わたしはドルチェじゃありません! ~敏腕コンサルのめちゃあま計画~

ichigo/小日向江麻

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1巻

1-2

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「時間はまだあるんだから、諦めないで頑張ろう。お店を続けられる方法を、わたしも一生懸命考えてみる!」

 弱気な両親を鼓舞こぶするようにみせかけて、実は自分自身を勇気づけていたのかもしれない。
 そう。諦めたら一家心中コースだ。
 大好きな『洋菓子の若林』は、わたしの居場所で心のり所。
 なくなるなんて……そんなこと、あってはいけないんだから!
 蛭田さんのいいようになんてさせない。家族とお店は、わたしが守る。
 このときには、もう失恋のことなんて頭からすっぽ抜けていた。終わった恋愛が思考に入り込む隙なんてない。
 今のわたしは、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。とにかくどうしたら仕事や家族を失わずにすむのかを考えなきゃ。だから、クヨクヨしていても仕方がない。
 前を向く。行動する。それしかないんだ――



   2


「はぁ……」

 閑古鳥かんこどりく店内。
 そのレジのそばにある、細かな傷だらけのカウンターに突っ伏したわたしは、今日何度目なのかわからないため息を吐いた。
 蛭田さんと結婚せずに、お店を続けられる方法を考える――なんて宣言したものの、その具体的な方法を何一つ思いつけないまま、時間だけがすぎていた。
 来月も家族三人でこのお店を続けるためには、家賃をおさめなきゃいけない。
 経営不振の我が家が短期間で資金を調達できるとしたら、方法は三つ。
 一つ目、誰かから借りる。
 これは父が親戚や友人といった心当たりと再度連絡を取ってくれたけれど、全滅だった。ならば銀行から融資を受けられないかと当たってみるものの、家賃を滞納たいのうしている我が家が信用されるはずもない。そのセンはあっさり消えた。
 二つ目、店での売り上げを当てにするのではなく、別口で働いてかせぐ。
 悪くはない案だと思ったけれど、残り時間はわずかだ。この短期間で目標額までかせげるような仕事なんて、ロクなものじゃない。これも消えた。
 で、三つ目。棚ボタを狙う――具体的には、蛭田さんの気が変わるのを待つ、とか、こちらから借金を申し込んだ人が、やっぱり貸してあげるよと言ってくれるのを待つ、とか。もっといえば、無条件に救いの手を差し伸べてくれる人が現れるのを期待する、とか。神様に祈る、とか。
 ……とにかく、ひたすら、運がこちらに向いてくれるのを待つ、というものだ。

「そんなの、上手くいきっこないよなぁ~……」

 わたしは脱力しながら弱々しく呟いた。
 わかってる。そんな都合のいい展開、あるわけがない。
 あまりの情けなさで涙が出そうになる。
 つまるところ、ドン詰まり。身動きのできない状況にあるということだ。
 ……マズい。一家心中の結末が、リアルにせまってきている。
 焦れども、一向にお客さんがやってくる気配はない。
 わたしは、助けを求めるようにエントランスの扉を見つめた。
 白い木の枠にガラス窓のついた扉から、外の様子を少しだけうかがうことができる。
 駅から近いため、人通りは結構あるのに、通りかかる人のほとんどが、この店に興味を持たない。
 ――どうしてこんなことになっちゃったかなぁ。
 もう一度ため息を吐いた。落ち込んだところで解決にはならないと思いつつ、考えずにはいられない。
 わたしがまだ幼いころは、それなりに繁盛はんじょうしていたはずなのだ。お正月にバレンタイン、クリスマス。季節のイベントごとに、両親は忙しそうだったから。
 だけど、わたしが小学生になり、中学生になり、高校生になるにつれて、お客さんの出入りがどんどん減っていった。
 決して仕事の手を抜いているわけじゃない。いつ見ても両親は真面目に働いていたし、父の作るお菓子は常に最高の出来だった。
 とくに、パウンドケーキは絶品だ。味ももちろんだけど、見た目がとくに可愛らしかった。
 パウンドケーキというと、お酒にけたフルーツやナッツのたぐいを生地にまぜて焼いた、全体的に茶色っぽく素朴なお菓子のイメージ。
 だけど父が作るそれは、バニラ味とストロベリー味のマーブル生地に、ストロベリージャムで作った硬めのゼリーをハートにかたどって流し込んである。
 贈答用やおもたせに選んでもらえることが多く、オープンから現在までこの店の一番人気を守り続けている、特別な品物だ。
 わたしがこのパウンドケーキを愛するわけは、もう一つある。それは、この商品が誕生した理由にあった。
 父が初めてこの商品を作ったのは、まだお店を開く前、もっと言うと母と結婚する前のこと。シャイな父は、甘いものが大好きな母にプロポーズするとき、自分の得意なお菓子で母に気持ちを伝えることができないかと考えたらしい。
 母は部屋を訪ねてきた父からお土産みやげのケーキを受け取り、ナイフでカットする。断面の中心に大きなハート型が現れ驚く母に、父がすかさずプロポーズをしたそうだ。
 女性の好みにうとい父が、どうしてこんな可愛らしい商品を生み出すことができたのか、ずっと気になっていたのだ。しかし、そのエピソードを聞いて、なるほど、勝負をかけて作ったお菓子だったからか、と、嬉しい気持ちになった。
 だけどそれは、父の娘であるわたしだから思えることなのかもしれない。
 近隣に『ヤミーファクトリー』ができ、今の時代に合ったキャッチーで写真映えするようなスイーツが珍しくなくなって、いつの間にかこのパウンドケーキは見向きもされなくなってしまった。
 ……うちのだって、負けていないのに。
 レジ前に置いてある、小分けにカットしてラッピングされたパウンドケーキに視線を落として、さらにため息を吐いた。
 ――いけない、いけない。ため息を吐くと幸せが逃げるんだっけ。
 こんなに連発していたら、ただでさえ欠乏している幸福がまったく寄りつかなくなってしまう。
 めげてはいけないと思い顔を上げると、入り口の扉に人影が見えた。
 ……お客さん?
 チリンチリン、と扉に取りつけてあるベルが涼しい音を立てる。

