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貞光さんと磯貝くんの場合。
貞光さんとキッカケ。
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十一月がそろそろ終わる頃。貞光はインフルエンザの予防接種のため、第二キャンパスへと来ていた。第一キャンパスで受けることができればよかったのだが、自身の都合が良い時間を予約できなかったのだ。
移動よりも短い時間で用事が終わり、建物の外に出る。人の姿が疎らなのを見て、磯貝は今授業中だろうかとぼんやり思いながら、駐輪場へと歩を進めていた。
建物の間の狭い通路を歩いていると、前から一人の女性が向かってくるのが見えたため、できるだけ端の方を通ろうとして。
「──ねえ、ちょっと」
すれ違う瞬間に、呼び止められた。
「あなた……貞光よね? なんで、こんなところにいるの?」
「え……と?」
まるで、自分のことを知っているかのように話す彼女に、貞光は戸惑いを隠せない。
彼女の正体にピンと来ていない貞光に対し、その女性は芝居がかかったようなため息を漏らす。
「私よ、松永。中学の美術部で一緒だったでしょう」
松永──美術部の顧問だった恩師の娘で、部長で、未だに身構えてしまう、相手。
化粧のせいで分からなかったが、目の前にいるのはたしかに彼女だった。
何かを感じ取られる前に深呼吸して、冷静さを取り戻す。あの頃から、自分は変わった。大丈夫、大丈夫──。
「──そうだ、あんたに訊きたかったことがあったんだった」
松永が、何かに挑むような、睨み付けるような目でこちらを向いた。
「教育学部一年の、磯貝颯一郎。知ってるよね?」
「あ、ああ。知っている。あいつが、どうかしたか?」
「──付き合ってるの?」
「……ん?」
冗談を言っているのかと、思った。
しかし、松永はこの手の冗談を言わないタイプの人間だったはずだ。現に、彼女の視線に、ふざけているような様子はない。
「あいつは、ただの友人で──いや、なんで付き合っているとかそんなことになったんだ?」
彼女は、おそらく大きな誤解をしている。そう判断した貞光が慌てて否定し、反対に質問してみると、松永は周囲を一度見回してから、口を開いた。
「恥ずかしい話、フラれたの。あいつに」
松永が磯貝に出会ったのは、第二キャンパスで行われた新入生歓迎会でのことだった。スタッフとして参加していた彼女は、一目で彼のことを気に入った──らしい。この会では、学生生活の困り事を相談できるようにと新入生との連絡先交換が普通に行われていたため、彼女が磯貝の連絡先を手に入れるのは容易かった。
初めの頃は、食堂の利用方法や講義室の場所など、些細な質問がよく来ていた。しかし、そもそも二人は学部が異なっているため講義についての相談はできず、結果チャットのやり取りが頻繁にできたのは一ヶ月ほどだった。
それだけで満足できる松永ではなく。彼の行動パターンを調べ、偶然を装って直接会い、そのときに告白した。「考えさせてほしい」と言われたが、彼女はそれでもよかった。アプローチし続けてさえいれば、いつかは受けてくれると思っていた。
季節は次々と変わり、そろそろ保留にされていた返事が聞ける頃だろうと楽しみにしていた、あの日。磯貝に、呼び出されて。
「『好きな人ができたから、付き合えない』って返事だった」
苦々しく、奥歯で磨り潰すように、彼女はそう言った。
「──許せなかった。一体、何処の女がって、気になった。……でも、いつ見ても女の気配はなくって。代わりにいたのが、あんただった」
「──いや、でも俺はただの友人で」
「あの日。夕方頃から急に雨が降ってきた日、あったでしょう? あの日の彼の表情、見てなかったの?」
否定を繰り返す貞光に、松永は鋭く言った。
あの日。貞光が、傘を持っていない磯貝を迎えに行った、あの日。
右肩だけ濡れていた彼と、ほとんど濡れていない、自分。
「あんたって、あの頃から変わってないよね」
歯ぎしりの音が、ここまで聞こえる。
「望めば何でも買ってもらえる環境にいて、平凡でも愛してくれる家族がいて、才能を認めてくれる大人がいて……そんなに恵まれているのに、どうして私の欲しいものを奪っていくの? どうして、自分は不幸だみたいな顔をしているの?」
「……たしかに、俺は恵まれていたのだろうな」
激昂する松永に対し、貞光は冷静さを何とか保ちながら、続ける。
