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1巻

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   プロローグ


「えっ、別れるってどういうこと?」
「その言葉通りの意味だよ。別れよう、オレたち」

 突然すぎる久嗣ひさしの宣言に、目の前が真っ暗になった。
 別れるだなんて、わたしと彼には無縁な言葉だと思っていた。だから、その意味が一瞬、わからなかったのだ。
 ――別れるって、わたしと久嗣が……? 彼氏と彼女の関係じゃ、なくなるってこと?

「じょ、冗談でしょ。だってついこないだ、付き合って半年の記念だねって、お祝いしたばっかりだし、そもそもわたしたち、喧嘩けんかもしないで上手くいってたじゃない。それなのに何でいきなり」

 自分でも早口になっているのはわかる。けれど、一息に言わずにはいられなかった。
 ――そんなはずはない。
 付き合ってちょうど半年の記念日デートで、久嗣は「これからもよろしくね」なんてささやいて、わたしに優しくキスしてくれた。あのときの唇の感触を、まだ鮮明に覚えているのに。
 テーブル全体を大きなパラソルがおおっていても、七月中旬の日差しはギラギラと攻撃的だ。テラス席で向かい合って座るわたしと久嗣に、容赦ようしゃなく、そして執拗しつように照りつける。
 気を取り直すように、わたしは目の前にあるグラスを片手で持ち上げた。外の気温にえかねて汗をかいている筒型のそれから伸びるストローに口をつけて、中身を飲む。
 さっきまでアイスティーの味がしていたのに、今は何の味もしない。

「とにかく、もうそんな気じゃなくなったってこと」
「わかんないよ、それじゃ」
「つーか理解しろよ、普通に」

 ごねるわたしに、丸テーブルの向かい側から久嗣が苛立いらだった声を上げる。
 ――あれ、と思った。
 いつもにこにこと温かい笑みを向けてくれていた彼が、今は不機嫌そうな、怖い顔をしている。
 口調や言葉の響きも、これまで聞いたことのない冷たいものだ。まるで全く別の人と話しているようにさえ思える。
 そういえば、今日話があると呼び出され、この席に座ったときから違和感を覚えていた。
 これまで久嗣は、「できるだけみやびちゃんの近くにいたいから」とか言いつつ、わたしと横並びで座るのを好んでいた。それなのに、今日はわたしとの間に椅子を一つ挟んで座ったのだ。離れて座るなんて珍しい、と思っていたところだった。

「理解なんて――」

 わたしが再度口を開いたとき、久嗣はそれをさえぎるように両手をテーブルについて立ち上がった。

「言葉で説明しなきゃわかんないのかよ。オレは単純に、オマエに飽きちゃったわけ。一緒にいても楽しくないし、全然ドキドキしない。女として見られない」

 久嗣の辛辣しんらつで直球な言葉が、鋭い刃となってわたしの胸にブスブスと突き刺さる。
 今まで呼ばれたことのない「オマエ」という呼称の違和感に反応できないまま、後に続く言葉で心が致命的なダメージを負う。

「だから別れる。もう連絡しないでくれよ。てか、されても返さないから。じゃあな」
「ちょ、ちょっと待ってよっ、ねぇってば……!」

 久嗣は言うだけ言ったあと、これで用事は終わったとばかりに歩き出した。
 引き留めようとするわたしに一瞥いちべつもくれず、彼は逃げるように早足で席から遠ざかっていく。
 ほんの数分前までわたしの目の前に座っていたはずの彼は、人混みにまぎれてすぐに見えなくなった。

「……嘘でしょ」

 呆然ぼうぜんと呟きながら、再びアイスティーを口にする。やはり味のしない液体が、ただただのどを通りすぎていった。

「うわー、人がフラれるとこって初めて見たわ……」
「ヒサンだねー。かわいそー」

 さっきまで他愛もない話題で盛り上がっていた、後ろのテーブルの若い女子ふたり組。彼女たちのヒソヒソ声が耳に入って、心に刺さる。
 認めたくないけれど……おそらくわたしはたった今、フラれたのだ。
 久嗣との仲は順調そのものだと思っていたのに、それは大きな勘違いだったらしい。
 交際期間はおよそ半年。彼からの熱烈なアプローチで始まった恋の結末は、思いのほかあっけなく終わりを迎えた。
 まるで砂糖菓子のような、ひとときの甘い夢だったのではないか――。そう思えるくらい、本当に束の間の甘い時間は、あっさり消えた。

