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#26 3月30日 春/桜/暁

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 寝具の発達した現代において、春先の眠りが心地良いのは暖かいからというよりも、適度に寒いからだと思う。このほどよい寒さと湿り始めた空気が、布団の中の居心地を最大限に高めてくれる。そんな気がしてならない。

 だから今日も目を開く頃にはカーテンの隙間から明るすぎるくらいの光が漏れ込んでいるはずだった。なにせその日は休日なのだから。隣でもう一人眠っている人間がいるから、幸いなことに布団の中の保温にも困らない。

 そう思って眠りについたはずなのに、なぜか体を揺り動かされる感触に意識を引きずり起こされた。

「……なに……」

 反射的に抗議を込めたつもりの声が、辛うじて出た。無理やり覚醒させられたせいで意識はひどく濁っている。

 私を起こしたのは当然、隣で眠っていたはずの湊咲である。

「奈緒さん」

 肘を突くように身を起こして、こちらの肩に手をおいている。掛け布団に隙間ができていて、流入してきた空気が冷たい。

「散歩、行きませんか」

 そして、出し抜けにそんなことを言う。

「まだ真っ暗だけど……」

 目覚めていない喉で、掠れるように訴える。カーテンの隙間もまだ暗いまま。早朝と言えなくもないような時間ではあるかもしれないけれど。

「多分、もうすぐ明けてくるから」

 しかし湊咲は引き下がる素振りも見せずに。

「桜、見に行きましょうよ」

 そんな提案を投げかけてきた。



 

 ずいぶん暖かくなってきたと思っていたが、明け方前はさすがに空気が冷えている。

 結局、今までにないほど強い湊咲の押しに根負けし、無理やりに覚醒することになった。それから適当に服を羽織り家を出た。

 とりあえず最寄りのコンビニに立ち寄って、温かいコーヒーを買う。この時間だとパンやおにぎりの棚はほとんど空だった。昨夜もかなり食べたおかげで空腹感はなくて、よかったと思う。

 コーヒーを片手にしばらく歩いて、車の気配もない交差点。やけに眩しく感じられる信号機が誰にともなく赤色に変わる。従う理由も本当はないのかもしれないけれど、私たちは立ち止まった。申し訳程度にコーヒーを啜りながら、音もなく光が移り変わるのを待つ。

 目的地は私の家から駅とは反対方向、歩いて15分ほどの距離にある公園だった。基本的にはなんの変哲もない、小学生がよく遊んでいるんだろうなと思うくらいの、ただの公園。

 しかしやって来てみれば、結構な数の桜が植えてあった。今までこの方向に来る用事もなかったから、存在を知らなかった。

 夜桜を見に行くというなら確かにちょうど良い場所ではある。住宅街の途中にあるような公園だから、こんな時間に立ち寄る酔狂は私達しかいないみたいだけれど。

 公園の敷地に踏み込むと、湊咲は弾むような足取りで手近な桜の下へ向かった。私は特に急ぐこともなく、後からゆっくりと歩を進める。湊咲は楽しそうにあちらこちらと移動し続けていて、気に入る構図でも探しているのだろうか。

 風もない静かな夜。街灯が生んだ明暗のコントラストの狭間で、ちらちらと花びらが落ち続けている。

 私達ないし、湊咲が気まぐれを起こさなければ、誰も見ることのなかったこの瞬間の光景。

 誰かが認知していようがいまいが花は咲くんだ、と当たり前の事実を噛みしめる。満開の桜を目の前にして唐突にそんな実感が湧いた。

 そんな風に浸りつつも、ただ突っ立っているのは収まりが悪い。それにせっかくこんな時間にベッドを抜け出したのだから、いっそ夜明けを拝んでから帰りたい。そのためにも座れる場所が欲しかった。

 軽く見渡して見つけたのは一脚のベンチ。すぐ真上と正面に桜が植わっていて、傍にある外灯でほどよく花が照らされている。ぐるりと見渡してみて、それより良さそうな場所は見つからなかった。

