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秀隆と信康
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相模国、小田原城。
相模はほぼ即座にといってよい勢いで小田原以外の城が開城された。氏直のもとでそれなりに治まっていたので、それも当然と言えようか。いくら小田原城が無双の居城と言えど、大海の中に浮かぶ木の葉のごとき状況となっている。それを知らぬは、城主のみであった。
「殿、兵糧がありませぬ」
「どういうことじゃ?」
「関東浪人衆が加わりました。兵力は急速に増えております。それと奴らは好き放題に飲み食いをしておりまして…」
「なぜそんなことになる!?」
「殿が前祝じゃと。せっかく駆けつけてくれた勇士を持てなせとご指示を」
「そんなこと儂言ったか?」
酒に酔って覚えていなかったようであるが、周囲の側近たちは皆一様にうなずいた。
兵糧の残りがあとひと月足らずと聞いて氏政の顔から見る見る血の気が引いてゆく。周囲の家臣たちはもはやため息を隠そうともしなかった。
「さて、そろそろあの阿呆も青ざめておるころかのう?」
小田原包囲軍の大将である信康がつぶやく。
「そうですな。城門を見張る兵に警戒を」
参謀役の石川数正が進言する。
「付け城の兵を厚くせよ。大手は大久保兄弟に、搦手は榊原小平太に任す」
「はっ!」
「伊賀衆は警戒を強化せよ。夜襲もありうる」
「御意!」
「兄者、儂に先陣を命じてくだされ!」
「秀康、少し落ち着け。内部に入っておる伊賀者から報告があるはずじゃ」
「はっ!いやあ、腕が鳴りますな」
「そなたの武勇は良く知っておるが、はやるな。平常通りに戦うのじゃ」
「はい!」
覇気にあふれた弟をみて信康は笑みをこぼす。五徳姫との間には男子は生まれなかった。そして側室は自らの意思で設けていない。一族から婿を取るか、弟に継がせることになるだろう。といっても信康自身未だ後継ぎの事を考えるような年ではないが、戦陣に立つ身としては、何があるかわからぬという考えもある。自身が生まれた1年後には、だれも思いもよらない戦があった。桶狭間である。
小さいころから桶狭間合戦のさまを聞き、のちに義叔父である秀隆にねだって何度もかの戦いの話を聞いた。今川軍は敗れるべくして敗れたわけではない。義元公の進軍や手配りは理にかなっていた。兵を休めるに山上に配し、周囲を警戒させている。周囲に自軍を配置し、後詰めの手配りもさせていた。
秀隆の話は幼い信康に衝撃を与えた。戦の帰趨を決めるのは間者であるとの言葉である。信康は静かに秀隆との会話を思い出す。それは彼の戦人としての根幹をなしていた。
「秀隆様。桶狭間では如何にして勝利を得たのでございましょうか?」
「うん、そうだな。信康殿は戦に勝つに、何が重要だと思う?」
「強き武者を揃えることではないでしょうか?」
「そうだな、それも大事なことじゃ」
「それも…? もっと大事なことがあるということですか?」
「おお、察しがよい。さすが三河殿の嫡子よ」
「はい、ありがとうございます。して、よろしければご教授いただけますでしょうか?」
幼い信康のかしこまった言葉遣いに秀隆は笑みを浮かべる。
「そうだな、戦に勝つには、まずこれをやっておけば負けない手立てがある」
「はい!」
「まず敵より多くの兵を揃えること。そしてその兵に十分に飯を食わすこと」
「はい…?」
信康は意表を突かれた。孫子の軍略とか、秘策とかそういったことを言われると思っていた。だが秀隆の言うことは誰に聞いても当たり前と思えるものであった。
「今川義元公はそこのあたり、非常にまっとうな戦略を取っておられた。織田の数倍の兵を動員し、きっちりと武具を揃え、兵糧もきっちり準備されていた。今だから言うがね、長期戦になったら兵の少ないこっちが負けてたかもしれん。それくらい織田は窮乏していたのさ」
「なんと…」
「だからまともにやってはこっちは滅びる。となると、理の外で戦うしかない。奇襲だ」
「はい!」
信康が身を乗り出す。それでも足が崩れていないあたりしつけがよい。
「信康殿は奇襲とは何だと思う?」
「ええと…伏せ奸とかでしょうか?」
「うむ、ではその伏兵はなぜに効果がある?」
「うーん、いきなり現れるから…?」
