そして、店の中から感じた複数の「気配」。外部からの偵察だけでは、これ以上の情報は得られないだろう。
やはり、直接乗り込むしかない。
問題は、どうやって自然に店に入り、あの老人と話すかだ。
前回のように「店を見せてほしい」だけでは、警戒されるだけだろう。
何か、具体的な「目的」が必要だ。
古物商……骨董品……。俺は机に向かい、いくつか口実を考え始めた。
「祖父の遺品を鑑定してほしい」? いや、そんなものはないし、ボロが出そうだ。
「珍しい掛け軸を探している」? 興味がないのがバレバレだろう。
(……そうだ)
ふと思いついたのは、「古い地図」だ。
この辺りの、特に旧市街や例の公園を含む、昔の地図を探している学生、という設定ならどうだろうか。
地域の歴史に興味がある、ということにすれば、比較的自然かもしれない。
そして、地図というテーマなら、あの老人の知識――特に、この土地の「記憶」のようなもの――を引き出すきっかけになるかもしれない。
口実は決まった。だが、問題はもう一つある。俺自身の力だ。
あの店の中では、俺の感覚は普段以上に鋭敏になり、様々な気配に反応してしまった。
そして、あの箱に触れた時は、力が暴走しかけた。
次に行くときは、自分の気配をもっと完全に殺し、エネルギーの漏れを極限まで抑え込む必要がある。
あの老人は、間違いなく俺のそういう部分に気づいているのだから。
俺は椅子の上で座禅を組むような姿勢を取り、目を閉じて精神を集中させた。簡単な制御訓練だ。
まずは、ごく微弱な念動力。
テーブルの上のペンを、ほんの数ミリだけ浮かせる。
そして、その高さを維持したまま、ピタリと静止させる。
(……くっ)
簡単なはずなのに、難しい。
力はすぐに揺らぎ、ペンが小刻みに震える。
感情の僅かな波立ちが、そのまま力の制御に影響してしまうのだ。トラウマが、まだ俺を縛り付けている。
次に、精神感応。普段は無意識にシールドしている感覚を、ほんの少しだけ開く。
目標は、隣の部屋から聞こえる生活音――テレビの音や話し声――だけをクリアに拾い、それ以外の、街全体の雑多な思考ノイズや感情の波を遮断すること。
これもまた、困難を極めた。洪水のように流れ込んでくる無関係な情報に、意識が持っていかれそうになる。頭痛がしてきた。
それでも、俺は諦めずに続けた。
十分、二十分……。どれくらい時間が経っただろうか。
完全とは言えない。だが、ほんの少しだけ、力の流れを意識し、それを留めたり、絞ったりする感覚が掴めたような気がした。
ペン先の揺れが、ほんのわずかに収まった。
思考のノイズの中から、隣の部屋のテレビの音だけを、かろうじて聞き分けられるようになった。
(……これなら、少しはマシか?)
気休め程度かもしれない。だが、やらないよりはいいはずだ。
俺は大きく息を吐き出し、目を開けた。
体は疲労しているが、心の中には、先ほどまでとは違う、確かな決意が固まっていた。
口実はできた。最低限の準備(の真似事)もした。
あとは、タイミングを見計らって、実行に移すだけだ。
俺は窓の外を見た。夜の闇が、街を覆い始めている。
決行は、明日か、あるいは……。俺は、次なる一手に向けて、思考を巡らせ始めた。
◇
時任堂への再訪計画。口実は「古い地図探し」。
そして、わずかながらも掴んだ力の制御感覚。準備は、最低限だが整いつつある。
俺はアパートの窓辺に立ち、外の景色を眺めた。
時刻は深夜。ほとんどの家の明かりは消え、街は静かな眠りについている。
遠くに見える幹線道路を走る車のライトが、時折、闇の中を滑っていく。
ごくありふれた、どこにでもある夜景だ。
数週間前まで、俺はこの景色を当たり前のものだと思っていた。
退屈で、代わり映えのしない、けれど確実に存在していた「日常」。特別な力も、組織の影も、得体の知れない脅威もない、ただ穏やかな時間。
俺が望んでいたのは、ただそれだけだったはずだ。
だが、現実はどうだ? 雪城澪の出現、異能管の接触、過去のトラウマの再燃、そして正体不明の第三勢力の影。
俺の日常は、もはや侵食され、崩壊しかけている。
(……守りたい、か)
老人の言葉が、ふと頭をよぎる。
「過去の影は、未来を照らす光にもなりうる」。
あの老人は、俺に過去と向き合えと言った。それは、この力を制御するためなのか? それとも、もっと別の意味があるのか?
