2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む「時間はまだあるんだから、諦めないで頑張ろう。お店を続けられる方法を、わたしも一生懸命考えてみる!」
弱気な両親を鼓舞するようにみせかけて、実は自分自身を勇気づけていたのかもしれない。
そう。諦めたら一家心中コースだ。
大好きな『洋菓子の若林』は、わたしの居場所で心の拠り所。
なくなるなんて……そんなこと、あってはいけないんだから!
蛭田さんのいいようになんてさせない。家族とお店は、わたしが守る。
このときには、もう失恋のことなんて頭からすっぽ抜けていた。終わった恋愛が思考に入り込む隙なんてない。
今のわたしは、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。とにかくどうしたら仕事や家族を失わずにすむのかを考えなきゃ。だから、クヨクヨしていても仕方がない。
前を向く。行動する。それしかないんだ――
2
「はぁ……」
閑古鳥の鳴く店内。
そのレジの傍にある、細かな傷だらけのカウンターに突っ伏したわたしは、今日何度目なのかわからないため息を吐いた。
蛭田さんと結婚せずに、お店を続けられる方法を考える――なんて宣言したものの、その具体的な方法を何一つ思いつけないまま、時間だけがすぎていた。
来月も家族三人でこのお店を続けるためには、家賃を納めなきゃいけない。
経営不振の我が家が短期間で資金を調達できるとしたら、方法は三つ。
一つ目、誰かから借りる。
これは父が親戚や友人といった心当たりと再度連絡を取ってくれたけれど、全滅だった。ならば銀行から融資を受けられないかと当たってみるものの、家賃を滞納している我が家が信用されるはずもない。そのセンはあっさり消えた。
二つ目、店での売り上げを当てにするのではなく、別口で働いて稼ぐ。
悪くはない案だと思ったけれど、残り時間はわずかだ。この短期間で目標額まで稼げるような仕事なんて、ロクなものじゃない。これも消えた。
で、三つ目。棚ボタを狙う――具体的には、蛭田さんの気が変わるのを待つ、とか、こちらから借金を申し込んだ人が、やっぱり貸してあげるよと言ってくれるのを待つ、とか。もっといえば、無条件に救いの手を差し伸べてくれる人が現れるのを期待する、とか。神様に祈る、とか。
……とにかく、ひたすら、運がこちらに向いてくれるのを待つ、というものだ。
「そんなの、上手くいきっこないよなぁ~……」
わたしは脱力しながら弱々しく呟いた。
わかってる。そんな都合のいい展開、あるわけがない。
あまりの情けなさで涙が出そうになる。
つまるところ、ドン詰まり。身動きのできない状況にあるということだ。
……マズい。一家心中の結末が、リアルに迫ってきている。
焦れども、一向にお客さんがやってくる気配はない。
わたしは、助けを求めるようにエントランスの扉を見つめた。
白い木の枠にガラス窓のついた扉から、外の様子を少しだけ窺うことができる。
駅から近いため、人通りは結構あるのに、通りかかる人のほとんどが、この店に興味を持たない。
――どうしてこんなことになっちゃったかなぁ。
もう一度ため息を吐いた。落ち込んだところで解決にはならないと思いつつ、考えずにはいられない。
わたしがまだ幼いころは、それなりに繁盛していたはずなのだ。お正月にバレンタイン、クリスマス。季節のイベントごとに、両親は忙しそうだったから。
だけど、わたしが小学生になり、中学生になり、高校生になるにつれて、お客さんの出入りがどんどん減っていった。
決して仕事の手を抜いているわけじゃない。いつ見ても両親は真面目に働いていたし、父の作るお菓子は常に最高の出来だった。
とくに、パウンドケーキは絶品だ。味ももちろんだけど、見た目がとくに可愛らしかった。
パウンドケーキというと、お酒に漬けたフルーツやナッツの類を生地にまぜて焼いた、全体的に茶色っぽく素朴なお菓子のイメージ。
だけど父が作るそれは、バニラ味とストロベリー味のマーブル生地に、ストロベリージャムで作った硬めのゼリーをハートに模って流し込んである。
贈答用やおもたせに選んでもらえることが多く、オープンから現在までこの店の一番人気を守り続けている、特別な品物だ。
わたしがこのパウンドケーキを愛するわけは、もう一つある。それは、この商品が誕生した理由にあった。
父が初めてこの商品を作ったのは、まだお店を開く前、もっと言うと母と結婚する前のこと。シャイな父は、甘いものが大好きな母にプロポーズするとき、自分の得意なお菓子で母に気持ちを伝えることができないかと考えたらしい。