「そうだな、たとえば信康殿が敵兵と斬りあっているとしようか。そこにいきなり後ろから斬りかかられたら…?」
「戦います!」
「うん、信康殿ならそう答えるだろう。けどね、軍を成す大部分は雑兵だ。命がけで戦おうとか、手柄を立てるために戦おうなんて言うのはごく一部で、彼らは旗色が悪いとみれば逃げる。それこそ今言ったように挟み撃ちにあったなんてことになったらね」
「そういうものですか…」
「そうだ。だから大将たるものは、まずそこに気を配らないといけない」
「はい!」
「そして軍を動かすに当たって最も重要なものは…」
「はい」
「間者だ」
「えっ!?」
「孫子も言っているぞ? 一度読んでみなさい」
「そうなのですか!?」
「武田の旌旗は風林火山だが、あれも孫子の教えだ。常勝武田を支える軍法でもある」
「はい!」
「まず軍を動かす、たとえばだが、この岡崎から尾張まで兵を動かすとしよう。経路は桶狭間を経由し、鳴海経由で…」
「義元公の使った経路ですか?」
「そう。そして進路の先に敵がいたら戦いになる。そしていきなり襲われたら大軍であっても負けるかもしれない」
「…なるほど!」
「少しわかったか。目をつぶっていては勝てないだろう? むしろ必ず負ける」
「はい!」
「で、あの折だが…まず今川の物見を一人残らず排除した」
「え?!」
「あの時味方にいた野伏せりや忍者衆をかき集めてね。まあ、それで義元公はさすがにおかしいと思って足を止める。そういう場合は見晴らしの良い場所にいくだろう?」
「そうですね」
「あの辺りで一番小高い丘がおけはざま山だ。兄上にはそこを目指してもらった。うまい具合に梅雨時だったから雨が兄上の手勢を隠してくれた。非常に幸運だったわけだね。逆に今川勢は驚いただろう。気づいたら足元が包囲されている。味方の陣は突破されたのか、寝返ったのか、まったくわからない」
「なるほど」
「で、そこに強襲を仕掛けた。陣立ても何もない、めいめい凌ぎの乱戦だ。ただ小勢に分散してあちこちから攻め立てたおかげで、うまく突破ができた。この指揮は兄上しかできないな、私には無理だ」
「はい!」
「まあ、即座に撤退を決断した義元公は見事だった。だがそれも思う壺でね。山を追い落とされた義元公の旗本に、私の手勢で奇襲をかけて足止めする。とどめは兄上の旗本の毛利新介殿が義元公の首を取った」
「なんと…」
「どうだ? 間者の重要性が分かっただろう?」
「耳目を塞がれ立ち止まったところに兵を伏せ、逃げ道も塞がれている…」
「まあ、結果としてって部分もある。だけどね、城に籠っているだけだったらこの結果には絶対にならなかった」
「はい」
「孤立無援の籠城には破滅しかない。打って出て敵を破る必要がある。だがそもそもだ、あまりに力が違う敵とは戦ってはならない」
「では、なぜあの時義元公と戦ったのですか?」
「そんなの決まっている。兄上が戦うと言われたからだ」
「え…?」
「大将が勝ちを信じ、戦う意思を見せている。となれば何とかして勝ち目を見つけるのが私の役目だ。まあ桶狭間周辺を含めて、義元公が通りそうな場所の地形と、街道を綿密に調べていたけどね。それで策を提案した。そしてそれでいくと決断された。決断したら後はわき目も振らない。もっといい手があるのではないか、何か見落としていないか、そういうことを考えるのはまあ、部下の仕事だ。大将は決断したらあとはひたすら前に進むのさ。兄上はそうして天下を目指している」
「天下ですか…」
「信康殿は三河一国で満足か?」
「い、いえ」
「まあ、場合によっては織田と徳川で決戦ということもあるかもしれないな」
秀隆の笑みを含んだ言葉に信康も顔をほころばせるが、この時に決心した。絶対のこの人は敵に回すまいと。おそらく父も同じことを思い、それゆえにこの場を設けたのだと。
「いえ、徳川は織田を決して裏切りませぬ」
「そうだな、そうあってほしいものだ。俺は三河殿と戦って勝てる気がしないのだ」
「いえ、そんなお世辞は…」
「今川家の軍法を学び、そしてさらに桶狭間で織田の戦いを学んでいるはずだ。俺はあの方が味方で本当に良かったと思っておるよ」
父を素直に賞賛され、信康は歓喜をにじませた。そして父も同じようなことを秀隆に対して思っているのだろうと。
回想を終えると周囲がざわついている。門の内側に兵が集結しているとの知らせだ。本陣から増援を回すことを指示し、小高い丘の上、本陣より城の動きを注視するのだった。
