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「いや、君のせいじゃない。気にしなくていいんだ。……とにかく、何かあったらすぐ言うんだよ。マリアを……心から心配しているし、大切に思ってる」
低く落ち着いた声。その響きが胸の奥をそっと揺らす。
(大切、か……。こんな素敵な方にそう言ってもらえるなんて嬉しい。でも、きっとそれは従業員として、という意味よね)
『いい環境を整え、優秀な人材を育てるのが私の務めだ』
サンテリオ侯爵様が、以前そうおっしゃっていたのを思い出す。
「……ご心配ありがとうございます。けれど、私は大丈夫です。サンテリオ侯爵様のような優しい上司のもとで働けることを、いつも感謝しています」
「上司……。前から言っているが、私は君が――その、もっと……特別で……」
「はい、わかります!私の才能を特別に評価してくださっているのですね? 本当に光栄です。こんな環境で働けて、のびのび成果を出せるのもサンテリオ侯爵様のおかげです! これからも従業員として精一杯頑張ります!」
私は食い気味に答えた。サンテリオ侯爵様が、私をとても評価してくださるのが嬉しくて。
「……従業員として……ね。うん、……頑張ってくれたまえ」
サンテリオ侯爵様は小さく咳払いをして、視線をそらした。
(ん? 何か私、おかしなことを言ったかしら?)
「ところで、仕事が終わったら送って行こうか? 君の妹や両親が、このままおとなしく引き下がるとは思えない。……それに、高級住宅街に邸宅を構えられるほどの立場なのに、カエリン夫婦と同じマンションを選んだのは、どうしてなんだい? もっと良い場所を、代わりに探してやってもいいんだぞ。マリアの稼ぎならそれが十分できるだろう?」
「大丈夫です。マンションはすぐそこですし、カエリンさんとほぼ毎日一緒に帰っていますから。ソフィアたちも、あれだけはっきり拒絶されたら、さすがに諦めると思います」
私はつい最近まで、サンテリオ服飾工房の隣にある女子寮で暮らしていた。けれど、次々と後輩が入ってくるようになり、いつまでも先輩の自分が居続けるのは気が引けた。誰かが新しく部屋を必要としているのなら、自分の暮らしを整える余裕のある私が出て行くのが自然だと思った。
もちろん、寮を出ろと言われたわけではない。 けれど、自分の部屋が空けば後輩がひとり入れる――そう考えると、決心はすぐについた。
ちょうどその頃、カエリンさん夫婦の住むマンションの隣の部屋が売りに出されていた。それを見つけて、私は即座に購入を決めた。サンテリオ服飾工房にも近いし、何よりカエリンさんが隣にいる。それだけで、なんだか安心できたのだ。
サンテリオ侯爵様がわずかに眉をひそめたのを見て、私は胸がざわついた。
(……もしかして、私が古いマンションに住んでいるのが気に触ったのかしら? 大成功したトップデザイナーは、たいてい高級住宅街に邸宅を構えるもの)
サンテリオ侯爵様の目には、いまだに職場近くの庶民的なマンションで暮らす私が、サンテリオ領が誇るトップデザイナーにふさわしくないと映ったのかもしれない。
でも私は、この暮らしが好きだった。カエリンさんも変わらずサンテリオ服飾工房で働き、中堅デザイナーとして頼もしい存在だ。 2年前に恋人と結婚し、今は1歳になる可愛い子どもにも恵まれている。あの明るい笑顔を見るたび、隣に住んでよかったと心から思っていた。