「いらっしゃいま……せ」

 その音に続いてかけた声が一瞬詰まる。
 入ってきたのは、スーツを着た若い男性だ。歳はわたしと同じくらいか、少し上といったところだろうか。ぱっと見ただけでドキッとするほどのイケメンだ。こんなにかっこいい人、そうそうお目にかかれない。
 レジ横の置時計を見ると、現在の時刻は十二時すぎ。
 ランチどきであるこの時間は、皆お菓子ではなく昼食を取るため、一日の中でももっともお客さんが少ない時間帯だ。
 誰か来たとしても、近所に住む主婦がどこかへ出かけるときの土産みやげを買ってくれるくらい。男性の、しかもビジネスマンの来訪はかなり珍しい。
 わたしは改めてその男性に視線を戻した。
 ネイビーのスーツにライトブルーのシャツ、そしてライトグリーンのネクタイというよそおいが目を引く。
 この暑い時季にネクタイをきっちりとめているとは、何て生真面目な人なんだろう。
 男性はわたしにちらりと視線を送ったあと、店内をぐるりと囲むように陳列してある焼き菓子をながめた。
 パーマのかかったふわふわとしたマッシュヘアが柔和にゅうわな雰囲気なのに対し、おく二重ぶたえのキリッとした目元と高い鼻からは、シャープな印象を受ける。そのアンバランスさがみょうに魅力的で、本当に文句なしの美男子だ。俗っぽい表現だと、塩顔のイケメンってヤツか。
 こんなにカッコイイ人が店にやって来ることなんてないから、変に緊張してしまう。
 レジ付近にある冷蔵のショーケースと、それを挟むように置かれたラッピング済みの半生菓子や焼き菓子などの棚を、男性はときには中腰になって熱心に見つめている。
 横顔だと、スッと通った鼻筋が余計に強調されて、思わず比べるように自分の鼻に触れた。
 ……本当に同じ日本人? 
 全体的に顔のパーツが小さいわたしとは、全然違うつくりの顔。
 それにしてもこの塩顔イケメン、やけにじっくりと商品を見ている。
 何を買うべきか、悩んでいるんだろうか。

「何かお探しですか?」

 それならばと、わたしはカウンター越しに声をかけた。

「よろしければご案内しますが」

 高揚感からか、ついワントーン高い声が出てしまった。仕事ではあるけれど、彼に話しかけているという事実にドキドキする。

「……」

 彼はわたしの声に反応してこちらへ視線を向けたものの、返事をしなかった。

「お持ち帰りですか、それともおくり物ですか? おくり物でしたら、当店ではこちらのパウンドケーキがおすすめです」

 わたしは向かって左にある棚の最上段に並べられた、例のパウンドケーキを手で示した。
 彼の視線がパウンドケーキに向けられる。すると彼は一瞬目をみはり、「あっ」と小さく言葉を発したように感じた。それから少しの間、ケーキをじっと見つめる。気に入ってくれたのだろうか。