相模はほぼ即座にといってよい勢いで小田原以外の城が開城された。氏直のもとでそれなりに治まっていたので、それも当然と言えようか。いくら小田原城が無双の居城と言えど、大海の中に浮かぶ木の葉のごとき状況となっている。それを知らぬは、城主のみであった。
「殿、兵糧がありませぬ」
「どういうことじゃ?」
「関東浪人衆が加わりました。兵力は急速に増えております。それと奴らは好き放題に飲み食いをしておりまして…」
「なぜそんなことになる!?」
「殿が前祝じゃと。せっかく駆けつけてくれた勇士を持てなせとご指示を」
「そんなこと儂言ったか?」
酒に酔って覚えていなかったようであるが、周囲の側近たちは皆一様にうなずいた。
兵糧の残りがあとひと月足らずと聞いて氏政の顔から見る見る血の気が引いてゆく。周囲の家臣たちはもはやため息を隠そうともしなかった。
「さて、そろそろあの阿呆も青ざめておるころかのう?」
小田原包囲軍の大将である信康がつぶやく。
「そうですな。城門を見張る兵に警戒を」
参謀役の石川数正が進言する。
「付け城の兵を厚くせよ。大手は大久保兄弟に、搦手は榊原小平太に任す」
「はっ!」
「伊賀衆は警戒を強化せよ。夜襲もありうる」
「御意!」
「兄者、儂に先陣を命じてくだされ!」
「秀康、少し落ち着け。内部に入っておる伊賀者から報告があるはずじゃ」
「はっ!いやあ、腕が鳴りますな」
「そなたの武勇は良く知っておるが、はやるな。平常通りに戦うのじゃ」
「はい!」
覇気にあふれた弟をみて信康は笑みをこぼす。五徳姫との間には男子は生まれなかった。そして側室は自らの意思で設けていない。一族から婿を取るか、弟に継がせることになるだろう。といっても信康自身未だ後継ぎの事を考えるような年ではないが、戦陣に立つ身としては、何があるかわからぬという考えもある。自身が生まれた1年後には、だれも思いもよらない戦があった。桶狭間である。
小さいころから桶狭間合戦のさまを聞き、のちに義叔父である秀隆にねだって何度もかの戦いの話を聞いた。今川軍は敗れるべくして敗れたわけではない。義元公の進軍や手配りは理にかなっていた。兵を休めるに山上に配し、周囲を警戒させている。周囲に自軍を配置し、後詰めの手配りもさせていた。
秀隆の話は幼い信康に衝撃を与えた。戦の帰趨を決めるのは間者であるとの言葉である。信康は静かに秀隆との会話を思い出す。それは彼の戦人としての根幹をなしていた。
「秀隆様。桶狭間では如何にして勝利を得たのでございましょうか?」
「うん、そうだな。信康殿は戦に勝つに、何が重要だと思う?」
「強き武者を揃えることではないでしょうか?」
「そうだな、それも大事なことじゃ」
「それも…? もっと大事なことがあるということですか?」
「おお、察しがよい。さすが三河殿の嫡子よ」
「はい、ありがとうございます。して、よろしければご教授いただけますでしょうか?」
幼い信康のかしこまった言葉遣いに秀隆は笑みを浮かべる。
「そうだな、戦に勝つには、まずこれをやっておけば負けない手立てがある」
「はい!」
「まず敵より多くの兵を揃えること。そしてその兵に十分に飯を食わすこと」
「はい…?」
信康は意表を突かれた。孫子の軍略とか、秘策とかそういったことを言われると思っていた。だが秀隆の言うことは誰に聞いても当たり前と思えるものであった。
「今川義元公はそこのあたり、非常にまっとうな戦略を取っておられた。織田の数倍の兵を動員し、きっちりと武具を揃え、兵糧もきっちり準備されていた。今だから言うがね、長期戦になったら兵の少ないこっちが負けてたかもしれん。それくらい織田は窮乏していたのさ」
「なんと…」
「だからまともにやってはこっちは滅びる。となると、理の外で戦うしかない。奇襲だ」
「はい!」
信康が身を乗り出す。それでも足が崩れていないあたりしつけがよい。
「信康殿は奇襲とは何だと思う?」
「ええと…伏せ奸とかでしょうか?」
「うむ、ではその伏兵はなぜに効果がある?」
「うーん、いきなり現れるから…?」
「そうだな、たとえば信康殿が敵兵と斬りあっているとしようか。そこにいきなり後ろから斬りかかられたら…?」
「戦います!」
