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遥は、記憶を頼りに裏通りを何度も往復した。
あの薄暗いアンティークショップは、どこにも見当たらない。目印だったはずの、壁に描かれた古びた落書きも、色褪せた看板も、すべてが別の店、別の風景に置き換わっていた。まるで、遥がボタンでスキップした25分の間に、世界が再構築されてしまったかのようだ。
「まさか、これも、あのボタンのせい……?」
不安と苛立ちが募る。遥は、誰かにこの奇妙な体験を話したかった。だが、誰に話せるだろう。時間を早送りするボタンの話など、正気を疑われるだけだ。
遥はますます孤立していった。
ボタンの負の側面を自覚してからも、完全に使用をやめることはできなかった。それは、麻薬のようなものだった。
ある日、妹から電話がかかってきた。
「ねえ、聞いてよ遥姉ちゃん。彼氏とちょっと喧嘩しちゃって……どうしたらいいと思う?」
妹の声は切羽詰まっていた。本来なら、時間をかけて話を聞き、共感し、一緒に解決策を探してやるべき状況だ。しかし、遥の頭には、今すぐ終わらせなければならない二件の急ぎの修正依頼がちらついていた。
「ああ、ごめん、ちょっと今、手が離せないんだ。25分だけ待ってくれる?」
そう言って電話を切った後、遥は無意識にボタンを握りしめた。妹の深刻な悩みの「面倒な25分間」をスキップしようとしたのだ。
カチリ。
世界が揺れる。すべてが止まった後、リモートワークのチャットツールを開くと、妹から短いメッセージが届いていた。
「もう大丈夫。自分で解決できたよ。急に切ってごめんね、姉ちゃん忙しいのに。でも、結局誰も頼れないって分かったから、もう平気」
そのメッセージを見た瞬間、遥は心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。
解決はしている。妹の悩みは「終わった」ことになっている。しかし、妹のテキストの奥には、遥を頼ろうとしたのに突き放された孤独感と失望が滲み出ていた。
遥は、25分をスキップすることで、妹との間で築かれるはずだった**「信頼」という名の無形の資産**を、自ら手放してしまったのだ。
「私は、本当に大切なものまで、このボタンで早送りしてしまっている……」
その夜、遥は泣いた。仕事の効率は上がった。部屋は片付いた。納期はすべて守られた。しかし、彼女の周りからは、生きた人間の温かさが、少しずつ失われていた。
そして、最大の試練が訪れる。
数日後、遥のもとに、これまでで最も大規模で複雑なコンペの依頼が舞い込んだ。この案件を取れれば、遥のキャリアは一気に次のステージへ進む。納期は一週間。徹夜をしても足りるかどうか、という難題だった。
遥の目の前には、あのボタンがある。
これを使えば、肉体的な疲労を無視して、一瞬でコンペを「終わらせる」ことができる。勝てる保証はないが、少なくとも、結果はすぐに得られる。
だが、もしボタンを使って勝ったとして、遥のデザイナーとしての真の実力は、何も向上しないだろう。それは、空虚な勝利であり、次の仕事で必ず破綻する。
遥は極限の選択を迫られた。
自分の時間を使って、挫折と成長を伴う一週間を生き抜くか。 それとも、25分ボタンに身を委ね、結果だけを手に入れるか。
遥はボタンを手のひらで強く握りしめた。その金属の冷たさが、まるで老紳士の冷たい視線のようにも感じられる。
あの薄暗いアンティークショップは、どこにも見当たらない。目印だったはずの、壁に描かれた古びた落書きも、色褪せた看板も、すべてが別の店、別の風景に置き換わっていた。まるで、遥がボタンでスキップした25分の間に、世界が再構築されてしまったかのようだ。
「まさか、これも、あのボタンのせい……?」
不安と苛立ちが募る。遥は、誰かにこの奇妙な体験を話したかった。だが、誰に話せるだろう。時間を早送りするボタンの話など、正気を疑われるだけだ。
遥はますます孤立していった。
ボタンの負の側面を自覚してからも、完全に使用をやめることはできなかった。それは、麻薬のようなものだった。
ある日、妹から電話がかかってきた。
「ねえ、聞いてよ遥姉ちゃん。彼氏とちょっと喧嘩しちゃって……どうしたらいいと思う?」
妹の声は切羽詰まっていた。本来なら、時間をかけて話を聞き、共感し、一緒に解決策を探してやるべき状況だ。しかし、遥の頭には、今すぐ終わらせなければならない二件の急ぎの修正依頼がちらついていた。
「ああ、ごめん、ちょっと今、手が離せないんだ。25分だけ待ってくれる?」
そう言って電話を切った後、遥は無意識にボタンを握りしめた。妹の深刻な悩みの「面倒な25分間」をスキップしようとしたのだ。
カチリ。
世界が揺れる。すべてが止まった後、リモートワークのチャットツールを開くと、妹から短いメッセージが届いていた。
「もう大丈夫。自分で解決できたよ。急に切ってごめんね、姉ちゃん忙しいのに。でも、結局誰も頼れないって分かったから、もう平気」
そのメッセージを見た瞬間、遥は心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。
解決はしている。妹の悩みは「終わった」ことになっている。しかし、妹のテキストの奥には、遥を頼ろうとしたのに突き放された孤独感と失望が滲み出ていた。
遥は、25分をスキップすることで、妹との間で築かれるはずだった**「信頼」という名の無形の資産**を、自ら手放してしまったのだ。
「私は、本当に大切なものまで、このボタンで早送りしてしまっている……」
その夜、遥は泣いた。仕事の効率は上がった。部屋は片付いた。納期はすべて守られた。しかし、彼女の周りからは、生きた人間の温かさが、少しずつ失われていた。
そして、最大の試練が訪れる。
数日後、遥のもとに、これまでで最も大規模で複雑なコンペの依頼が舞い込んだ。この案件を取れれば、遥のキャリアは一気に次のステージへ進む。納期は一週間。徹夜をしても足りるかどうか、という難題だった。
遥の目の前には、あのボタンがある。
これを使えば、肉体的な疲労を無視して、一瞬でコンペを「終わらせる」ことができる。勝てる保証はないが、少なくとも、結果はすぐに得られる。
だが、もしボタンを使って勝ったとして、遥のデザイナーとしての真の実力は、何も向上しないだろう。それは、空虚な勝利であり、次の仕事で必ず破綻する。
遥は極限の選択を迫られた。
自分の時間を使って、挫折と成長を伴う一週間を生き抜くか。 それとも、25分ボタンに身を委ね、結果だけを手に入れるか。
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