119 / 172
文禄3年正月
しおりを挟む
文禄3年。正月。
幸いにして信長は意識を取り戻し、それによって不穏な動きは沈静化した。信忠は内心複雑な心境であったが、敬愛する父が回復したことはまた喜ばしい事であった。
「殿、殿、殿…吉法師様! わああああああああああ!」
目を覚ました信長が見た光景は涙で泣き腫らした帰蝶の顔であった。
「おう、帰蝶。そなたは今日も美しいな」
「…今日だけはごまかされてあげます」
「そうか、手厳しいな。まあ、儂はそなたを置いて逝くつもりはない」
「約束…ですよ」
その光景を見守っていた信忠や秀隆はじめ近親者は、口いっぱいに砂糖水を流し込まれていたような顔をしており、とりあえず膝の上の嫁をむぎゅっとやっておいた。彼女らも目の前の光景を見てうっとりしていたようだが、なんだかウルウルしてこちらを見上げてくる。一人もの近習や小姓はまた昏い目つきをする羽目になっていた。
そして地震の爪痕を見た信長は、すぐに状況を確認し、信忠の打った手が迅速かつ的確であったことに大いに表情をほころばせる。無論領民に被害が出たり、死者が出ていることについては心を痛めている。だが、その被害を最小限に食い止めることができたと確信できるゆえの笑みであった。
「奇妙よ。そなたは儂を超える器かもしれぬな」
「その呼ばれ方も懐かしいですな」
「儂はな、生き急いだ。それゆえにとりこぼしたもの、すくいきれなんだものがたくさんある。吉乃も長生きをさせてやれなんだ」
「母上のことは…寿命です。父上のせいではありませぬ」
「うむ。だがなあ、儂は欲張りでな。こんな立派になった奇妙を見せてやれなんだ事が悔しくなってな」
「父上。母は笑って逝きました。天下は取れます。大殿のご武運は末広がりにめでとうございますと言い残して」
「そうか。儂は良い夫ではなかったかもしれぬが、吉乃が笑っていられたならば、儂が逝くときには笑って会えるだろうて」
「母の名は一度自ら変えておりますが、御存じですか?」
「ん? 吉野の桜にちなんだと聞いておる。あでやかな景色が好きじゃったの」
「もう一つ意味があります。吉法師のものであるゆえに「吉」乃であったそうですよ。母に一度謝られました。わたしは大殿のものであるゆえに、お前と大殿を選ぶこととなったら迷いなく大殿を選ぶと。ひどい母で済まないと」
その言葉を聞いた信長ははらはらと落涙した。彼女は全身全霊をもって信長を愛し抜き、生き抜いたのだ。無論愛情は感じており、愛おしくも思っていた。我が子よりも愛しているとの激しい慕情に生前は気づいてやれなかった。それゆえに信長は悔いた。
「父上、私は何よりも母の生きた証です。故に、父上に認めていただいたことは、この上もなくうれしいのです」
信長は無言で信忠を抱きしめた。衣類に焚きしめた香は吉乃が好んでいたものに似ていた。
「昔を思い出す。そなたは行儀作法の時間が終わるとこうしてしがみついてきた。母そっくりの笑顔でな」
「ええ、母上と同じくらい父上が大好きでしたから」
「儂は国が大きくなるにつれて愛想笑いしか見えんようになった。だからだ。そなたの笑顔に救われておった。裏表を考えずともよい相手というのは貴重なものよ」
「弟たちは皆そうです。三七も茶筅も、良き弟です。小牧で、岐阜で、一緒に過ごした日々が私の原点です」
「そうじゃの。そなたらがいがみ合っては儂は死んでも死に切れぬ」
「そうですか、ならばたまには兄弟喧嘩など致しましょうか。そうすれば父上は我らのそばにいてくださるゆえ」
「冗談が過ぎるぞ、奇妙」
「ははは、戯れが過ぎました。ですが、私の、いや、我らが本音にもござる」
「なにがあった?」
「弟たちを担ぎ上げようとする動きがありました。正直父上がお目覚めにならなければ、兵を出す事態になっていた可能性があります」