「うん、信康殿ならそう答えるだろう。けどね、軍を成す大部分は雑兵だ。命がけで戦おうとか、手柄を立てるために戦おうなんて言うのはごく一部で、彼らは旗色が悪いとみれば逃げる。それこそ今言ったように挟み撃ちにあったなんてことになったらね」
「そういうものですか…」
「そうだ。だから大将たるものは、まずそこに気を配らないといけない」
「はい!」
「そして軍を動かすに当たって最も重要なものは…」
「はい」
「間者だ」
「えっ!?」
「孫子も言っているぞ? 一度読んでみなさい」
「そうなのですか!?」
「武田の旌旗は風林火山だが、あれも孫子の教えだ。常勝武田を支える軍法でもある」
「はい!」
「まず軍を動かす、たとえばだが、この岡崎から尾張まで兵を動かすとしよう。経路は桶狭間を経由し、鳴海経由で…」
「義元公の使った経路ですか?」
「そう。そして進路の先に敵がいたら戦いになる。そしていきなり襲われたら大軍であっても負けるかもしれない」
「…なるほど!」
「少しわかったか。目をつぶっていては勝てないだろう? むしろ必ず負ける」
「はい!」
「で、あの折だが…まず今川の物見を一人残らず排除した」
「え?!」
「あの時味方にいた野伏せりや忍者衆をかき集めてね。まあ、それで義元公はさすがにおかしいと思って足を止める。そういう場合は見晴らしの良い場所にいくだろう?」
「そうですね」
「あの辺りで一番小高い丘がおけはざま山だ。兄上にはそこを目指してもらった。うまい具合に梅雨時だったから雨が兄上の手勢を隠してくれた。非常に幸運だったわけだね。逆に今川勢は驚いただろう。気づいたら足元が包囲されている。味方の陣は突破されたのか、寝返ったのか、まったくわからない」
「なるほど」
「で、そこに強襲を仕掛けた。陣立ても何もない、めいめい凌ぎの乱戦だ。ただ小勢に分散してあちこちから攻め立てたおかげで、うまく突破ができた。この指揮は兄上しかできないな、私には無理だ」
「はい!」
「まあ、即座に撤退を決断した義元公は見事だった。だがそれも思う壺でね。山を追い落とされた義元公の旗本に、私の手勢で奇襲をかけて足止めする。とどめは兄上の旗本の毛利新介殿が義元公の首を取った」
「なんと…」
「どうだ? 間者の重要性が分かっただろう?」
「耳目を塞がれ立ち止まったところに兵を伏せ、逃げ道も塞がれている…」
「まあ、結果としてって部分もある。だけどね、城に籠っているだけだったらこの結果には絶対にならなかった」
「はい」
「孤立無援の籠城には破滅しかない。打って出て敵を破る必要がある。だがそもそもだ、あまりに力が違う敵とは戦ってはならない」
「では、なぜあの時義元公と戦ったのですか?」
「そんなの決まっている。兄上が戦うと言われたからだ」
「え…?」
「大将が勝ちを信じ、戦う意思を見せている。となれば何とかして勝ち目を見つけるのが私の役目だ。まあ桶狭間周辺を含めて、義元公が通りそうな場所の地形と、街道を綿密に調べていたけどね。それで策を提案した。そしてそれでいくと決断された。決断したら後はわき目も振らない。もっといい手があるのではないか、何か見落としていないか、そういうことを考えるのはまあ、部下の仕事だ。大将は決断したらあとはひたすら前に進むのさ。兄上はそうして天下を目指している」
「天下ですか…」
「信康殿は三河一国で満足か?」
「い、いえ」
「まあ、場合によっては織田と徳川で決戦ということもあるかもしれないな」
秀隆の笑みを含んだ言葉に信康も顔をほころばせるが、この時に決心した。絶対のこの人は敵に回すまいと。おそらく父も同じことを思い、それゆえにこの場を設けたのだと。
「いえ、徳川は織田を決して裏切りませぬ」
「そうだな、そうあってほしいものだ。俺は三河殿と戦って勝てる気がしないのだ」
「いえ、そんなお世辞は…」
「今川家の軍法を学び、そしてさらに桶狭間で織田の戦いを学んでいるはずだ。俺はあの方が味方で本当に良かったと思っておるよ」
父を素直に賞賛され、信康は歓喜をにじませた。そして父も同じようなことを秀隆に対して思っているのだろうと。
回想を終えると周囲がざわついている。門の内側に兵が集結しているとの知らせだ。本陣から増援を回すことを指示し、小高い丘の上、本陣より城の動きを注視するのだった。
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