「……最悪」

 くわえたストローを奥歯で強くんだ。それから、やり場のない気持ちを吐き出すみたいにして呟く。
 突如訪れた失恋に打ちひしがれているわたし――若林わかばやしみやび、二十六歳。
 しかしこの直後、更なる大きな不幸がわたしに襲いかかるだなんて――このときのわたしはまだ、知るよしもなかった。



   1


 衝撃の出来事から三日。明るさとポジティブさが取り柄のわたしは、早くも失恋の痛手から立ち直りつつあった。
 別れたその日に、久嗣と共通の友達である佳奈かなから電話が来て、彼が二股をかけていたことを知ったのだ。それも、わたしは本命ではなく二番目だったというのだから、驚きを通り越してもはや感心してしまう。よくもまぁ、半年間も隠し通せたものだ。
 このタイミングで別れを切り出したのは、本命の彼女と結婚話が持ち上がったためだそうだ。わたしとの関係を清算しなければ、破談になると思ったらしい。
 佳奈は仲間内から久嗣の結婚のうわさを聞きつけ、すぐに連絡をくれた。しかし、既に別れを切り出されたあとだと告げると、わたしの気持ちを代弁するように久嗣をなじっていた。

「ありがとう、でも意外とわたし、平気かも」

 フラれたばかりで強がりに聞こえたかもしれないけど、その言葉に嘘はなかった。
 もちろんショックは大きいし、悲しい。けど、どこかでせいせいしている部分もあったからだ。
 別れ際のあの冷酷な態度が彼の本性なのだとすると嫌悪感けんおかんつのるし、もっと関係が深くなってから発覚するよりは何倍もマシだと思えた。
 まぁ正直なところ……わたしも二十六歳になったし、このまま結婚までまっしぐら――なんて想像も、していなくはなかった。それは認める。
 だけど恋愛はなかなかどうして、思い通りにはいかないものだ。
 ……とにかく、久嗣との半年間は、悪い夢でも見たと思って忘れよう。それがいい。
 モヤモヤした思いを抱きつつも、わたしはそう、自分に言い聞かせた。


 ところが――心の平穏を願うわたしに再び悲劇が起こったのは、久嗣と別れた一週間後の夜だった。

「みやびちゃん、ちょっといいかしら?」

 夕食のあとの、一日の疲れをやす心地良い時間。
 わたしはリビングのソファに寝転び、ぼんやりとテレビをながめていた。すると、キッチンから水の流れる音とともに、自分を呼ぶ母の声が聞こえてきた。

「何?」

 優しくか細い母の声は、聞き取りにくい。わたしは、手にしていたリモコンでテレビの音量を少し小さくしてから、声を張ってたずね返した。
 キュッという金属質な響きがして、水音が止まる。ほどなくして、パタパタとスリッパの底をらしながら、リビングに母が来た。