「伊勢の北畠の残党か」
「ほかにも関東や東北、九州で豪族の蠢動があったようです。家康殿は全く動きませんでしたが」
「ふむ」
「中央を固めはしましたが地震で被害も受けております」
「いっそあぶりだすか?」
「父上?」
「儂が死んだこととすればそ奴らをあぶりだすことができよう」
「ですが…」
「儂の名に傷がつくか? そんなものはどうでもよい。その傷を埋めて余りある働きを見せよ!」
「はっ!」
「うむ、では秀隆を呼べ」
「はい!」
信長、信忠、秀隆の謀議は夜遅くまで続いた。使者が伊勢に飛び、そのあと、全国に知らせが広まってゆく。
すなわち、信長死すと。
幸いにして信長は意識を取り戻し、それによって不穏な動きは沈静化した。信忠は内心複雑な心境であったが、敬愛する父が回復したことはまた喜ばしい事であった。
「殿、殿、殿…吉法師様! わああああああああああ!」
目を覚ました信長が見た光景は涙で泣き腫らした帰蝶の顔であった。
「おう、帰蝶。そなたは今日も美しいな」
「…今日だけはごまかされてあげます」
「そうか、手厳しいな。まあ、儂はそなたを置いて逝くつもりはない」
「約束…ですよ」
その光景を見守っていた信忠や秀隆はじめ近親者は、口いっぱいに砂糖水を流し込まれていたような顔をしており、とりあえず膝の上の嫁をむぎゅっとやっておいた。彼女らも目の前の光景を見てうっとりしていたようだが、なんだかウルウルしてこちらを見上げてくる。一人もの近習や小姓はまた昏い目つきをする羽目になっていた。
そして地震の爪痕を見た信長は、すぐに状況を確認し、信忠の打った手が迅速かつ的確であったことに大いに表情をほころばせる。無論領民に被害が出たり、死者が出ていることについては心を痛めている。だが、その被害を最小限に食い止めることができたと確信できるゆえの笑みであった。
「奇妙よ。そなたは儂を超える器かもしれぬな」
「その呼ばれ方も懐かしいですな」
「儂はな、生き急いだ。それゆえにとりこぼしたもの、すくいきれなんだものがたくさんある。吉乃も長生きをさせてやれなんだ」
「母上のことは…寿命です。父上のせいではありませぬ」
「うむ。だがなあ、儂は欲張りでな。こんな立派になった奇妙を見せてやれなんだ事が悔しくなってな」
「父上。母は笑って逝きました。天下は取れます。大殿のご武運は末広がりにめでとうございますと言い残して」
「そうか。儂は良い夫ではなかったかもしれぬが、吉乃が笑っていられたならば、儂が逝くときには笑って会えるだろうて」
「母の名は一度自ら変えておりますが、御存じですか?」
「ん? 吉野の桜にちなんだと聞いておる。あでやかな景色が好きじゃったの」
「もう一つ意味があります。吉法師のものであるゆえに「吉」乃であったそうですよ。母に一度謝られました。わたしは大殿のものであるゆえに、お前と大殿を選ぶこととなったら迷いなく大殿を選ぶと。ひどい母で済まないと」
その言葉を聞いた信長ははらはらと落涙した。彼女は全身全霊をもって信長を愛し抜き、生き抜いたのだ。無論愛情は感じており、愛おしくも思っていた。我が子よりも愛しているとの激しい慕情に生前は気づいてやれなかった。それゆえに信長は悔いた。
「父上、私は何よりも母の生きた証です。故に、父上に認めていただいたことは、この上もなくうれしいのです」
信長は無言で信忠を抱きしめた。衣類に焚きしめた香は吉乃が好んでいたものに似ていた。
「昔を思い出す。そなたは行儀作法の時間が終わるとこうしてしがみついてきた。母そっくりの笑顔でな」
「ええ、母上と同じくらい父上が大好きでしたから」
「儂は国が大きくなるにつれて愛想笑いしか見えんようになった。だからだ。そなたの笑顔に救われておった。裏表を考えずともよい相手というのは貴重なものよ」
