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#27 4月26日 疲労/新年度/甘くて酸っぱい

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 桜の花びらもすっかり散りきって、視界に映る緑色が濃くなりつつある今日このごろ。

 すっかり長くなった日の名残が微かに空に残っている、いつもの駅前で。

 ぐるりと見渡してみても、まだ湊咲の姿はなかった。

 これまではほとんど湊咲が先に着いて待ってくれていた。復学して時間の配分も変わっただろうから、当然だとも思う。

 私の仕事の方も学生バイトにある程度の人手を頼っている以上、この時期は忙しくなりがちだ。

 そんな日々でそれなりに疲労していたので、ロータリーの隅にあるベンチに腰掛けて待つことにする。スマートフォンを取り出して、ロータリーの方で待っているとメッセージを送っておく。それ以上画面を見るのがなんだか億劫になって、スマートフォンを鞄に仕舞った。

 道行く人の姿をぼんやりと眺める。一般的にはまだ少し早い時間だから、仕事帰りではなさそうな人や学生の姿が目立った。それぞれ思い思いの速度で過ぎ去っていく。

 少し喉が渇いていた。けれどいつ湊咲が来るかわからない以上、この場を離れるのは憚られて。その感覚だけを認識する。

 日が落ちて冷たくなり始めた風が、どこかから食べ物の匂いを運んできた。空腹までもくすぐられる。体から不足している物がたくさんあるみたいだった。

 そんないくつかの渇望のせいか、私はずいぶんと呆けていたらしい。湊咲が近づいて来たことにも気が付かなかった。

「すみません、お待たせしました」

 声を掛けられて、どうでもいい思考で薄まっていた意識が刺激される。

「全然だいじょうぶ。暖かくなってきたし、たまには待つのも良いもんだね」

「確かに、ずいぶん暖かくなりました」

 湊咲は気持ちよさそうに伸びをして、春の空気に身を晒す。

「今日のご飯は何にしましょうね」

「そうだねぇ……」

 自分の舌が今求めている味を探す。

 買い物が始まるまでに見つかるかどうかは、運次第というところだ。

 



 本日の献立。

 きのことベーコンのソテーに春キャベツのステーキ、アスパラと卵のスープだった。食べたい食材を拾っていったらそうなっただけではあるが、食卓の色味もどことなく春らしい雰囲気に。

 つつがなく食べ終え、片付けも終えて、今日は緑茶を啜っていた。気まぐれに買ったいちご大福も添えて。

「今日はどうする、泊まってく?」

 大福を包むビニールを剥がしながら、なんの気なしに問いかける。

「すみません、明日も学校なので……今日は帰ります」

 湊咲は緑茶の水面に生きを吹きかけつつ、やや申し訳無さそうに答えた。

「ああ、それはそうか」

 復学したわけだから、彼女の生活環境は去年とは大きく違う。

 忘れていたわけではないけれど、不意に認識から外れてしまいそうになる。

「駅まで送ろうか」

 こうやって過ごした後にそのまま帰るというのはいつぶりだろうか。しばらくはもう泊まっていくまでがセットになっていた。

「大丈夫ですよ、もう迷わないくらい来てますから」

 そう言って笑って、湊咲も大福にかぶりついた。

 まぁ、今更気を使いすぎるのも違うだろう。

 そっか、とうなずいて、火傷しないよう慎重に茶を口に含む。まだ熱すぎて、味も香りもよくわからない。

 それでも口腔に残った甘さは心地よく流されていく。


 

 
 じゃあ気をつけて、と見送って、玄関の扉を閉めた。

 シャワーを浴びてその後のルーティンをこなせば、日付が変わるくらいの時間だ。

 読書の続きでもしようか、早めに眠ってしまおうか。そもそも明日の予定はどうしようか。天気はどうだったっけ。

 慌てたようにそんなことを思考に浮かべる。

 予想外の静けさをごまかそうとしているなと、頭の片隅が客観視していた。

 そういえば、湊咲の目元の隈はずいぶん目立たなくなっていたような気がする。きちんと眠れるようになったのだろうか。

 良かった、とわざとらしく言葉を思い浮かべて。その気持ちだって当然、嘘ではない。

 けれど同時に発生した寂しさと、微かに漂うような喪失感に似た何か。今この瞬間に大した重さはないけれど。

 身勝手すぎて扱いようのないそんな心境は、見なかったことにしたい。
 
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