「大事な話があるの。お父さんを呼んでくるわね」
「……う、うん」

 五十二歳という年齢に似合わずいつもほわほわとした雰囲気の母が、今は口元を引きめ、どことなく不安そうな表情をしている。それが引っかかり、おのずとわたしの返事も、驚きと困惑が入りまじったものになる。
 何となく不穏に感じてテレビの電源を落とし、リモコンをローテーブルの上に置いた。
 母は、三階にいる父を呼びに行っているようだ。
 ソファから身体を起こしたわたしは、無意識に脚をそろえて姿勢を正した。
 ――もしかして、お店に関する話だろうか。なんとなく、そう思った。
 わたしの家は、小さな洋菓子店を営んでいる。その名も、『洋菓子の若林』。そこは、わたしの父・雄介ゆうすけと、母・真理枝まりえが、東京の片隅で二十四年間、一生懸命守り続けてきた洋菓子店だ。ひとり娘のわたしは、その二代目にあたる。
 パティシエになって自分の城を持つのが、父の昔からの夢だったらしい。
 都会のパティスリーのような派手さや華麗さはないけれど、食べるとホッと一息つけるような、温かみのあるスイーツが売りのこぢんまりとしたお店だ。
 華やかな都会のパティスリーを余所よそ行きのオシャレ着にたとえるなら、我が家はヘビロテしたい普段着といったところだろうか。
 わたしは、普段の生活の中にフィットするこの店が大好きだ。
 三階建ての賃貸物件である我が家は、一階が店舗、二階と三階が住宅になっている。最寄り駅から徒歩五分という立地のよさで、賃料はかなりお高め。
 それに加え、製菓のための厨房ちゅうぼうと包装室をねた物件を別に借りているので、その分の賃料も払っている。毎月その賃料を捻出ねんしゅつするのが非常に厳しく、実は過去何度も滞納たいのうしていたりする。
 もともとは、ここまで経営は厳しくなかった。しかし時代の波というのかなんというのか……。昔ながらの地味な『洋菓子の若林』は、年々、お客を減らしていた。
 さらに不運にも一年前、お店の目と鼻の先に、全国展開のケーキショップ『ヤミーファクトリー』がオープンしたのだ。それからは、ただでさえ少なくなっていた客足が、ガクンと減った――それはもう、はっきりと、わかりやすいほどに。
「やっぱりお客さんは、どこででも食べられるれた味のほうに行ってしまうのかねえ」なんて、さびしそうに笑う両親を見るにつけ、わたしの胸はズキンと痛んだ。
 けれど、そのままでいいはずがない。
 落ち込むふたりを元気づけなきゃと、わたしは自分なりに様々な提案をし、行動にも移していた。
 例えば、季節ごとに新商品を発案してみたり、オリジナルバースデーケーキの受注製作をすすめたりとか。
 ……けれどこれらの試みは、現在に至るまで、売り上げアップにはほとんどつながっていない。
 それらを考えると、母があんなに改まった口調で切り出すのは、お店のことで間違いないだろう。
 ――また、売り上げが下がったのかもしれない。
 そんな思考をめぐらせているうちに、両親がそろってリビングに入ってきた。そして、L字ソファの端に座るわたしと身体を向かい合わせる形で、ふたりがそこに腰かける。
 父は母より三つ年上の五十五歳。昭和生まれの職人の割には、感情の起伏が少なく、家族思いだ。改めてこうして顔を突き合わせてみると、昔より顔や肩幅が一回り小さくなったように思う。
 仕事以外はほとんど興味がない、仕事一筋な人。だから、部屋着のスウェットも色が上下ちぐはぐな組み合わせだけれど、気にしている風は全くない。
 しばらくの間、言葉を探すようにして沈黙する両親。そのみょうな空白に先にえられなくなったのは、わたしだ。

「話って何なの、改まっちゃって」

 努めて明るい口調で言う。ふたりの言葉が、わたしと同じトーンで返ってくるのを期待したのかもしれない。けれど――

「もう、一家心中しかない。お父さんたちと一緒に、覚悟を決めてくれないか」
「はあっ!?」

 わたしは一瞬、父が何を言っているのか全く理解できなかった。

「ごめんね、みやびちゃん。私たちも、こんな形で終わるなんて考えてもみなかったんだけど……でも、仕方ないのよ」

 母は話しながら、両手で顔をおおって泣き出した。
 父がそんな母のひざにそっと触れ、なぐさめるように言う。

「オレがふがいないばっかりに、すまなかったな、真理枝。最後まで苦労かけて」
「いいえ、私、幸せだったわ。あなたと結婚して、みやびちゃんっていう可愛いひとり娘もさずかったんだもの」
「そうだな。終わりこそこんなだったが、俺たちの人生も悪くはなかったよな」
「ちょっ、ちょっと待って待って、ストップ! 勝手に人生をくくろうとしないでよ!」

 目の前のふたりが湿しめっぽい三文芝居を始めたものだから、わたしは両手を前に押し出し、制止するようなジェスチャーをしながらわめいた。

「みやびちゃん……」

 わたしの顔を見つめて弱々しく呟く母に、さらに語気強く続ける。

「お母さん、メソメソ泣かない! それにお父さん、いきなり心中とか物騒なこと言わないでよっ。まずはどういうことなのか、わかるように説明して!」
「わ、わかった……実はな――」

 父がたどたどしく説明を始めた。
 要約すると、つまりこういうことらしい。
 店の経営は悪化の一途を辿たどっていて、家賃は三ヶ月も滞納たいのうしている状態にある。そんな状況を案じた大家が、このまま家賃を支払えない状態が続くのなら、立ち退いてくれと言ってきたそうだ。
 ここを追い出されたら、他に行く当てなんてないし、別の場所で再出発する余力がうちに残っているわけもない。
 だから、こうなったらもう、首をくくるしかない、と。
 そうは言っても一家心中とは……

「そんな。何か方法はないの? ――その、お金を借りたりとか」
「心当たりは全部当たったが、無理だった」
「……そうなんだ」
「ただ、一つだけ方法があることはあるが――」
「あるんだ!? 何? それを教えてよ!」

