アイリスとリコリス

沖月シエル

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第1章/1-36

36 ▽呪われた子▽

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宮廷に戻る。謁見の間。宮廷で最も豪壮な作りの部屋だ。中央、階段を数段上った所にレンブルフォート皇帝のみが座ることのできる、皇帝の椅子がある。

僕は階段を上る。一段、また一段。やるべきことは全て済んだ。これで僕はとうとうレンブルフォートの皇帝になることができる。

椅子の前まで来る。椅子の肘掛けに手を触れる。

「待ってください」

突然背後から声をかけられ、振り返る。

「その椅子に触らないでくれますか」

1人の少年立っていて、真っ直ぐこちらを見ている。いつの間にいたんだろう。全く気づかなかった。僕は彼に向かって優しく微笑む。

「…君は? どこから入ってきたのかな」

「その椅子はあなたのような人間が触れていい椅子じゃない。気高く汚れ無き皇帝の系統に傷がつく」

「おやおや…いきなり何を言っているんだい、少年? ちょっと聞き捨てならないな」

少年の着ている服には見覚えがある。伝統的なレンブルフォート皇族だけが身に着けることのできるものだ。純白の生地をベースに、透明感のある青白色と鮮やかな紫色の細緻な刺繍が美しい。ルシーダがこの間まで着ていた領主用の貴族服よりもさらに品質が高い。

「君とてもいい服を着ているね。でもそれはレンブルフォート皇族だけが着るものなんだ。かっこいいから憧れるのは分かるけど、感心しないな」

「だから着ているんですよ」

「今回は見逃してあげるから、早くおままごとはやめてお父さんとお母さんのところに帰りなさい」

「ボクに両親はもういませんよ。2人とも死んでしまったので」

少年は全く表情を変えない。

「若いのに大変だね」

「それはあなたもそうでしょう」

…この少年、何か知っている。ただの子供じゃない。

「…あと、あなたはさっきボクのことを少年といいましたが、ボクは女ですよ。見た目で性別が分からないのは我々レンブルフォート皇族の血筋ですかね」

「…何だって?」

「ボクの名はユリシーズ・レイ・アイリス・レンブルフォート。前皇帝ジラードの娘です」

「…フッ。何を言い出すかと思えば。ふざけたことを」

「あなたにとっては残念ですが、本当です」

「ジラードに子供はいない」

「隠し子ですから」

「あっさり言うね」

まさか。

「…だがありえないな」

「あなたが何と感じようと勝手ですが、ボクの言っていることは全て事実です」

完全に王手だと思った。だが本当にあと一手のところで、思わぬ伏兵が出現する。僕の思惑は張り巡らされていた蜘蛛の巣にするすると絡め取られていく。

「…おもしろい。おもしろいじゃないか」

僕は上着の内ポケットからコルフィナの葉巻1本とライターを取り出す。葉巻を咥えて、火をつける。

「…ジラードにも表沙汰にできない愛人の1人2人いたというわけか。卑しいな」

「前皇帝の実の娘に対して無礼ですね。一応父の名誉にかけて言っておきますが、ジラードに愛人はいませんでしたよ。まあただ、卑しいということで言えば、ある意味愛人の子供であった方がはるかにマシだったですけどね」

「…どういうことだ?」

「ボクの母親は、オフィーリアです」

!!

「母親が違うとはいえ、実の兄妹。近親相姦ですからね。それでボクはずっと隠し子だったんですよ。それもとびっきりの。あなたが知らないのも無理はありません。いくらなんでも、そんな出生の子供を表に出すわけにいかないでしょう? 大スキャンダルですよ。皇族以前に人としての道を踏み外している。皇族ならではの事情があったのかも分かりませんが。いずれにせよ、親の事情も罪も、子供のボクにまで受け継がれるようじゃたまったもんじゃないですけどね」

煙を吸って、ゆっくり吐く。まずは落ち着こう。

「母はボクを出産した時に亡くなったそうです。まだ若くて、衰弱していた上、相当難産だったらしいですからね。ボクは生まれた時からずっと帝都の外れで、皇室の人間にも一切会わず隠れて生きていたんですよ。真実を知っているのは、周囲のごくほんの一握りの関係者だけ。アナスタシアさん、あなたは今まで、リコリス皇族の最後の生き残りとして、なにか悲劇の皇族気取りでいたのかもしれません。でもね、残酷な運命に翻弄され、ひっそりと耐え忍んで生きていた皇族は、あなただけじゃなかったってことです。危うく殺されそうになったことも何度もありましたよ、まあボクの存在を消したいのは当然でしょうからね。ボクはこの世に生まれた時から、呪われた子だったんですよ」

コルフィナを吸い終わって、残りを足元に捨てる。少し焦って吸ってしまった。全然いつものような気分の良さがない。僕は2本めの葉巻を咥える。握っていたライターで火をつけようとした時、手元がすべってライターを取り落とす。

カラン。

床の大理石に金属のライターがあたって、かわいた音をたてる。



「…どうしました? 拾わないんですか」

僕は落としたライターを見つめる。

「動揺していますか? あなたらしくないですね」

僕はライターを拾って、葉巻に火をつける。

「…ルシーダが君のことを知っていたようなそぶりはなかったけど」

「ルシーダがボクのことを知ったのは、レンブルフォートに戻って来て領主になってからですよ。最初ボクのことを知った時、ずいぶん驚いていましたけどね。ルシーダは、アナスタシアさん、あなたに裏切られそうだと分かっていたので、あらかじめ、ボクを含めた周りの人間に準備させておいたんです。自分に何かあった時は、頼む、とね」

…つまり。これは罠だったのか。

全てあのルシーダの考えた。

「バカな。裏切られると分かっていて、僕に撃たれたっていうのか?」

「そうです」

「僕に殺されたらどうする?」

「その時はボクがいるじゃないですか」



ルシーダ。



…ルシーダ!!

「あなた一杯食わされましたね。あなたルシーダに負けたんですよ。認めたらどうです? アナスタシアさん、あなたの計画は失敗です。あなたが根回ししておいた人物はすでに王国軍によって把握されています。引き続きレンブルフォートはアイリス皇族によって支配させてもらいます。したがって、その椅子に座っていいのは、今のところルシーダと、そして将来的にはボクだけなんです。少なくともあなたではなくてね。なので早く離れてもらえますか」

バタン!

急に入り口の扉が開いて、数人の武装した衛兵が入り込んでくる。彼らはユリシーズの側を横切って、部屋の奥、皇帝の椅子の近くにいた僕の周りを取り囲む。

「アナスタシアさん、あなたを反逆罪で拘束します。しばらくあなたの部屋で大人しくしていてもらいますよ。あなたの部屋、分かりますよね? あなたがさっきまで使っていた、ルシーダにもらった部屋のことじゃありませんよ。ここの地下牢です。そこがあなたの部屋です。あなたの居場所は所詮あそこしかないんですよ。まあ慣れていると思いますから、特段つらいこともないでしょう。」



もう、逃げられない。

「そうそう、ルシーダは生きていますよ。あなたがルシーダを雪山で撃ってから、ボクらは待機させておいた救助の部隊を速やかに派遣しました。到着した時にはすでに野犬に取り囲まれていたらしいですけどね…どんな気分だったでしょうね、まあ生きた心地はしなかったでしょうが…でも野犬がどうも手を出すのをためらっていたそうなんですよ。あの人いったいなんなんでしょうね? さすが正統な皇位継承者なだけのことはある、獣も怖気づいたのかも…まあ冗談はともかく、そんなくたばり方するような人じゃありませんよ」

ルシーダは死んでない。



フフ。この美しい世界はやはり。君のものだというのか。

ついさっきまで完璧な形を誇っていた僕の計画が音をたてて崩れていく。ガラスのように。

「…とどめをささなくても、殺せると思ったんだけどね」

「あの人はあなたのようなつまらない人間に殺されるような人じゃありません」

「つまらない? 僕が?」

「ええそうですよ。何度でも言います。あなたはつまらない。とてもレンブルフォート皇帝が務まるような器じゃない」

ユリシーズは僕を見下したような表情で続ける。

「確かにあなたはよくやりました。綿密な、合理的で無理のない計画。現状を正確に把握した上での可能な限りの対策。進捗具合に応じたその場その場での柔軟な判断。でもそれだけです。あなたができたのは。それ以上でもない」

「何か問題でも? 完璧じゃないか。ルシーダは違うとでも?」

「ええそうです。確かにルシーダは、頭が悪くて体も弱くて、ちょっと顔が美人なくらいで他に何も取り柄の無いような人ですけどね、でもあの人は、少なくともあなたように簡単に人を裏切ったりするような人じゃないんですよ」



熱っ。思わずコルフィナを吸っていたのを忘れていた。葉巻の火が指先まできている。もう吸えないので残りを捨てる。

「いずれルシーダはもう一度ボクらの前に姿を現すでしょう」

チェックメイトか。

「…最後にもう1本吸ってもいいかな?」

「3本めですか? やめておいた方がいいと思いますけどね。体に負担ですよ。まあいいでしょう」

僕は3本めのコルフィナの葉巻に火をつけ、煙を深く吸い込む。

…クラッ!!

突然強い眩暈がして、たまらずその場にへたり込む。

「…だから言ったでしょう」

3本続けて吸ったのは、そういえば初めてだ。少し吐き気がする。馬鹿なことをした。

「あなたにルシーダは殺せない」

ユリシーズは声色を変えず淡々と話を続ける。

「ルシーダを殺すのは、ボクですから。ボク以外ありえない」

僕は目の前の少女の顔を真っ直ぐ見る。聡く、同時に冷酷そうな光を湛えた瞳。澄んでいる。氷のように。この瞳は、この年齢では普通知ることのないような世界の醜さや残酷さを映してきた瞳だ。

「…いいだろう。君の言う通り、今回は負けを認めよう。でもこれだけは訂正する。さっき君は僕をつまらない人間だと言ったね? 本当にそうなのか、今に分からせてあげるよ。ルシーダは僕がこの手で始末する。君じゃなくてね。そして君も、僕が殺す」

ユリシーズは微笑む。

「…あなたらしいですね。待っていますよ」


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