母は部屋を訪ねてきた父からお土産のケーキを受け取り、ナイフでカットする。断面の中心に大きなハート型が現れ驚く母に、父がすかさずプロポーズをしたそうだ。
女性の好みにうとい父が、どうしてこんな可愛らしい商品を生み出すことができたのか、ずっと気になっていたのだ。しかし、そのエピソードを聞いて、なるほど、勝負をかけて作ったお菓子だったからか、と、嬉しい気持ちになった。
だけどそれは、父の娘であるわたしだから思えることなのかもしれない。
近隣に『ヤミーファクトリー』ができ、今の時代に合ったキャッチーで写真映えするようなスイーツが珍しくなくなって、いつの間にかこのパウンドケーキは見向きもされなくなってしまった。
……うちのだって、負けていないのに。
レジ前に置いてある、小分けにカットしてラッピングされたパウンドケーキに視線を落として、さらにため息を吐いた。
――いけない、いけない。ため息を吐くと幸せが逃げるんだっけ。
こんなに連発していたら、ただでさえ欠乏している幸福がまったく寄りつかなくなってしまう。
めげてはいけないと思い顔を上げると、入り口の扉に人影が見えた。
……お客さん?
チリンチリン、と扉に取りつけてあるベルが涼しい音を立てる。
「いらっしゃいま……せ」
その音に続いてかけた声が一瞬詰まる。
入ってきたのは、スーツを着た若い男性だ。歳はわたしと同じくらいか、少し上といったところだろうか。ぱっと見ただけでドキッとするほどのイケメンだ。こんなにかっこいい人、そうそうお目にかかれない。
レジ横の置時計を見ると、現在の時刻は十二時すぎ。
ランチどきであるこの時間は、皆お菓子ではなく昼食を取るため、一日の中でももっともお客さんが少ない時間帯だ。
誰か来たとしても、近所に住む主婦がどこかへ出かけるときの手土産を買ってくれるくらい。男性の、しかもビジネスマンの来訪はかなり珍しい。
わたしは改めてその男性に視線を戻した。
ネイビーのスーツにライトブルーのシャツ、そしてライトグリーンのネクタイという装いが目を引く。
この暑い時季にネクタイをきっちりと締めているとは、何て生真面目な人なんだろう。
男性はわたしにちらりと視線を送ったあと、店内をぐるりと囲むように陳列してある焼き菓子を眺めた。
パーマのかかったふわふわとしたマッシュヘアが柔和な雰囲気なのに対し、奥二重のキリッとした目元と高い鼻からは、シャープな印象を受ける。そのアンバランスさが妙に魅力的で、本当に文句なしの美男子だ。俗っぽい表現だと、塩顔のイケメンってヤツか。
こんなにカッコイイ人が店にやって来ることなんてないから、変に緊張してしまう。
レジ付近にある冷蔵のショーケースと、それを挟むように置かれたラッピング済みの半生菓子や焼き菓子などの棚を、男性はときには中腰になって熱心に見つめている。
横顔だと、スッと通った鼻筋が余計に強調されて、思わず比べるように自分の鼻に触れた。
……本当に同じ日本人?
全体的に顔のパーツが小さいわたしとは、全然違うつくりの顔。
それにしてもこの塩顔イケメン、やけにじっくりと商品を見ている。
何を買うべきか、悩んでいるんだろうか。
「何かお探しですか?」
それならばと、わたしはカウンター越しに声をかけた。
「よろしければご案内しますが」
高揚感からか、ついワントーン高い声が出てしまった。仕事ではあるけれど、彼に話しかけているという事実にドキドキする。
「……」
彼はわたしの声に反応してこちらへ視線を向けたものの、返事をしなかった。
「お持ち帰りですか、それとも贈り物ですか? 贈り物でしたら、当店ではこちらのパウンドケーキがおすすめです」
わたしは向かって左にある棚の最上段に並べられた、例のパウンドケーキを手で示した。
彼の視線がパウンドケーキに向けられる。すると彼は一瞬目を瞠り、「あっ」と小さく言葉を発したように感じた。それから少しの間、ケーキをじっと見つめる。気に入ってくれたのだろうか。
「カットすると、中心にハート型のゼリーが現れるようになってます。可愛いと仰って下さる方も多く――」
「……パッとしない店だ」
商品説明に入ろうとしたところで、彼が唐突にわたしに身体を向けてそれを遮る。
「え?」
「パッとしない店だ、って言ったんだ。店内も暗いし、まず雰囲気が古い。まぁ、店舗自体が古いのもあるんだろうけど、クロスも扉も経年劣化で見栄えが悪すぎる。お化けでも出てきそうなくらいにな」
「なっ……」
一言目では理解できなかったけれど、ようやく真っ向から店を否定されているということに気がついた。カッとしたものが込み上げる。
――コイツ、何て失礼な!