 早速そのベンチを占拠させてもらう。湊咲はまだ歩き回っていて、時折スマートフォンで写真を撮っているようだ。

 しばらくそうしてから、彼女はこちらを向いて立ち止まった。座っている私をじっと見ている。

 この方向になにかおもしろいものがあったのか、それとも一度退いて画を提供したほうがいいのか、などと考える。

 しかし私が何らかの行動を起こすよりも早く、湊咲はなにか納得したように小さくうなずいてスマートフォンをこちらへ向けた。その動作に私が反応する前にシャッター音が聞こえる。それから歩み寄ってきた。

「……退かなくてよかった?」

 よく考えれば、我先にと特等席を確保してしまっていた。写真を撮りたかったのなら邪魔だったかもしれない。

「全然、むしろ」

 湊咲は何かを振り払うように首を横に振って。

「……来てくれてよかった」

 小さな声でそう言った。

 実際はそれなりの強引さで連れ出されたような気もするけれど。そんなに桜が見たかったのだろうか。

 それから湊咲は私の隣に座って。

「実はですね」

 出し抜けに話し始める。

 くるくると舞うように落ちてきた花びらが、目の前を横切って通り過ぎた。

「学校、復帰しようかと思って」

 静かな声だった。

 それを話すことがここに来た理由だったのかなと、勝手に推測する。

「……そっか」

 わかりやすく、新学期だ。休学してから1年となると、復学するならこのタイミングが一番いいはずだ。湊咲は当然、どうするべきかずっと考えていたのだろうし。

「こないだ、手続きも済ませてきました」

 けれど私はそんなことをほとんど意識してこなかったと、この時になって気づく。

「おめでとう、で合ってる?」

 湊咲の様子から感情はあまり感じ取れなくて、探るような言い方になる。

「どうかなぁ……合ってると、良いな」

 ポジティブもネガティブも感じない、どこか他人事のような言葉。気負いはなさそうに聞こえる。

「明けてきましたね」

 湊咲の言葉に黙ってうなずく。昼間とは違う、暗く深い青色の空。

 時間が来たのか、座っている場所のそばにあった街灯が消える。そうなってしまうと、明け始める前よりも暗い。

「昔……絵を描くのが楽しくて楽しくて仕方なかった頃は」

 桜の色まで青に染められて、霞む影のような淡さを視界に残す。

「気づいたらカーテンの外がこんな感じだったりして」

 穏やかにそう語る口調から、今もそれが湊咲にとって悪くない記憶であることは推し量れる。そのくらいには彼女とのことを知ったと思う。

「やっちゃったなーって、なんかちょっと嬉しかったりもして」

 徹夜独特の高揚感は理解できる。この歳になると、そう感じてしまう自分の幼さに自ら呆れたりすることも多いけれど。

「わざわざコーヒー淹れて、ベランダに出て、だんだん明るくなるのを見てたりとか」

 隣を覗き見ると、夜明け前の微かな光の中でも分かるほど、湊咲の口元ははっきりと微笑んでいる。

「今は、なにかしていたわけでもないですけど」

 青い空気が身悶えするように弱い風が吹く。散り落ちる花びらの軌道が流されてなびいた。襟元から入ってきた外気は明らかに冷えていて、一日のうちで一番寒いのは明け方だということを思い出す。