今はまだ、分からない。だが、一つだけ確かなことがある。
このままでは、俺が望む「平穏」は、決して手に入らない。
それどころか、今手にしている僅かな安息すら、奪われてしまうだろう。
だから、動くしかないのだ。危険だと分かっていても、恐怖を感じていても。
失いたくないものがあるから。取り戻したい場所があるから。
俺は窓から離れ、ベッドに腰掛けた。
決行は、明日だ。学校が終わった後、そのまま時任堂へ向かう。
学生が、地域の歴史研究か何かで古い地図を探しに来た――その口実なら、昼間の訪問よりも自然に見えるはずだ。
大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせる。落ち着け。計画通りにやればいい。あの老人のペースに乗せられるな。
自分の目的――情報収集――を、冷静に、慎重に遂行するんだ。
俺は目を閉じ、深く呼吸を繰り返す。
力の制御訓練で掴んだ、あの微かな感覚を思い出す。自分の気配を消し、エネルギーの漏れを抑える。
そして、どんな状況になっても、冷静さを失わないように。
恐怖はある。失敗すればどうなるか分からない。だが、やるしかない。
俺は、来るべき明日への覚悟を、静かに、しかし固く、胸に刻み込んだ。
◇
翌日の放課後。終わりのチャイムが鳴ると、俺は昨夜立てた計画を実行に移すべく、速やかに教室を出た。
ちらりと視界の端に入った雪城澪は、他の生徒と当たり障りのない会話を交わしている。
演技なのか、本当に俺に関心を失ったのか……今の俺には判断できない。
天野光とは、目が合った。彼女は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、俯いてしまった。
俺たちの間の溝は、まだ深いままだった。
それでいい。今は、余計な感傷に浸っている暇はない。
俺は学校を出ると、すぐに時任堂へは向かわなかった。
まずは、尾行や監視がついていないか確認する必要がある。
わざと人通りの多い商店街を抜け、ショーウィンドウに映る自分の背後をさりげなくチェックする。
何度か角を曲がり、時には不自然にならない程度に立ち止まってみたりもした。
(……大丈夫、か?)
特に怪しい人影は見当たらない。
異能管の連中か、あるいはメッセージを送ってきた「彼ら」か、それとも雪城澪の組織か……少なくとも、あからさまな尾行はついていないようだ。
もちろん、もっと巧妙な監視が行われている可能性は否定できないが。
俺は意識を集中させ、昨夜練習したように、自身の気配を可能な限り抑える。
体から漏れ出すエネルギーの流れを、内側へ、内側へと押し込めるイメージ。完全ではないだろうが、やらないよりはマシなはずだ。
目的地の裏通りへと近づくにつれ、心臓の鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。
旧市街に隣接する、寂れたエリア。そして、その一角に佇む古物商「時任堂」。
ついに、店の前にたどり着いた。古びた木製のドアと、掠れた看板。
昼間に偵察した時と、何も変わらないように見える。
だが、俺には分かる。この店の奥には、この世界の深淵に繋がる何かが隠されている。
俺はドアの前で立ち止まり、一度、大きく深呼吸をした。