反射的に、蛭田さんのことを思い出した。
「配置も適当だし、商品も……今日、俺が何人目の客だ?」
しかし、蛭田さんのときとは違い、男性の言い方には、嫌味な感じもなければ、責めるようなトーンもなかった。ただ純粋に、質問しているだけのようだ。
そんな訊き方のせいもあってか、言われた言葉の割に、不快な気持ちにはならなかった。そのため蛭田さんのときとは違って、ついつい素直に答えてしまう。
「……ひとり目」
すると、彼は肩を竦めた。
「だろうな。これじゃ客が来ないのも頷ける。流行らない店の典型だ」
「っ~~~ちょっと! いったい何なんですか?」
いや、やっぱり腹が立つことは腹が立つ。
「失礼じゃないですか! そんな、入ったばかりで、何がわかるっていうんですか?」
「店に入って三十秒見れば、六割はわかる。残りの四割は味だが」
「ならうちのお菓子を食べてから文句言ってよ。四割は味なんでしょ、あなたの理論では」
何を偉そうにのたまってるんだろう、この男は。少し前まで彼をイケメンだと評していた自分に腹が立つ。
勢いのままに、わたしはレジ脇の籐のカゴからラッピングされたパウンドケーキを掴み取り、ずいっと前方に突き出した。
「はい!」
「これを、味見していいのか?」
「ええどうぞ。うちで一番売れてる自信作なので」
彼はわたしの手からパウンドケーキの包みを受け取ると、透明なセロファンを、花びらを一枚ずつ摘まむように丁寧に開いた。
「いただきます」
律儀にそう口にしたのは意外だった。初対面でズケズケと文句を言うくせに、最低限のマナーは心得ているようだ。
彼はまず一口、長方形の角の部分を齧った。バニラビーンズのまじった白色のバニラ生地と、薄ピンク色のストロベリー味の生地がマーブル模様になっているパウンドケーキを、彼は表情を変えないまま、ゆっくりと咀嚼して呑みこむ。
今度はマーブル生地と、ハート型に埋め込まれた赤いゼリーの部分を一緒に口にした。そのとき、一瞬彼の鋭い瞳が大きく見開かれたように思えた。
――どうなんだろう。
わたしは、彼がケーキを食べる姿を、何か大事な儀式でも見守るように見つめて、その感想を待つ。
「……美味しい」
すると、彼の唇から零れたのは、予想に反する言葉だった。
蛭田さんに「不味い」と言われたこともあり、今回も酷評されるかもと思っていたのに。
彼は確認とばかりにもう一口ケーキを齧る。
「うん、美味しい。レベルの高いパウンドケーキだ。生地の口当たりや水分値もちょうどいいし、中央のパート・ド・フリュイも食感がよくて、酸味が心地いい。ケーキと一緒に食べたときのバランスも申し分ない」
「ど、どうも……」
パート・ド・フリュイとは、中心にあるハート型のゼリー部分を表す製菓用語だ。
食べてみてから評価しろとタンカを切ったのはいいけれど、一転してべた褒めされると、逆に強く出られなくなってしまう。わたしは面食らいつつ、たどたどしく礼を言った。
というかこの人、パート・ド・フリュイなんてよく知ってたな。ある程度お菓子に詳しいか、興味があるんだろうか。
スイーツと縁の薄そうな若い男性がその単語を口にするのは、違和感がある。
いつの間にかケーキを食べ終えていた彼は、やはり「ごちそうさま」と小さく口にしてから、セロファンを手のひらで丸めた。わたしはそれを受け取り、レジ下のごみ箱に捨てる。
「ほ、褒めてくれたなら……さっきの言葉、撤回してくれますか?」
あれだけ称賛してくれたなら、冒頭の評価は覆るはずだ。
「さっきの言葉?」
「だから、パッとしない店だとか、そういう」
「パッとしない店であることは変わらない。そこは撤回しない」
どういうことだ。美味しい、レベルが高いと褒めちぎってくれたのに。
理解できないわたしを尻目に、彼が話し続ける。
「ただ、客の来ない店だと言ったのは撤回する。この味なら、多少なりとも客はつくはずだ。それなのに、あまり繁盛している様子がないのは……何か心当たりでもあるのか?」
こちらを窺う奥二重の瞳が、鋭く光る。
決して冷やかしで訊ねているようには見えなかった。その真剣さに、わたしもついつい口を開いてしまう。
「……近所に『ヤミーファクトリー』ができてからは、お客さんが離れていっちゃって。それまでは、あなたの言う通り、お客さんに困るほどじゃなかった」
「なるほど、競合店のせいか。あそこは経営陣が若いから、流行を取り入れた新商品をバンバン出してる。そういうのが好きな若者は、そっちに流れるだろうな」
わたしの答えを聞くと、彼は口元に手を当てて言った。
――この人、何でそんなことを知ってるんだろう?