「この時間に起きて、外にいると……なんていうか、好きなんですよね」

 言葉選びを諦めたようにそう言って、湊咲はおかしそうに笑みを深める。

「私は……」

 何か会話を続けようとして、少しだけ澱んだ。

 思い浮かんでいる言葉はある。けれどどうも気恥ずかしいのは間違いがないもので。

 それでも言っておいたほうが良いような気がした。言わなかったら後悔してしまうんじゃないかと根拠もなく思う。だから心情的にはやや強引に、口を開く。

「全部、私達のものみたいだなって思ってる」

 手元に置いたままだったコーヒーを啜ろうとカップを持ち上げて、もう飲み干していたことに気づいた。

 観念して、続きを口にする。

「桜も、空も、時間も、寒いのも、静かなことも」

 隣に座る、湊咲の満足げな顔も。

「今この瞬間だけは、っていうか」

 青色が支配的な時間は一瞬で、そろそろ終わりだ。

 朝日の橙色がこれまでの色を押しのけて侵食していく。桜の薄紅では、到底その鮮やかさに抗えない。

「こっそり、ちょっとズルをして、みんなを出し抜いて手に入れてやったような」

 散る花びらも、枝先で咲く花も、同じ様に眩しく染まっていく。私達の存在なんかお構いなしに。

 誰も見ていない。誰も知らない。少なくとも今、一瞬のこの光景は。

 そんな誰に対するでもない淡い優越感が、光景の美しさに触発された感傷と混じる。

 変わりゆく光の中で、私たちは2人きり。

 こんな幸せな時間があるなんて、思いもしなかった。


 
 なんて、着地点を見失った思考が膨らんだりもしたけれど。

 寝不足の頭では、それを私たちの関係に相応しい言葉にできなかった。そもそもちょっと、テンション上がりすぎな気もするし。さっき湊咲も言っていたが、徹夜明けみたいなもので。

 私が無言でいると、湊咲は座ったままぐっと脚を伸ばして、また戻した。それから。

「一緒に……付き合ってくれて、ありがとうございます」

 気温よりも一足早く、ほんのりと暖まった湊咲の声。

「こちらこそ、っていつも言ってる気がするな」

 たまには応答ではなく、きちんと言っておこう。

 視線は正面に向けた。湊咲の顔を見て言うには流石に照れるし、並んで座っている今が丁度いい。

「誘ってくれて、ありがとうね」

 穏やかに咲き誇り、散り行く桜を視界に収めながら。

 湊咲と一緒にいて、見えるようになった物がたくさんある。

 雪の日に空を見上げた事も、重い荷物を持って遠回りした事も、あじさいを眺めながら迷子を案内した事も。そういう類の話だ。

 それらは身近にあったはずなのに、私は気づくこともなかった。探そうとしたこともなかった。彼女の好奇心は私と少し違うところに働いて、けれどその先にあるものは私にとっても価値がある。そういうことに触れていくうちに、見えるものが増えていくような気もして。

 お互いに、しばらく無言になる。

 それから湊咲は何も言わないまま、体ごと私に寄りかかってきた。それから肩に頭を乗せられる。数回もぞもぞと動いてから、収まりのいい場所を見つけたように止まった。

 人間一人分の重さ、そのうちのいくらかを半身で感じて。

 良い時間だな、と思う。感じているもの全てが穏やかで、ほんのりと明るくて、少しだけ浮ついている。

 時間の流れがぼやけて、いつまでもこの瞬間が続きそうな錯覚を覚える。そんなはずはないと現実ぶる思考すら、穏やかに流れてどうでもいいものになった。

 それでも、いくら緩やかであっても、時は進む。

 日は昇りきって、目の前の色彩が空色と薄紅に落ち着いた。

 絵に描いたような淡い春色。

 不意に、背後の道路を原付が走っていった。静けさへ割り込んだエンジン音はことさら大きく聞こえる。ぼんやりとしていたところに不意打ちを食らったみたいだ。

 湊咲は驚いたようにぴくりと痙攣してから、身体を離した。もしかしたら本当に寝ていたのかもしれない。

 少し離れた場所で、鳩が呑気に地面をつつきまわっている。

 さっきまで浸りきっていた自分を客観視した恥ずかしさも感じつつ。軽くなった肩に、どうしようもない名残惜しさもある。

 ただまぁ、いい加減に頃合いだろう。

「朝ご飯買って、帰ろうか」

 コンビニの棚ももう補充されているはず。当然、明け方の気温はそれなりに低かったから、関節のところどころに凝り固まるような怠さもある。

「で、ご飯食べたらもう一眠りしよう」

 二人で並ぶ布団の暖かさを思い描きながらそう言った。

 それはそれで、とても良い気分だろうから。
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