口実は「この辺りの古い地図を探している学生」。
目的は「老人から情報を引き出すこと」。
注意点は「自分のことは話さず、相手のペースに乗せられず、常に警戒を怠らないこと」。
頭の中で、何度もシミュレーションした手順を反芻する。恐怖はある。
何が待ち受けているか分からない不安もある。だが、それ以上に、この状況を打開したい、真実を知りたいという渇望が、俺を突き動かしていた。
俺は意を決し、震えそうになる手を抑えながら、時任堂の古びたドアノブに、そっと手をかけた。
それが現状、俺が唯一掴んでいる手がかりだ。
だが、警告メッセージを受け取った以上、無策で飛び込むのはあまりにも危険すぎる。
俺はまず、あの店の周辺状況を探ることにした。
前回訪れたのは昼間だったが、今回は放課後、日が傾き始めた時間帯を選んだ。
人通りが少なくなり、物陰に紛れやすいと考えたからだ。
再び旧市街に隣接するエリアへ足を運ぶ。
例の裏通りが見える、少し離れた建物の陰に身を潜め、俺は息を殺して「時任堂」とその周辺の観察を開始した。
古びた店構えは、夕暮れの赤い光を受けて、昼間見た時よりもさらに怪しげな雰囲気を醸し出している。
ショーウィンドウの奥はやはり薄暗く、中の様子は窺い知れない。
俺は五感を研ぎ澄ませる。
視覚だけでなく、聴覚、そして……俺だけが持つ、あの奇妙な感覚も。
まず確認すべきは、監視の有無だ。
異能管か、雪城澪の組織か、あるいはメッセージを送ってきた「彼ら」か。
誰かがこの店を見張っている可能性は十分にある。
しかし、注意深く観察を続けても、それらしき不審な人影や車両は見当たらない。
隠しカメラのようなものも、少なくとも俺が分かる範囲では設置されていないようだ。
(……考えすぎか? それとも、俺が気づかないほど巧妙に隠されているのか?)
油断はできない。
俺は観察を続ける。
次に気になるのは、人の出入りだ。
古物商とはいえ、客はいるのだろうか。
三十分ほど経っただろうか。その間、店のドアが開くことは一度もなかった。
そもそも、この裏通り自体、ほとんど人が通らない。
時折、近所の住人らしき人物が通り過ぎるだけだ。
本当に、ここで商売が成り立っているのだろうか? いや、あの老人の目的は、普通の商売ではないのかもしれない。
あの店は、もっと別の……何かのための場所なのではないか。
俺は自分の感覚を、さらに店の内部へと向けようと試みる。
前回感じた、様々なエネルギーの気配。特に、あの黒い箱が放っていた、俺の力と共鳴するような波動。
そして、あの公園で感じたのと同じ、冷たく無機質なエネルギーの残滓を放つオブジェ。
(……やはり、何かある)
店の中から、微弱ながらも複数の「気配」が漏れ出てくるのを感じる。
それは、この寂れた裏通りには不釣り合いなほど、濃密で、複雑な気配だった。
結局、一時間近く観察を続けたが、人の出入りも、明確な監視の証拠も掴むことはできなかった。
分かったのは、あの店がやはり「普通」ではないということ、そして、外部からの偵察だけでは得られる情報に限界があるということだけだ。
(……行くしかない、か)
俺はため息をつき、建物の陰からそっと離れた。
直接、あの店のドアを開けるしかない。
だが、どうやって? 何を口実に? そして、あの老人とどう対峙する?