「弟たちは皆そうです。三七も茶筅も、良き弟です。小牧で、岐阜で、一緒に過ごした日々が私の原点です」
「そうじゃの。そなたらがいがみ合っては儂は死んでも死に切れぬ」
「そうですか、ならばたまには兄弟喧嘩など致しましょうか。そうすれば父上は我らのそばにいてくださるゆえ」
「冗談が過ぎるぞ、奇妙」
「ははは、戯れが過ぎました。ですが、私の、いや、我らが本音にもござる」
「なにがあった?」
「弟たちを担ぎ上げようとする動きがありました。正直父上がお目覚めにならなければ、兵を出す事態になっていた可能性があります」
「伊勢の北畠の残党か」
「ほかにも関東や東北、九州で豪族の蠢動があったようです。家康殿は全く動きませんでしたが」
「ふむ」
「中央を固めはしましたが地震で被害も受けております」
「いっそあぶりだすか?」
「父上?」
「儂が死んだこととすればそ奴らをあぶりだすことができよう」
「ですが…」
「儂の名に傷がつくか? そんなものはどうでもよい。その傷を埋めて余りある働きを見せよ!」
「はっ!」
「うむ、では秀隆を呼べ」
「はい!」
信長、信忠、秀隆の謀議は夜遅くまで続いた。使者が伊勢に飛び、そのあと、全国に知らせが広まってゆく。
すなわち、信長死すと。
12
あなたにおすすめの小説
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺の伯爵家大掃除
satomi
ファンタジー
伯爵夫人が亡くなり、後妻が連れ子を連れて伯爵家に来た。俺、コーは連れ子も可愛い弟として受け入れていた。しかし、伯爵が亡くなると後妻が大きい顔をするようになった。さらに俺も虐げられるようになったし、可愛がっていた連れ子すら大きな顔をするようになった。
弟は本当に俺と血がつながっているのだろうか?など、学園で同学年にいらっしゃる殿下に相談してみると…
というお話です。
ありふれた聖女のざまぁ
雨野千潤
ファンタジー
突然勇者パーティを追い出された聖女アイリス。
異世界から送られた特別な愛し子聖女の方がふさわしいとのことですが…
「…あの、もう魔王は討伐し終わったんですが」
「何を言う。王都に帰還して陛下に報告するまでが魔王討伐だ」
※設定はゆるめです。細かいことは気にしないでください。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ネグレクトされていた四歳の末娘は、前世の経理知識で実家の横領を見抜き追放されました。これからはもふもふ聖獣と美食巡りの旅に出ます。
☆ほしい
ファンタジー
アークライト子爵家の四歳の末娘リリアは、家族から存在しないものとして扱われていた。食事は厨房の残飯、衣服は兄姉のお下がりを更に継ぎ接ぎしたもの。冷たい床で眠る日々の中、彼女は高熱を出したことをきっかけに前世の記憶を取り戻す。
前世の彼女は、ブラック企業で過労死した経理担当のOLだった。
ある日、父の書斎に忍び込んだリリアは、ずさんな管理の家計簿を発見する。前世の知識でそれを読み解くと、父による悪質な横領と、家の財産がすでに破綻寸前であることが判明した。
「この家は、もうすぐ潰れます」
家族会議の場で、リリアはたった四歳とは思えぬ明瞭な口調で破産の事実を突きつける。激昂した父に「疫病神め!」と罵られ家を追い出されたリリアだったが、それは彼女の望むところだった。
手切れ金代わりの銅貨数枚を握りしめ、自由を手に入れたリリア。これからは誰にも縛られず、前世で夢見た美味しいものをたくさん食べる生活を目指す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる