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1巻
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私がディアナ様とお茶をした翌日、新たな令嬢が後宮入りを果たした。
辺境の地を治めている男爵家の娘――エマーシェル・ブランシュ様。
彼女は後宮に入ってから、まずはディアナ様と私に挨拶の手紙を出したようだ。
面会を申し込む手紙が届いたその日、私は特に用事もなかったのですぐに返事をした。
しばらくして、部屋の扉をノックする音が聞こえてくる。侍女が扉を開けると、可愛らしい令嬢が入ってきた。
「お初にお目にかかります、レナ・ミリアム様。私はエマーシェル・ブランシュと申します」
そう言って、エマーシェル様は礼儀正しく頭を下げた。彼女は、地味な服を着た侍女を二人連れている。
エマーシェル様は背が低くて、可憐な女性だ。だが、所作がややぎこちなく、こういうことに慣れていないのが見て取れた。
濃い茶色の綺麗な髪を肩まで伸ばしており、目の色は髪よりも薄い茶色だ。可愛いけれど、あまり目立たないタイプだと思う。
「はじめまして、エマーシェル様。そちらにお座りくださいませ」
私は彼女に笑いかける。社交界に出ている時と同じ、貴族としての笑顔だ。
「失礼いたします」
エマーシェル様はそう言って、向かいの席に座った。
私の侍女たちが、お菓子と飲み物をテーブルの上に置いていく。
実家から連れてきた侍女のうちの二人には、また情報収集に出てもらっている。だから、いまこの場にいる侍女は五人。お茶の用意をしていない侍女たちは、私の後ろに控えていた。
「まぁ、おいしいですわ」
エマーシェル様はお茶を口に含んで、可憐な笑みを見せる。
それは、貴族が社交界で浮かべるような、作った笑みでは決してなかった。心のままに笑っている。そんな感じだ。
「これはなんというハーブティーですの?」
「カモミールティーですわ。私の領地で生産されているカモミールを使ったもので……」
私は顔に笑みを貼りつけたまま説明する。彼女が何気なく質問してきたことは、貴族であるなら知っておかなければならないことだった。出されたものを味わい、それがなにかを言い当てるだけでも、相手に博識だという印象を与える。
けれどエマーシェル様は、そういうことを知らないように見えた。
「そうなんですの。おいしいですね」
エマーシェル様は微笑んでいる。素直なところは好感が持てるけれども、後宮でそんな風に振る舞っていては、すぐにいじめの的になってしまう。
後宮は女の園であり、陰険ないじめがよく起きる。気に食わない相手を後宮から排除しようと精神的に追いつめるのだ。下位の貴族の妃は特に、なにか起こすとすぐ目を付けられる。
過去には心を病んでしまった妃もいて、そういう場合は自ら願い出て後宮を去ることができる。
「気に入っていただけてよかったわ」
もしここが後宮でなければ、『人前で隙を見せてはいけませんわ』といった忠告ぐらいはしたかもしれない。けれど、私にはここでやるべきことがあるので、そういうことは口にしなかった。
他愛のない話をした後、エマーシェル様は帰っていった。退室する時に、彼女がなにもないところでつまずいているのを見て、ここで生きていけるのだろうかとますます心配になった。
そんな風に、後宮入りしてからの三日間はあっという間に過ぎていった。
そして私はこの場所で、自分がやるべきこと――愛しい陛下の力になり、陛下が望む妃を正妃にするという目的のために、本格的に行動を開始するのであった。
第二章
エマーシェル様と面会した次の日、私は自分の部屋で手紙を書いていた。今日は伯爵令嬢主催のお茶会がある。そのお茶会の前に、お兄様に手紙を書いておこうと考えたのだ。
後宮で得た情報のうち、家のためになるものは伝えておくべきだ。だからお兄様宛てではあるが、家族全員に読んでもらうことを前提に書いている。私の家族は貴族として、それらの情報をきちんと活用してくれるだろう。
私は家族を信頼しているし、家族も私をミリアム侯爵家の一員として認めてくれている。だから私は様々な貴族の裏事情も知らされていた。