「今まで、それが普通だと思っていたところは、あったかもしれない。当然のように、環境を受け入れていた部分も、あったと思う。……その態度が、松永を不快にさせていたのなら、すまなかった」
あの頃は、何も言えなかった。だから、あの時の謝罪の気持ちも、一緒に。
しかし、彼の言葉は、彼女の怒りに油を注いだようなものだった。
「──そういうところ! なんで、言い返そうとしないの!」
まるで、子供の癇癪のように、彼女は滅茶苦茶に喚きだした。
「やっぱり、私はあんたが大嫌い! なんであんたみたいなのがお父さんに認められるの! なんで選ばれるのはあんたなの! あんたなんか、生ま」
グッと、誰かが腕を掴んで、引っ張った。
貞光の身体はバランスを崩し、いつの間にか後方に立っていた誰かの胸に、抱き留められる。
見上げると、冷たい目をした磯貝がいた。
「ち、ちが……わた、しは」
先程までの威勢は、何処へ消えてしまったのか。磯貝に気付いた途端、松永は誤魔化すように口を動かすが、上手く言葉が出てこないようだ。代わりに、磯貝が不機嫌そうな調子で、言う。
「松永先輩。この人のことを知ったような口を利かないで。……あなたは全然、この人のことをわかっていない」
「あ、あんただって、私のこと理解してないでしょ? 私が、どんな気持ちで今まで生きてきたか……」
「うん、わからない。他人だからね」
それは、拒絶の表れだった。
彼女は何かを言おうと口を開きかけたが、ジワリと湧いて出た涙と供に、何も言わずに走っていった。
「その、そろそろ腕、解放してくれないか?」
「え? あ、ああ、ごめん」
密着していた身体が、離れていく。
姿勢を正すと、磯貝と目線があった。今は、普段通りの暖かい目で、貞光は少し安心した。
「ありがとう、助けてくれて。……でも、さっきのは、言い過ぎだと思う」
「──やっぱり、優しいね。貞光さんは」
「そうか?」
貞光の疑問符に、磯貝は微笑みで返す。
その表情に、松永の言葉がフラッシュバックする。
『あの日の彼の表情、見てなかったの?』
彼は、どこまで会話を知っているのだろうか。
「──どうして、ここに来てくれたんだ?」
「近くを歩いていたら、怒鳴っているような声とあなたの声が聞こえたから。その、咄嗟に?」
「そう、か」
──なら、あの会話は聞いていない。
「もしかして、俺が止める前にもっと酷いこと言われたりした?」
「いや、全然言われていない」
「本当?」
「本当」
松永が言っていたことは、一旦忘れよう。
今は、この大切な友人と、少しでも長く一緒にいたいと思った。
移動よりも短い時間で用事が終わり、建物の外に出る。人の姿が疎らなのを見て、磯貝は今授業中だろうかとぼんやり思いながら、駐輪場へと歩を進めていた。
建物の間の狭い通路を歩いていると、前から一人の女性が向かってくるのが見えたため、できるだけ端の方を通ろうとして。
「──ねえ、ちょっと」
すれ違う瞬間に、呼び止められた。
「あなた……貞光よね? なんで、こんなところにいるの?」
「え……と?」
まるで、自分のことを知っているかのように話す彼女に、貞光は戸惑いを隠せない。
彼女の正体にピンと来ていない貞光に対し、その女性は芝居がかかったようなため息を漏らす。
「私よ、松永。中学の美術部で一緒だったでしょう」
松永──美術部の顧問だった恩師の娘で、部長で、未だに身構えてしまう、相手。
化粧のせいで分からなかったが、目の前にいるのはたしかに彼女だった。
何かを感じ取られる前に深呼吸して、冷静さを取り戻す。あの頃から、自分は変わった。大丈夫、大丈夫──。
「──そうだ、あんたに訊きたかったことがあったんだった」
松永が、何かに挑むような、睨み付けるような目でこちらを向いた。
「教育学部一年の、磯貝颯一郎。知ってるよね?」
「あ、ああ。知っている。あいつが、どうかしたか?」
「──付き合ってるの?」
「……ん?」
冗談を言っているのかと、思った。
しかし、松永はこの手の冗談を言わないタイプの人間だったはずだ。現に、彼女の視線に、ふざけているような様子はない。
「あいつは、ただの友人で──いや、なんで付き合っているとかそんなことになったんだ?」
彼女は、おそらく大きな誤解をしている。そう判断した貞光が慌てて否定し、反対に質問してみると、松永は周囲を一度見回してから、口を開いた。
「恥ずかしい話、フラれたの。あいつに」