そう疑問に思ったとき、扉のベルが鳴った。
「あー、暑い暑い。ちょっと涼みに来ましたよ――おや、先客がいるなんて珍しいこともあるものだねぇ」
店に入ってきたのは、あの蛭田さんだった。
恰幅のいい蛭田さんは、その身体をはち切れそうな黒いスーツで包んでいる。趣味の悪い紫色のシャツをはだけさせた胸元には、いかにもな金の太いネックレスが覗いていた。
「お客さんも、涼みに来たのかい。それとも……閉店セールに来たのかな?」
……相変わらず、コイツは他人を不快にさせるのが得意だな。
一歩、一歩。歩みを進めるごとに、たるみきったワガママボディがぶるぶると揺れる。
蛭田さんは男性に近づき、ギョロッとした大きな目で男性を見つめると、ニヤリといやらしく笑いかけた。
のっぺりとした平坦な顔なのに、目だけがギラギラとしているのが気持ち悪い。
サラダオイルを塗ったかのように脂ぎった肌のこの男は、いつ見ても蛙を彷彿とさせ、嫌悪感が募る。
蛭のくせに蛙だなんてどういうことだ――なんて、心の中で悪態をつく。
「閉店セール?」
男性は不思議そうに蛭田さんに訊ね返す。
「ああ。この店は今月末で畳むことになってるんだ。このありさまで、家賃を三ヶ月も滞納してるんだよ。大家としても困ったものだよねぇ」
「……本当か?」
男性の問いかけに、わたしは首を横に振って答える。
「そうならない方法を、今考えてるの」
ぼそぼそと、まるで蚊の鳴くような声で呟くのが精いっぱいだった。
でも、両親のためにも、店は畳みたくない。その希望を捨てるつもりもない。
すると、蛭田さんは気分よさそうに顔を綻ばせた。
「ということは、みやびちゃん♪ 僕の四番目の妻になる決心がついたんだね。嬉しいよ~! ご両親からその気はないようなことを聞いてたから、僕は寂しかったんだよ?」
名前を呼ばれただけで、背筋に冷たいものが走る。
どうやら蛭田さんはわたしの言葉で、自分の出した条件を呑むつもりだと解釈したらしい。
蛭田さんの傍らに立つ自分をイメージしてしまい、鳥肌が立った。
「誰が!」
冗談じゃないと、わたしは顔を背けて一蹴した。
すると、蛭田さんはニタニタと笑いながら、ねちっこい声色で訊ねてくる。
「じゃあ三ヶ月分の家賃、きっちり払える目処がついたってことだね?」
「……それは」
「払えないなら嫁に来るしかないよねぇ。店は続けたい、でも嫁には来ないなんて、そんな都合のいい話はないよ?」
「……」
蛭田さんの言葉に何も言い返すことができない。
今のわたしに、この状況を打開するようなアイデアなんてない。
でもだからといって、ヤツの要求に素直に従うなんて無理だ。
どうすればいいの……!?