具体的な計画は、まだまとまらない。
だが、今日の偵察で、少なくとも白昼堂々と監視されているわけではない(らしい)ことは分かった。
それは、わずかながらも前進だ。
俺は、次なる一手について考えを巡らせながら、夕闇が迫る街を、アパートへと引き返した。
◇
アパートの自室に戻った俺は、まず今日の偵察結果を整理した。
時任堂の周辺には、少なくとも白昼堂々と監視しているような不審な動きは見られなかった。
だが、あの店の異様な雰囲気と、人の出入りの少なさは、やはり普通ではない。
そして、店の中から感じた複数の「気配」。外部からの偵察だけでは、これ以上の情報は得られないだろう。
やはり、直接乗り込むしかない。
問題は、どうやって自然に店に入り、あの老人と話すかだ。
前回のように「店を見せてほしい」だけでは、警戒されるだけだろう。
何か、具体的な「目的」が必要だ。
古物商……骨董品……。俺は机に向かい、いくつか口実を考え始めた。
「祖父の遺品を鑑定してほしい」? いや、そんなものはないし、ボロが出そうだ。
「珍しい掛け軸を探している」? 興味がないのがバレバレだろう。
(……そうだ)
ふと思いついたのは、「古い地図」だ。
この辺りの、特に旧市街や例の公園を含む、昔の地図を探している学生、という設定ならどうだろうか。
地域の歴史に興味がある、ということにすれば、比較的自然かもしれない。
そして、地図というテーマなら、あの老人の知識――特に、この土地の「記憶」のようなもの――を引き出すきっかけになるかもしれない。
口実は決まった。だが、問題はもう一つある。俺自身の力だ。
あの店の中では、俺の感覚は普段以上に鋭敏になり、様々な気配に反応してしまった。
そして、あの箱に触れた時は、力が暴走しかけた。
次に行くときは、自分の気配をもっと完全に殺し、エネルギーの漏れを極限まで抑え込む必要がある。
あの老人は、間違いなく俺のそういう部分に気づいているのだから。
俺は椅子の上で座禅を組むような姿勢を取り、目を閉じて精神を集中させた。簡単な制御訓練だ。
まずは、ごく微弱な念動力。
テーブルの上のペンを、ほんの数ミリだけ浮かせる。
そして、その高さを維持したまま、ピタリと静止させる。
(……くっ)
簡単なはずなのに、難しい。
力はすぐに揺らぎ、ペンが小刻みに震える。
感情の僅かな波立ちが、そのまま力の制御に影響してしまうのだ。トラウマが、まだ俺を縛り付けている。
次に、精神感応。普段は無意識にシールドしている感覚を、ほんの少しだけ開く。
目標は、隣の部屋から聞こえる生活音――テレビの音や話し声――だけをクリアに拾い、それ以外の、街全体の雑多な思考ノイズや感情の波を遮断すること。
これもまた、困難を極めた。洪水のように流れ込んでくる無関係な情報に、意識が持っていかれそうになる。頭痛がしてきた。
それでも、俺は諦めずに続けた。
十分、二十分……。どれくらい時間が経っただろうか。
完全とは言えない。だが、ほんの少しだけ、力の流れを意識し、それを留めたり、絞ったりする感覚が掴めたような気がした。
ペン先の揺れが、ほんのわずかに収まった。
思考のノイズの中から、隣の部屋のテレビの音だけを、かろうじて聞き分けられるようになった。
(……これなら、少しはマシか?)
気休め程度かもしれない。だが、やらないよりはいいはずだ。
俺は大きく息を吐き出し、目を開けた。
体は疲労しているが、心の中には、先ほどまでとは違う、確かな決意が固まっていた。
口実はできた。最低限の準備(の真似事)もした。
あとは、タイミングを見計らって、実行に移すだけだ。
俺は窓の外を見た。夜の闇が、街を覆い始めている。
決行は、明日か、あるいは……。俺は、次なる一手に向けて、思考を巡らせ始めた。
◇
時任堂への再訪計画。口実は「古い地図探し」。
そして、わずかながらも掴んだ力の制御感覚。準備は、最低限だが整いつつある。
俺はアパートの窓辺に立ち、外の景色を眺めた。
時刻は深夜。ほとんどの家の明かりは消え、街は静かな眠りについている。
遠くに見える幹線道路を走る車のライトが、時折、闇の中を滑っていく。
ごくありふれた、どこにでもある夜景だ。
数週間前まで、俺はこの景色を当たり前のものだと思っていた。
退屈で、代わり映えのしない、けれど確実に存在していた「日常」。特別な力も、組織の影も、得体の知れない脅威もない、ただ穏やかな時間。
俺が望んでいたのは、ただそれだけだったはずだ。
だが、現実はどうだ? 雪城澪の出現、異能管の接触、過去のトラウマの再燃、そして正体不明の第三勢力の影。
俺の日常は、もはや侵食され、崩壊しかけている。
(……守りたい、か)
老人の言葉が、ふと頭をよぎる。
「過去の影は、未来を照らす光にもなりうる」。
あの老人は、俺に過去と向き合えと言った。それは、この力を制御するためなのか? それとも、もっと別の意味があるのか?