松永が磯貝に出会ったのは、第二キャンパスで行われた新入生歓迎会でのことだった。スタッフとして参加していた彼女は、一目で彼のことを気に入った──らしい。この会では、学生生活の困り事を相談できるようにと新入生との連絡先交換が普通に行われていたため、彼女が磯貝の連絡先を手に入れるのは容易かった。
初めの頃は、食堂の利用方法や講義室の場所など、些細な質問がよく来ていた。しかし、そもそも二人は学部が異なっているため講義についての相談はできず、結果チャットのやり取りが頻繁にできたのは一ヶ月ほどだった。
それだけで満足できる松永ではなく。彼の行動パターンを調べ、偶然を装って直接会い、そのときに告白した。「考えさせてほしい」と言われたが、彼女はそれでもよかった。アプローチし続けてさえいれば、いつかは受けてくれると思っていた。
季節は次々と変わり、そろそろ保留にされていた返事が聞ける頃だろうと楽しみにしていた、あの日。磯貝に、呼び出されて。
「『好きな人ができたから、付き合えない』って返事だった」
苦々しく、奥歯で磨り潰すように、彼女はそう言った。
「──許せなかった。一体、何処の女がって、気になった。……でも、いつ見ても女の気配はなくって。代わりにいたのが、あんただった」
「──いや、でも俺はただの友人で」
「あの日。夕方頃から急に雨が降ってきた日、あったでしょう? あの日の彼の表情、見てなかったの?」
否定を繰り返す貞光に、松永は鋭く言った。
あの日。貞光が、傘を持っていない磯貝を迎えに行った、あの日。
右肩だけ濡れていた彼と、ほとんど濡れていない、自分。
「あんたって、あの頃から変わってないよね」
歯ぎしりの音が、ここまで聞こえる。
「望めば何でも買ってもらえる環境にいて、平凡でも愛してくれる家族がいて、才能を認めてくれる大人がいて……そんなに恵まれているのに、どうして私の欲しいものを奪っていくの? どうして、自分は不幸だみたいな顔をしているの?」
「……たしかに、俺は恵まれていたのだろうな」
激昂する松永に対し、貞光は冷静さを何とか保ちながら、続ける。
「今まで、それが普通だと思っていたところは、あったかもしれない。当然のように、環境を受け入れていた部分も、あったと思う。……その態度が、松永を不快にさせていたのなら、すまなかった」
あの頃は、何も言えなかった。だから、あの時の謝罪の気持ちも、一緒に。
しかし、彼の言葉は、彼女の怒りに油を注いだようなものだった。
「──そういうところ! なんで、言い返そうとしないの!」
まるで、子供の癇癪のように、彼女は滅茶苦茶に喚きだした。
「やっぱり、私はあんたが大嫌い! なんであんたみたいなのがお父さんに認められるの! なんで選ばれるのはあんたなの! あんたなんか、生ま」
グッと、誰かが腕を掴んで、引っ張った。
貞光の身体はバランスを崩し、いつの間にか後方に立っていた誰かの胸に、抱き留められる。
見上げると、冷たい目をした磯貝がいた。
「ち、ちが……わた、しは」
先程までの威勢は、何処へ消えてしまったのか。磯貝に気付いた途端、松永は誤魔化すように口を動かすが、上手く言葉が出てこないようだ。代わりに、磯貝が不機嫌そうな調子で、言う。
「松永先輩。この人のことを知ったような口を利かないで。……あなたは全然、この人のことをわかっていない」
「あ、あんただって、私のこと理解してないでしょ? 私が、どんな気持ちで今まで生きてきたか……」
「うん、わからない。他人だからね」
それは、拒絶の表れだった。
彼女は何かを言おうと口を開きかけたが、ジワリと湧いて出た涙と供に、何も言わずに走っていった。
「その、そろそろ腕、解放してくれないか?」
「え? あ、ああ、ごめん」
密着していた身体が、離れていく。
姿勢を正すと、磯貝と目線があった。今は、普段通りの暖かい目で、貞光は少し安心した。
「ありがとう、助けてくれて。……でも、さっきのは、言い過ぎだと思う」
「──やっぱり、優しいね。貞光さんは」
「そうか?」
貞光の疑問符に、磯貝は微笑みで返す。
その表情に、松永の言葉がフラッシュバックする。
『あの日の彼の表情、見てなかったの?』
彼は、どこまで会話を知っているのだろうか。
「──どうして、ここに来てくれたんだ?」
「近くを歩いていたら、怒鳴っているような声とあなたの声が聞こえたから。その、咄嗟に?」
「そう、か」
──なら、あの会話は聞いていない。
「もしかして、俺が止める前にもっと酷いこと言われたりした?」
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