「カットすると、中心にハート型のゼリーが現れるようになってます。可愛いとおっしゃって下さる方も多く――」
「……パッとしない店だ」

 商品説明に入ろうとしたところで、彼が唐突にわたしに身体を向けてそれをさえぎる。

「え?」
「パッとしない店だ、って言ったんだ。店内も暗いし、まず雰囲気が古い。まぁ、店舗自体が古いのもあるんだろうけど、クロスも扉も経年劣化で見栄えが悪すぎる。お化けでも出てきそうなくらいにな」
「なっ……」

 一言目では理解できなかったけれど、ようやく真っ向から店を否定されているということに気がついた。カッとしたものが込み上げる。
 ――コイツ、何て失礼な!
 反射的に、蛭田さんのことを思い出した。

「配置も適当だし、商品も……今日、俺が何人目の客だ?」

 しかし、蛭田さんのときとは違い、男性の言い方には、嫌味な感じもなければ、責めるようなトーンもなかった。ただ純粋に、質問しているだけのようだ。
 そんなき方のせいもあってか、言われた言葉の割に、不快な気持ちにはならなかった。そのため蛭田さんのときとは違って、ついつい素直に答えてしまう。

「……ひとり目」

 すると、彼は肩をすくめた。

「だろうな。これじゃ客が来ないのもうなずける。流行はやらない店の典型だ」
「っ~~~ちょっと! いったい何なんですか?」

 いや、やっぱり腹が立つことは腹が立つ。

「失礼じゃないですか! そんな、入ったばかりで、何がわかるっていうんですか?」
「店に入って三十秒見れば、六割はわかる。残りの四割は味だが」
「ならうちのお菓子を食べてから文句言ってよ。四割は味なんでしょ、あなたの理論では」

 何を偉そうにのたまってるんだろう、この男は。少し前まで彼をイケメンだと評していた自分に腹が立つ。
 勢いのままに、わたしはレジ脇のとうのカゴからラッピングされたパウンドケーキをつかみ取り、ずいっと前方に突き出した。

「はい!」
「これを、味見していいのか?」
「ええどうぞ。うちで一番売れてる自信作なので」

 彼はわたしの手からパウンドケーキの包みを受け取ると、透明なセロファンを、花びらを一枚ずつまむように丁寧に開いた。

「いただきます」

 律儀にそう口にしたのは意外だった。初対面でズケズケと文句を言うくせに、最低限のマナーは心得ているようだ。
 彼はまず一口、長方形の角の部分をかじった。バニラビーンズのまじった白色のバニラ生地と、薄ピンク色のストロベリー味の生地がマーブル模様になっているパウンドケーキを、彼は表情を変えないまま、ゆっくりと咀嚼そしゃくして呑みこむ。
 今度はマーブル生地と、ハート型に埋め込まれた赤いゼリーの部分を一緒に口にした。そのとき、一瞬彼の鋭い瞳が大きく見開かれたように思えた。
 ――どうなんだろう。
 わたしは、彼がケーキを食べる姿を、何か大事な儀式でも見守るように見つめて、その感想を待つ。

「……美味おいしい」

 すると、彼の唇からこぼれたのは、予想に反する言葉だった。
 蛭田さんに「不味まずい」と言われたこともあり、今回も酷評されるかもと思っていたのに。
 彼は確認とばかりにもう一口ケーキをかじる。

「うん、美味おいしい。レベルの高いパウンドケーキだ。生地の口当たりや水分値もちょうどいいし、中央のパート・ド・フリュイも食感がよくて、酸味が心地いい。ケーキと一緒に食べたときのバランスも申し分ない」
「ど、どうも……」

 パート・ド・フリュイとは、中心にあるハート型のゼリー部分を表す製菓用語だ。
 食べてみてから評価しろとタンカを切ったのはいいけれど、一転してべた褒めされると、逆に強く出られなくなってしまう。わたしは面食らいつつ、たどたどしく礼を言った。
 というかこの人、パート・ド・フリュイなんてよく知ってたな。ある程度お菓子に詳しいか、興味があるんだろうか。
 スイーツと縁の薄そうな若い男性がその単語を口にするのは、違和感がある。
 いつの間にかケーキを食べ終えていた彼は、やはり「ごちそうさま」と小さく口にしてから、セロファンを手のひらで丸めた。わたしはそれを受け取り、レジ下のごみ箱に捨てる。

「ほ、めてくれたなら……さっきの言葉、撤回してくれますか?」

 あれだけ称賛してくれたなら、冒頭の評価はくつがえるはずだ。

「さっきの言葉?」
「だから、パッとしない店だとか、そういう」
「パッとしない店であることは変わらない。そこは撤回しない」

 どういうことだ。美味おいしい、レベルが高いとめちぎってくれたのに。
 理解できないわたしを尻目に、彼が話し続ける。

「ただ、客の来ない店だと言ったのは撤回する。この味なら、多少なりとも客はつくはずだ。それなのに、あまり繁盛はんじょうしている様子がないのは……何か心当たりでもあるのか?」

 こちらをうかがおく二重ぶたえの瞳が、鋭く光る。
 決して冷やかしでたずねているようには見えなかった。その真剣さに、わたしもついつい口を開いてしまう。

「……近所に『ヤミーファクトリー』ができてからは、お客さんが離れていっちゃって。それまでは、あなたの言う通り、お客さんに困るほどじゃなかった」
「なるほど、競合店のせいか。あそこは経営陣が若いから、流行を取り入れた新商品をバンバン出してる。そういうのが好きな若者は、そっちに流れるだろうな」

 わたしの答えを聞くと、彼は口元に手を当てて言った。
 ――この人、何でそんなことを知ってるんだろう?
 そう疑問に思ったとき、扉のベルがった。

「あー、暑い暑い。ちょっと涼みに来ましたよ――おや、先客がいるなんて珍しいこともあるものだねぇ」

 店に入ってきたのは、あの蛭田さんだった。
 恰幅かっぷくのいい蛭田さんは、その身体をはち切れそうな黒いスーツで包んでいる。趣味の悪い紫色のシャツをはだけさせた胸元には、いかにもな金の太いネックレスがのぞいていた。

「お客さんも、涼みに来たのかい。それとも……閉店セールに来たのかな?」

 ……相変わらず、コイツは他人を不快にさせるのが得意だな。
 一歩、一歩。歩みを進めるごとに、たるみきったワガママボディがぶるぶると揺れる。
 蛭田さんは男性に近づき、ギョロッとした大きな目で男性を見つめると、ニヤリといやらしく笑いかけた。
 のっぺりとした平坦な顔なのに、目だけがギラギラとしているのが気持ち悪い。
 サラダオイルを塗ったかのようにあぶらぎった肌のこの男は、いつ見てもかえる彷彿ほうふつとさせ、嫌悪感けんおかんつのる。
 蛭のくせにかえるだなんてどういうことだ――なんて、心の中で悪態をつく。

「閉店セール?」

 男性は不思議そうに蛭田さんにたずね返す。

「ああ。この店は今月末でたたむことになってるんだ。このありさまで、家賃を三ヶ月も滞納たいのうしてるんだよ。大家としても困ったものだよねぇ」
「……本当か?」

 男性の問いかけに、わたしは首を横に振って答える。

「そうならない方法を、今考えてるの」

 ぼそぼそと、まるでくような声で呟くのが精いっぱいだった。
 でも、両親のためにも、店はたたみたくない。その希望を捨てるつもりもない。
 すると、蛭田さんは気分よさそうに顔をほころばせた。

「ということは、みやびちゃん♪ 僕の四番目の妻になる決心がついたんだね。嬉しいよ~! ご両親からその気はないようなことを聞いてたから、僕はさびしかったんだよ?」

 名前を呼ばれただけで、背筋に冷たいものが走る。
 どうやら蛭田さんはわたしの言葉で、自分の出した条件を呑むつもりだと解釈したらしい。
 蛭田さんのかたわらに立つ自分をイメージしてしまい、鳥肌が立った。

「誰が!」

 冗談じゃないと、わたしは顔をそむけて一蹴いっしゅうした。
 すると、蛭田さんはニタニタと笑いながら、ねちっこい声色でたずねてくる。

「じゃあ三ヶ月分の家賃、きっちり払える目処めどがついたってことだね?」
「……それは」
「払えないなら嫁に来るしかないよねぇ。店は続けたい、でも嫁には来ないなんて、そんな都合のいい話はないよ?」
「……」

 蛭田さんの言葉に何も言い返すことができない。
 今のわたしに、この状況を打開するようなアイデアなんてない。
 でもだからといって、ヤツの要求に素直に従うなんて無理だ。
 どうすればいいの……!?

「話がよく見えないが、君は今店をたたむか、店を守る代わりに彼と結婚するかの二択をせまられていると、そういうことか?」

 蛭田さんとわたしの顔を交互に見比べながら、塩顔のイケメンが首をかしげた。
 初対面のお客さんに、こんな情けない場面を見られてしまって、ただただ恥ずかしい。頬が熱くなるのを感じながら、この際だからもういいや、とわたしはヤケになってわめいた。

「そうよ、最悪な状況。両親が一生懸命守ってきたお店をたたみたくないし、だからってこの人と結婚するのも絶対無理、考えられない」

 この人、と蛭田さんを示すと、彼は心外だとばかりにフン、と鼻をらす。

「なるほど」

 感情的なわたしの言葉に、冷静に耳をかたむけていた塩顔のイケメン。

「――なら、どちらも選ぶ必要はない」

 彼が自信ありげな口調で言い切った。

「選びたくないならどちらも選ばなければいい。この店を続ける方法は、まだある」

 すると蛭田さんが、おかしそうに笑い声を立てた。

「これはおかしい。お客さんも人が悪いねぇ。変になぐさめて、期待持たせちゃいけないよ。その子、本気にしちゃうから」
「本気にしてもらって構わない」
「ぁあ?」

 きっぱりと切り返す彼に、蛭田さんは一転して不機嫌な表情を浮かべた。
 けれど、塩顔のイケメンは蛭田さんの態度など意に介さず――というか、むしろ蛭田さんの存在自体がさほど気になっていない様子で、カウンター越しにわたしと真っ直ぐ向き合う。

「い、今の話、本当ですか? その、この店を続ける方法が、まだ他にあるって」

 目の前のこのイケメンは、確かにそう言った。本気にしてもらっても構わない、とも。
 彼は小さくうなずくと、ふところから名刺入れを取り出した。
 黒いレザーのそれはやわらかな光沢こうたくを帯びていて、高価なものであるのが一目でわかる。
 咄嗟とっさに、彼の服装に目がいった。スーツやネクタイ、靴、そして腕時計に至るまで、彼が身につけているものはすべてハイブランドであることが、わたしですら感じ取れる。
 ――この人はきっと、平凡なサラリーマンじゃない。
 名刺入れの中から一枚名刺を取り出すと、彼はそれをわたしに差し出した。
 半透明の台紙にブルーの文字が映える、オシャレな名刺だ。わたしはそれをこわごわと受け取り、書かれた肩書きを呟く。

「プライムバード総研……代表取締役、蒲生がもう朔弥さくや……」

 えっ、代表取締役!? この人、社長さんだったの?
 でも、初めて聞く社名だ。どういった業種なのかさえ、見当がつかない。

「プライムバード総研の、蒲生朔弥……? その名前、どこかで……」

 ところが蛭田さんのほうは、どうやら社名と彼の名前に心当たりがあるようだった。
 しばらく考えたあと、「あっ!」と思い出した様子で声をあげる。

「蒲生って、あの蒲生さん? 『サファイアタワー』に入る飲食店をテコ入れして、売り上げを三倍にしたっていう……」

 信じられない、という顔で、蛭田さんは彼の顔を凝視ぎょうしする。
『サファイアタワー』とは、蛭田さんが夜のお店を持つ繁華街の最寄り駅にある、九階建ての飲食店ビルだ。
 できたばかりのころは、料理の質の割に価格が高いという理由で、アクセスのよさにもかかわらずあまり繁盛はんじょうしていない様子だった。けれど、いつの間にかテナントが入れ替わったり、営業形態が変わったりして、客足を伸ばしていると聞く。
 蛭田さんにとっては、自分の息がかかっている場所での出来事だから、横のつながりで『テコ入れ』にかかわった人物の名を耳にすることもあったのだろう。

「『サファイアタワー』か、懐かしい。もう二年前になる」

 建物の名前を聞いて、蒲生と呼ばれた彼は薄く笑みを浮かべた。
 どうやら彼がかかわったのは間違いないらしい。
 この人、もしかしてすごい人なのかも……?

「いやはや――プライムバード総研の蒲生朔弥さん。直々にお会いできるなんて、思ってもみませんでしたよ。うわさはかねがね聞いていましたが、切れ者の飲食店コンサルタントがこんなにお若い方だったとは、恐れ入りますねぇ」

 塩顔のイケメンの正体を知り、蛭田さんの彼に対する態度があからさまに変化した。業界の有名人に少しでも近づけたらと思っているのだろう。
 平らな顔に胡散臭うさんくさい薄ら笑いを浮かべながら、自分の存在をアピールするかのごとくカウンターに身を乗り出した。

「でも、悪いことは言いません。あんたがあの蒲生さんなら、なおさらこんな店とはかかわらないほうがいいですな」

 蛭田さんが、忠告とばかりに、首をゆるく横に振る。


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