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カチリ、と、耳にはほとんど届かない微かなクリック音が響いた。
次の瞬間、遥の視界は激しく歪んだ。部屋の蛍光灯が何十倍もの速さで点滅し、壁に貼られたカレンダーの紙がめくれ上がる音が、まるでパラパラ漫画のように超高速で耳に突き刺さる。外から聞こえていた車のエンジン音は、一瞬で遠ざかり、まるで古いレコードを高速再生しているかのような、奇妙で不快な残響だけを残した。
意識が、揺れる。しかし、その体感時間は、ほんのコンマ数秒にも満たない。
そして、すべてが止まった。
遥は、目を大きく見開き、深呼吸した。何も変わっていない。部屋の空気は、押す前と同じ、夜の冷たさを含んでいる。ただ、胸が激しく高鳴っているのを感じる。
視線をデスクに戻す。
開かれていたはずのデザインファイルが、すべて閉じている。代わりに、デスクトップには「修正完了ファイル」という名の新しいフォルダが作成され、すべての修正が施されたデータが格納されていた。
「嘘……」
信じられない。五時間かかると見積もっていた作業のうち、最も面倒で集中力の要る部分が、この一瞬で「終わった」ことになっている。遥は恐る恐るファイルを開いた。細部にまで目を通す。老紳士の言葉通りだった。誰かが、遥の意識の外で、正確に、求められた修正を施してくれたのだ。
これは、魔法だ。時間を巻き戻すのではなく、面倒な時間を、自分の人生から切り離す魔法だ。
その日以降、遥の生活は一変した。
納期が遅延しそうな時、クライアントからの煩雑なメールに対応する時、料理をする気力がない時、ジムに行くのが億劫な時……。遥はためらうことなく、ポケットのボタンに指を伸ばした。
カチリ。
世界は一瞬で早送りされ、望んだ結果だけが手元に残る。
仕事は劇的に効率化した。それまで二週間かかっていたプロジェクトが、実質的な作業時間わずか数日で終わるようになる。睡眠時間は十分に取れるようになり、常に目の下に居座っていた隈は消えた。
遥は、かつてないほどの**「余裕」**を手に入れた。
しかし、数週間が過ぎた頃、奇妙な虚無感が遥を襲い始めた。
「佐倉さんのデザイン、最近スピードはすごいけど、なんか魂がないっていうか……」
コーヒーショップで同業者の友人に言われたその言葉が、耳の奥でこだました。
たしかに、そうだ。あのボタンを押して「終わらせた」仕事について、遥は何も覚えていない。どういう意図でそのデザインの方向性を決めたのか、どういう葛藤を経てその色使いを選んだのか。過程の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
25分ボタンは、遥から「経験」と「達成感」を奪っていたのだ。
ある夜、遥は急に猛烈な空腹感と疲労に襲われた。部屋を見回すと、テーブルの上には、ボタンを押して**「スキップ」**したはずの夕食の皿が、空になった状態で置かれている。
「ああ、そうか……」
ハッとする。ボタンが早送りするのは「周囲の時間」だけであり、「遥自身の肉体」は、その早送りされた25分間、何もしていないのに、着実に空腹になり、疲労を蓄積していたのだ。
遥の体は、この数週間で、実質的な活動量以上に摩耗していた。まるで、車のエンジンを空ぶかしし続けていたかのように。
遥は鏡を見た。確かに顔色は良い。だが、その目の奥には、充足感ではなく、空虚な焦燥が宿っているのを自覚した。
このままではいけない。焦燥感を抱え、遥は再び、あのアンティークショップを探しに、寂れた裏通りへと向かった。
次の瞬間、遥の視界は激しく歪んだ。部屋の蛍光灯が何十倍もの速さで点滅し、壁に貼られたカレンダーの紙がめくれ上がる音が、まるでパラパラ漫画のように超高速で耳に突き刺さる。外から聞こえていた車のエンジン音は、一瞬で遠ざかり、まるで古いレコードを高速再生しているかのような、奇妙で不快な残響だけを残した。
意識が、揺れる。しかし、その体感時間は、ほんのコンマ数秒にも満たない。
そして、すべてが止まった。
遥は、目を大きく見開き、深呼吸した。何も変わっていない。部屋の空気は、押す前と同じ、夜の冷たさを含んでいる。ただ、胸が激しく高鳴っているのを感じる。
視線をデスクに戻す。
開かれていたはずのデザインファイルが、すべて閉じている。代わりに、デスクトップには「修正完了ファイル」という名の新しいフォルダが作成され、すべての修正が施されたデータが格納されていた。
「嘘……」
信じられない。五時間かかると見積もっていた作業のうち、最も面倒で集中力の要る部分が、この一瞬で「終わった」ことになっている。遥は恐る恐るファイルを開いた。細部にまで目を通す。老紳士の言葉通りだった。誰かが、遥の意識の外で、正確に、求められた修正を施してくれたのだ。
これは、魔法だ。時間を巻き戻すのではなく、面倒な時間を、自分の人生から切り離す魔法だ。
その日以降、遥の生活は一変した。
納期が遅延しそうな時、クライアントからの煩雑なメールに対応する時、料理をする気力がない時、ジムに行くのが億劫な時……。遥はためらうことなく、ポケットのボタンに指を伸ばした。
カチリ。
世界は一瞬で早送りされ、望んだ結果だけが手元に残る。
仕事は劇的に効率化した。それまで二週間かかっていたプロジェクトが、実質的な作業時間わずか数日で終わるようになる。睡眠時間は十分に取れるようになり、常に目の下に居座っていた隈は消えた。
遥は、かつてないほどの**「余裕」**を手に入れた。
しかし、数週間が過ぎた頃、奇妙な虚無感が遥を襲い始めた。
「佐倉さんのデザイン、最近スピードはすごいけど、なんか魂がないっていうか……」
コーヒーショップで同業者の友人に言われたその言葉が、耳の奥でこだました。
たしかに、そうだ。あのボタンを押して「終わらせた」仕事について、遥は何も覚えていない。どういう意図でそのデザインの方向性を決めたのか、どういう葛藤を経てその色使いを選んだのか。過程の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
25分ボタンは、遥から「経験」と「達成感」を奪っていたのだ。
ある夜、遥は急に猛烈な空腹感と疲労に襲われた。部屋を見回すと、テーブルの上には、ボタンを押して**「スキップ」**したはずの夕食の皿が、空になった状態で置かれている。
「ああ、そうか……」
ハッとする。ボタンが早送りするのは「周囲の時間」だけであり、「遥自身の肉体」は、その早送りされた25分間、何もしていないのに、着実に空腹になり、疲労を蓄積していたのだ。
遥の体は、この数週間で、実質的な活動量以上に摩耗していた。まるで、車のエンジンを空ぶかしし続けていたかのように。
遥は鏡を見た。確かに顔色は良い。だが、その目の奥には、充足感ではなく、空虚な焦燥が宿っているのを自覚した。
このままではいけない。焦燥感を抱え、遥は再び、あのアンティークショップを探しに、寂れた裏通りへと向かった。
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