今はまだ、分からない。だが、一つだけ確かなことがある。
このままでは、俺が望む「平穏」は、決して手に入らない。
それどころか、今手にしている僅かな安息すら、奪われてしまうだろう。
だから、動くしかないのだ。危険だと分かっていても、恐怖を感じていても。
失いたくないものがあるから。取り戻したい場所があるから。
俺は窓から離れ、ベッドに腰掛けた。
決行は、明日だ。学校が終わった後、そのまま時任堂へ向かう。
学生が、地域の歴史研究か何かで古い地図を探しに来た――その口実なら、昼間の訪問よりも自然に見えるはずだ。
大丈夫だ。俺は自分に言い聞かせる。落ち着け。計画通りにやればいい。あの老人のペースに乗せられるな。
自分の目的――情報収集――を、冷静に、慎重に遂行するんだ。
俺は目を閉じ、深く呼吸を繰り返す。
力の制御訓練で掴んだ、あの微かな感覚を思い出す。自分の気配を消し、エネルギーの漏れを抑える。
そして、どんな状況になっても、冷静さを失わないように。
恐怖はある。失敗すればどうなるか分からない。だが、やるしかない。
俺は、来るべき明日への覚悟を、静かに、しかし固く、胸に刻み込んだ。
◇
翌日の放課後。終わりのチャイムが鳴ると、俺は昨夜立てた計画を実行に移すべく、速やかに教室を出た。
ちらりと視界の端に入った雪城澪は、他の生徒と当たり障りのない会話を交わしている。
演技なのか、本当に俺に関心を失ったのか……今の俺には判断できない。
天野光とは、目が合った。彼女は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、俯いてしまった。
俺たちの間の溝は、まだ深いままだった。
それでいい。今は、余計な感傷に浸っている暇はない。
俺は学校を出ると、すぐに時任堂へは向かわなかった。
まずは、尾行や監視がついていないか確認する必要がある。
わざと人通りの多い商店街を抜け、ショーウィンドウに映る自分の背後をさりげなくチェックする。
何度か角を曲がり、時には不自然にならない程度に立ち止まってみたりもした。
(……大丈夫、か?)
特に怪しい人影は見当たらない。
異能管の連中か、あるいはメッセージを送ってきた「彼ら」か、それとも雪城澪の組織か……少なくとも、あからさまな尾行はついていないようだ。
もちろん、もっと巧妙な監視が行われている可能性は否定できないが。
俺は意識を集中させ、昨夜練習したように、自身の気配を可能な限り抑える。
体から漏れ出すエネルギーの流れを、内側へ、内側へと押し込めるイメージ。完全ではないだろうが、やらないよりはマシなはずだ。
目的地の裏通りへと近づくにつれ、心臓の鼓動が少しずつ早くなるのを感じる。
旧市街に隣接する、寂れたエリア。そして、その一角に佇む古物商「時任堂」。
ついに、店の前にたどり着いた。古びた木製のドアと、掠れた看板。
昼間に偵察した時と、何も変わらないように見える。
だが、俺には分かる。この店の奥には、この世界の深淵に繋がる何かが隠されている。
俺はドアの前で立ち止まり、一度、大きく深呼吸をした。
口実は「この辺りの古い地図を探している学生」。
目的は「老人から情報を引き出すこと」。
注意点は「自分のことは話さず、相手のペースに乗せられず、常に警戒を怠らないこと」。
頭の中で、何度もシミュレーションした手順を反芻する。恐怖はある。
何が待ち受けているか分からない不安もある。だが、それ以上に、この状況を打開したい、真実を知りたいという渇望が、俺を突き動かしていた。
俺は意を決し、震えそうになる手を抑えながら、時任堂の古びたドアノブに、そっと手をかけた。
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