「すみません。あまり、高級住宅街の豪邸に住む気にはなれなくて……。独り身ですし、あのくらいのマンションが私にはちょうどいいかなって。サンテリオ服飾工房の名前に傷がつかなければいいんですが。ここで成功したらすごいところに住める――そんなサクセスストーリーって、大事ですよね」
「いや、いいんだよ。自分が住みたい場所に住めばいい。マリアがそこを気に入っているなら、まったく問題ないさ。むしろ、庶民的で親しみやすいトップデザイナーとして、かえって好感を持たれるかもしれない」
。゚☆: *.☽ .* :☆゚
それから私はまた、いつもの仕事に戻った。何人かの顧客と打ち合わせをして、気づけばもう帰宅の時間だ。そんなとき、アトリエの扉が軽くノックされた。
「お疲れ様! マリアさん、一緒に帰ろうよ。途中で食材を買うから、付き合ってね。今日は煮込みハンバーグでも作ろうと思ってるの。食べにおいでよ。うちの子、マリアさんにすっかり懐いちゃってるから、料理してる間、抱っこしてもらえると助かるのよね」
カエリンさんが、にこやかに顔をのぞかせた。
今の私は、サンテリオ服飾工房の中に自分専用のアトリエを持っている。その扉の向こうに、いつも通りの彼女の笑顔があるのがなんだか嬉しかった。
「 本当に? 嬉しい! でも、ご主人は大丈夫? 私が押しかけて邪魔にならないかしら。
アリスちゃんに会えるのは嬉しいけど、仲の良いご夫婦のお邪魔になるのは申し訳ないもの」
カエリンさんの娘の名前はアリス。マンションの隣にちょうど保育園があって、そこでカエリンさんが働いている間は預かってもらっている。
「もう結婚して2年よ。子どももいるし、イチャイチャする時期は過ぎたわよ。むしろマリアさんが来てくれた方が、アリスも喜んで、よく食べるのよね」
二人でおしゃべりをしながら、サンテリオ服飾工房のエントランスを出て、マンションへ向かっていたときのことだ。不意に腕を掴まれ、思わず立ち止まる。
「お姉ちゃん、待ってたのよ! 私たちを拒絶するなんてひどいわ。とにかく、私たちは大変な目に遭ってるんだから、話だけでも聞いてよ!」
驚いて顔を向けると、そこにはソフィアがいた。
そして、その隣には――母と父の姿。
三人とも、私に向かってにたりと笑いかけていた。
低く落ち着いた声。その響きが胸の奥をそっと揺らす。
(大切、か……。こんな素敵な方にそう言ってもらえるなんて嬉しい。でも、きっとそれは従業員として、という意味よね)
『いい環境を整え、優秀な人材を育てるのが私の務めだ』
サンテリオ侯爵様が、以前そうおっしゃっていたのを思い出す。
「……ご心配ありがとうございます。けれど、私は大丈夫です。サンテリオ侯爵様のような優しい上司のもとで働けることを、いつも感謝しています」
「上司……。前から言っているが、私は君が――その、もっと……特別で……」
「はい、わかります!私の才能を特別に評価してくださっているのですね? 本当に光栄です。こんな環境で働けて、のびのび成果を出せるのもサンテリオ侯爵様のおかげです! これからも従業員として精一杯頑張ります!」
私は食い気味に答えた。サンテリオ侯爵様が、私をとても評価してくださるのが嬉しくて。
「……従業員として……ね。うん、……頑張ってくれたまえ」
サンテリオ侯爵様は小さく咳払いをして、視線をそらした。
(ん? 何か私、おかしなことを言ったかしら?)