 困った様子で言った父の言葉をさえぎって、先をうながす。

「それが……」

 父が歯切れ悪く言いよどみ、となりの母はそんな父の反応を見て、一層激しく泣いている。

「……蛭田ひるたさん、いるだろ」
「ああ、うん」

 わたしの眉間に、無意識のうちにしわが寄る。
 蛭田幸三こうぞう――我が家の大家だ。
 とはいえ、彼とかかわりをもつようになったのは、つい最近のこと。それまで私たちが借りている物件の所有権は、別の人物にあった。それが訳あって、蛭田さんに代わったらしい。
 わたしはこの蛭田という男が、反吐へどが出るほど嫌いだ。
 かえるに似たアイツの顔を思い出し、背筋に冷たいものが走った気がして、ぶるりと身震いする。
 つい先日還暦かんれきを迎えたという蛭田さんは、下町の繁華街で数多あまたのいかがわしいお店を経営している。そればかりか、一夫一妻制のこの国において、なんと三人の妻がいるのだ。しかも、妻のうちふたりは二十代だというのだから、本当にとんでもない。
 父と娘、いや下手すると祖父と孫ほど年が離れた女性と結婚する神経が理解できないし、妻が三人もいるというアウトローすぎる家族構成も当然受け入れられない。
 そもそも「三人と同時に婚姻関係は結べないんじゃないの?」と疑問に思ったけど、どうやら本妻以外のふたりとは、養子縁組をしているらしい。そこまでして無理やり戸籍をつなぐなんて、その執念に恐怖すら覚える。
 蛭田さんの嫌いな要素はいくつも挙げられるけど、一番頭にきたのは店をバカにされたことだ。
 一度、蛭田さんがお客として店にやって来たことがあった。もともと蛭田さんのことはいけ好かないヤツだとは思っていたけれど、それでも新しく大家になった人だし、いい印象を持ってもらわなくてはと、わたしは好意的に接客しようと思った。
 ところが、アイツは店に入るなり「センスがない」「薄汚い」「古い」、さらには買った菓子をその場で食べて「不味まずい」と散々にけなしてきたのだ。挙句あげく――

「こんなしょうもない店、早くたたんだらどうだね? でなければ、負債が増すだけだ」

 ……くやしかった。
 両親とともに、コツコツと一生懸命作り上げたかけがえのないものを全否定されて、わたしはとうとう我慢できなくなった。

「アンタに何がわかるのよ! もうここには来ないで!!」

 大家相手に理性を欠いた発言なのはわかっている。でも、言わずにはいられなかった。
 怒った蛭田さんは「何様だ、無礼な!」と顔を真っ赤にして帰っていったけれど、心の中でその言葉をそっくりそのままお返しした。
 ――ああ、蛭田さんなんて聞いたら、あのときの怒りがよみがえってきた。

「で? その蛭田さんがどうかしたの?」
「実はな……蛭田さんが、ある条件を呑むなら、店を続けても構わないって言うんだ。それも、家賃は未来永劫えいごう支払わなくていいとも言ってる」
「何それ」

 わたしは目をみはった。あの嫌味な男が、そんな温情をかけることなんてあるんだろうか。

「で、条件って何なの?」

 先をうながすと、父は顔をうつむけて小さくため息を吐いた。
 それから、よく耳をまさなければ聞こえないような、小さな小さな声で呟く。

「その、みやびを……嫁にほしい、と」
「嫁!?」
「みやびを、四番目の妻にしたい。蛭田さんはそう言っていた」
「……」

 ――それって、わたしが四番目の妻として蛭田さんと結婚するってこと?
 想像しただけで気分が悪くなって、口元を押さえた。そして。

「ない! 絶対絶対絶対ぜーったいに、ない、無理だから!!」

 わたしは嫌悪感けんおかんあらわに叫んで、ぶんぶんと左右に首を振った。
 いやだ。いやだ。いやだ――是が非でも、それだけは、絶対いやだ!!

「首を振りすぎて眩暈めまいが……」
「だ、大丈夫か、みやび?」

 頭がぐわんぐわんする。
 ひたいを押さえるわたしを心配した様子で、父が声をかけた。
 しかし、わたしは父にみつかんばかりの勢いで反論する。

「大丈夫なワケないでしょっ、誰があんなヤツとっ……だいたいわたし、アイツとケンカしたんだよ。お父さんとお母さんがいないとき、お店で」

 あのときの蛭田さんは酷く腹を立てていた。そんないけすかないはずのわたしを、たとえ嫌がらせのつもりでも、自分の嫁に迎え入れるはずがない。

「蛭田さんからその話も聞いた。どうやら、あちらはみやびのそういう、気の強い、はっきりしたところを気に入ったみたいなんだ」
「そんなこと言われても!」

 ちっとも嬉しくなんてない。いや、むしろ蛭田さんから異性として興味を持たれている、と知って、悪寒おかんが止まらない。

「……わかってる、みやびが蛭田さんを毛嫌いしているのは知っているし、もちろん父さんたちも可愛いひとり娘をこんな不本意な形で嫁に出したくはない。だがこの話を断ったら、我が家は終わりなんだよ」