「話がよく見えないが、君は今店を畳むか、店を守る代わりに彼と結婚するかの二択を迫られていると、そういうことか?」
蛭田さんとわたしの顔を交互に見比べながら、塩顔のイケメンが首を傾げた。
初対面のお客さんに、こんな情けない場面を見られてしまって、ただただ恥ずかしい。頬が熱くなるのを感じながら、この際だからもういいや、とわたしはヤケになって喚いた。
「そうよ、最悪な状況。両親が一生懸命守ってきたお店を畳みたくないし、だからってこの人と結婚するのも絶対無理、考えられない」
この人、と蛭田さんを示すと、彼は心外だとばかりにフン、と鼻を鳴らす。
「なるほど」
感情的なわたしの言葉に、冷静に耳を傾けていた塩顔のイケメン。
「――なら、どちらも選ぶ必要はない」
彼が自信ありげな口調で言い切った。
「選びたくないならどちらも選ばなければいい。この店を続ける方法は、まだある」
すると蛭田さんが、おかしそうに笑い声を立てた。
「これはおかしい。お客さんも人が悪いねぇ。変に慰めて、期待持たせちゃいけないよ。その子、本気にしちゃうから」
「本気にしてもらって構わない」
「ぁあ?」
きっぱりと切り返す彼に、蛭田さんは一転して不機嫌な表情を浮かべた。
けれど、塩顔のイケメンは蛭田さんの態度など意に介さず――というか、むしろ蛭田さんの存在自体がさほど気になっていない様子で、カウンター越しにわたしと真っ直ぐ向き合う。
「い、今の話、本当ですか? その、この店を続ける方法が、まだ他にあるって」
目の前のこのイケメンは、確かにそう言った。本気にしてもらっても構わない、とも。
彼は小さく頷くと、懐から名刺入れを取り出した。
黒いレザーのそれは柔らかな光沢を帯びていて、高価なものであるのが一目でわかる。
咄嗟に、彼の服装に目がいった。スーツやネクタイ、靴、そして腕時計に至るまで、彼が身につけているものはすべてハイブランドであることが、わたしですら感じ取れる。
――この人はきっと、平凡なサラリーマンじゃない。
名刺入れの中から一枚名刺を取り出すと、彼はそれをわたしに差し出した。
半透明の台紙にブルーの文字が映える、オシャレな名刺だ。わたしはそれをこわごわと受け取り、書かれた肩書きを呟く。
「プライムバード総研……代表取締役、蒲生、朔弥……」
えっ、代表取締役!? この人、社長さんだったの?
でも、初めて聞く社名だ。どういった業種なのかさえ、見当がつかない。
「プライムバード総研の、蒲生朔弥……? その名前、どこかで……」
ところが蛭田さんのほうは、どうやら社名と彼の名前に心当たりがあるようだった。
しばらく考えたあと、「あっ!」と思い出した様子で声をあげる。
「蒲生って、あの蒲生さん? 『サファイアタワー』に入る飲食店をテコ入れして、売り上げを三倍にしたっていう……」
信じられない、という顔で、蛭田さんは彼の顔を凝視する。
『サファイアタワー』とは、蛭田さんが夜のお店を持つ繁華街の最寄り駅にある、九階建ての飲食店ビルだ。
できたばかりのころは、料理の質の割に価格が高いという理由で、アクセスのよさにもかかわらずあまり繁盛していない様子だった。けれど、いつの間にかテナントが入れ替わったり、営業形態が変わったりして、客足を伸ばしていると聞く。
蛭田さんにとっては、自分の息がかかっている場所での出来事だから、横の繋がりで『テコ入れ』にかかわった人物の名を耳にすることもあったのだろう。
「『サファイアタワー』か、懐かしい。もう二年前になる」
建物の名前を聞いて、蒲生と呼ばれた彼は薄く笑みを浮かべた。
どうやら彼がかかわったのは間違いないらしい。
この人、もしかしてすごい人なのかも……?
「いやはや――プライムバード総研の蒲生朔弥さん。直々にお会いできるなんて、思ってもみませんでしたよ。噂はかねがね聞いていましたが、切れ者の飲食店コンサルタントがこんなにお若い方だったとは、恐れ入りますねぇ」
塩顔のイケメンの正体を知り、蛭田さんの彼に対する態度があからさまに変化した。業界の有名人に少しでも近づけたらと思っているのだろう。
平らな顔に胡散臭い薄ら笑いを浮かべながら、自分の存在をアピールするかの如くカウンターに身を乗り出した。
「でも、悪いことは言いません。あんたがあの蒲生さんなら、なおさらこんな店とはかかわらないほうがいいですな」
蛭田さんが、忠告とばかりに、首を緩く横に振る。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。