「ところで、仕事が終わったら送って行こうか? 君の妹や両親が、このままおとなしく引き下がるとは思えない。……それに、高級住宅街に邸宅を構えられるほどの立場なのに、カエリン夫婦と同じマンションを選んだのは、どうしてなんだい? もっと良い場所を、代わりに探してやってもいいんだぞ。マリアの稼ぎならそれが十分できるだろう?」
「大丈夫です。マンションはすぐそこですし、カエリンさんとほぼ毎日一緒に帰っていますから。ソフィアたちも、あれだけはっきり拒絶されたら、さすがに諦めると思います」
私はつい最近まで、サンテリオ服飾工房の隣にある女子寮で暮らしていた。けれど、次々と後輩が入ってくるようになり、いつまでも先輩の自分が居続けるのは気が引けた。誰かが新しく部屋を必要としているのなら、自分の暮らしを整える余裕のある私が出て行くのが自然だと思った。
もちろん、寮を出ろと言われたわけではない。 けれど、自分の部屋が空けば後輩がひとり入れる――そう考えると、決心はすぐについた。
ちょうどその頃、カエリンさん夫婦の住むマンションの隣の部屋が売りに出されていた。それを見つけて、私は即座に購入を決めた。サンテリオ服飾工房にも近いし、何よりカエリンさんが隣にいる。それだけで、なんだか安心できたのだ。
サンテリオ侯爵様がわずかに眉をひそめたのを見て、私は胸がざわついた。
(……もしかして、私が古いマンションに住んでいるのが気に触ったのかしら? 大成功したトップデザイナーは、たいてい高級住宅街に邸宅を構えるもの)
サンテリオ侯爵様の目には、いまだに職場近くの庶民的なマンションで暮らす私が、サンテリオ領が誇るトップデザイナーにふさわしくないと映ったのかもしれない。
でも私は、この暮らしが好きだった。カエリンさんも変わらずサンテリオ服飾工房で働き、中堅デザイナーとして頼もしい存在だ。 2年前に恋人と結婚し、今は1歳になる可愛い子どもにも恵まれている。あの明るい笑顔を見るたび、隣に住んでよかったと心から思っていた。
「すみません。あまり、高級住宅街の豪邸に住む気にはなれなくて……。独り身ですし、あのくらいのマンションが私にはちょうどいいかなって。サンテリオ服飾工房の名前に傷がつかなければいいんですが。ここで成功したらすごいところに住める――そんなサクセスストーリーって、大事ですよね」
「いや、いいんだよ。自分が住みたい場所に住めばいい。マリアがそこを気に入っているなら、まったく問題ないさ。むしろ、庶民的で親しみやすいトップデザイナーとして、かえって好感を持たれるかもしれない」
。゚☆: *.☽ .* :☆゚
それから私はまた、いつもの仕事に戻った。何人かの顧客と打ち合わせをして、気づけばもう帰宅の時間だ。そんなとき、アトリエの扉が軽くノックされた。
「お疲れ様! マリアさん、一緒に帰ろうよ。途中で食材を買うから、付き合ってね。今日は煮込みハンバーグでも作ろうと思ってるの。食べにおいでよ。うちの子、マリアさんにすっかり懐いちゃってるから、料理してる間、抱っこしてもらえると助かるのよね」
カエリンさんが、にこやかに顔をのぞかせた。
今の私は、サンテリオ服飾工房の中に自分専用のアトリエを持っている。その扉の向こうに、いつも通りの彼女の笑顔があるのがなんだか嬉しかった。
「 本当に? 嬉しい! でも、ご主人は大丈夫? 私が押しかけて邪魔にならないかしら。
アリスちゃんに会えるのは嬉しいけど、仲の良いご夫婦のお邪魔になるのは申し訳ないもの」
カエリンさんの娘の名前はアリス。マンションの隣にちょうど保育園があって、そこでカエリンさんが働いている間は預かってもらっている。
「もう結婚して2年よ。子どももいるし、イチャイチャする時期は過ぎたわよ。むしろマリアさんが来てくれた方が、アリスも喜んで、よく食べるのよね」
二人でおしゃべりをしながら、サンテリオ服飾工房のエントランスを出て、マンションへ向かっていたときのことだ。不意に腕を掴まれ、思わず立ち止まる。
「お姉ちゃん、待ってたのよ! 私たちを拒絶するなんてひどいわ。とにかく、私たちは大変な目に遭ってるんだから、話だけでも聞いてよ!」
驚いて顔を向けると、そこにはソフィアがいた。
そして、その隣には――母と父の姿。
三人とも、私に向かってにたりと笑いかけていた。
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