 この世の終わりとばかりに頭を抱える父を見て、それまで嗚咽おえつらすだけだった母が口を開いた。

「ここを追い出されたらお店は諦めなきゃいけないわ。そうしたら、家も職も失うわけでしょう。私もお父さんも歳だからなかなか再就職先もなくて、生活もままならないでしょうし……」

 ようやく話の全貌ぜんぼうが見えてきた。
 店を継続させるには蛭田さんから家賃の援助を得るしかない。でも、そのためには、わたしをアイツに売り飛ばさなきゃならない。
 両親はどちらも選べないのだ。お店もわたしも、どちらも大事だから。

「だいたい、今まで菓子作りしかしてこなかった父さんと母さんに、他に生きていくすべなんてあるわけがないんだ。生き恥をさらすくらいなら、店をたたむ前に人生ごとたたんでしまったほうがいい」

 父がブツブツと極論を繰り出すと、母はみょうに優しい笑みを浮かべわたしを見た。

「大丈夫よ、みやびちゃん。眠るようにあちらへける方法もあるってお父さんと調べたの。だから心配しないでね」
「お母さん」

 何が「大丈夫」なのか。何が「心配しないで」なのか。
 母の異様な台詞せりふを聞いて、眉間に力が入る。

「睡眠薬をいっぱい飲むのは失敗したときが厄介だ、って本に書いてあったから、やっぱり一酸化炭素中毒がいいかしらね。狭い部屋にガスを充満させる方法なら手軽でしょう」
「ぶ、物騒なこと言わないでよ」

 縁起でもない――と突っ込んではみたものの、どうしよう。母の目が笑っていない。
 顔は笑っているのに、目だけは悪霊にでも取りつかれたかのように病的で、生気がない。
 いや、母だけじゃない。よく見ると父も同じ目をしていた。

「誰が一番最初にあっちにけるか競争しようか」
「うふふ。そうねお父さん、負けないわよ」

 うつろな目をして笑う両親。ふたりとも、解決法はそれしかないのだと信じているようだ。

「家族三人一緒なら、何も恐れるものはない。天国でも一緒にお菓子屋さんをしような」
「あら、向こうでもお店が開けるなら、楽しみになってきちゃったわ。ねえ、みやびちゃん?」
「楽しみなわけないでしょ、いい加減にして!」

 もう聞いていられない。わたしは、現実逃避しようとする両親を一喝いっかつした。

「お父さんもお母さんも、悩みすぎておかしくなっちゃったわけ? 一家心中なんて間違ってる、正気に戻ってよ」

 わたしは父と母――ふたりをしっかりと見つめて言った。

「どっちも選べないから心中だなんて、そんなの一番ダメ。アイツの嫁に行かないで、お店も続けられる方法を探そうよ」

 真剣な訴えは、ふたりに届いたらしい。どこか遠くを見ていた父と母は、眠りから覚めた直後のようにハッと表情を変えた。

「わ、悪かった。確かに、まだ若いみやびにさせるようなことじゃないよな。だけど、そんな方法なんて……」

 父が困惑した様子で項垂うなだれる。その様子は、考え尽くしたあとだと言いたげだ。
 わたしは、暗い気分を振り切るように笑顔を作った。

「今は考えつかないだけで、ちゃんとあるかもしれない。そのベストな考えに辿たどり着いてないだけかもしれないでしょ?」
「みやびちゃん……」

 母の瞳に、かすかに光が戻った気がした。その様子に安心して、話を続ける。

「結論を出すのはまだ早いよ。立ち退きの期限はいつまでなの?」

 わたしがたずねると、父があごに手を当てて、少しの間逡巡しゅんじゅんする。

「月末まで、ということになってる」
「月末か」

 頭の中で七月のカレンダーを思い浮かべる。
 あと二週間もない。
 しかし、二週間もある、と考えることもできるはず。これだけの期間があれば、起死回生きしかいせいの案を思いつけるかもしれない。
 わたしは勢いよく立ち上がると、ぐっとこぶしにぎった。そして、まだ不安そうな表情をしている父と母に強く宣言する。


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