私は自分が侯爵令嬢レナ・ミリアムであることを……貴族であることを誇りに思っている。
女性に対して『俺が守るから、君はなにも知らなくていい』と言う男性も中にはいるだろう。そう言われることに憧れる女性もいるはずだ。でも、私はそうではない。一人前の貴族として信頼され、家族として支え合えるほうがいい。
できればあの方を支えて、あの方と一緒に歩んでいける妻になりたい。陛下に恋心を抱いた当初はそう思っていた。だが、いまは違う。
私は侯爵令嬢だから、政治的なメリットのために正妃に選ばれることはあるかもしれない。けれど私は、陛下には愛する人と結ばれてほしいと思うから、そういう形で妻になるのは避けたい。
それに、妻にならなくても陛下のためにできることは沢山ある。とりあえず、いまの私にできることは、この手紙を書くことだ。
家のために書いていると言ったけど、一番はあの方のために書いている。
私の家族は、私が陛下を愛してやまないことを知っているから、この情報を上手く使って、あの方のためになることをしてくれるだろう。
「これを女官長に渡してきてくれるかしら」
手紙を書き終えた私は、侍女にそう告げた。
後宮へ届く手紙も、後宮から送られる手紙も、全て中身を確認される。だから私の手紙には一工夫してあって、家族の様子を尋ねる普通の手紙にしか見えないようになっている。けれど実際は、後宮の内情が事細かに記されているのだ。
それは、私と家族と、幼い頃から共に育ってきた侍女たち以外には読み取れない。なぜなら、私と侍女たちで生み出した『ミリアム式暗号』で書かれているからだ。私が八歳の頃に、侍女たちと暗号があったほうが便利だという話になって作ったものである。
「レナ様、お茶会の準備をしましょう」
侍女の一人が女官長のもとへ向かった後、カアラが私にそう言った。
私はその言葉を聞いて、壁の時計に目をやる。手紙を書くのに思いのほか時間がかかってしまったようで、お茶会の時間が迫っていた。
「そうね、もうそろそろ準備をしなければならないわ」
侮られないように身なりを整えなくてはならない。そこに少しでも付け入られる隙があれば、面倒なことになる。
侍女たちが私の髪に櫛を通す。お母様譲りの金色の髪は私の自慢だ。
そうして侍女たちにされるがまま、身なりを整えてもらう。
「レナ様、お綺麗ですわ」
「ええ。レナ様は誰よりも可愛らしいですわ」
「頑張ってください。レナ様」
「誰よりもレナ様が美しいですわ」
実家から連れてきた侍女たちが、嬉しそうに微笑みながら口々に言う。そんな四人についていけないのか、新しい侍女たちはぽかんとしていた。四人とも、私を過剰なほど褒めるから、他の人が聞いたら驚いて当然だ。
「じゃあ行きましょう」
私はその四人の侍女を連れて部屋から出た。向かう先は後宮の庭園だ。
色とりどりの花が咲く庭園には丸テーブルが置かれ、お茶の用意が整っていた。テーブルを囲うように数人の妃が座っている。その中で、ひときわ派手な妃がこちらを見て言った。
「ようこそおいでくださいました」
彼女は赤茶色の髪を腰まで伸ばしており、黄色い瞳からは、どこかキツイ印象を受けた。胸元の開いた赤いドレスが、大きな胸を強調している。
正直、その胸の大きさを羨ましく思った。小さいのが悪いとは言わないが、殿方には大きな胸を好む方が多いと聞いている。
髪から爪先まで美しく仕上げているその女性こそ、今回のお茶会の主催者であるベッカ・ドラニア様だ。
ドラニア伯爵家の次女で、正妃の座を狙って諍いを起こしている伯爵令嬢のうちの一人である。
もう一人の伯爵令嬢であるリアンカ・ルーメン様がその隣に座っている。
彼女たちは、本気で正妃の座を狙っているようだ。他の妃が少しでも陛下に近づこうとすると、あの手この手で嫌がらせしているらしい。気に入らない妃へのいじめも激しいそうで、後宮で起きている騒動のほとんどが彼女たちによるものだという。
このお茶会で彼女たちを牽制して、少しでもそういう嫌がらせがなくなるようにしたい。
「レナ様、どうぞおかけになってください」
ベッカ様に促されて、私は席に着く。チェリたちは私の後ろに静かに控えた。
ベッカ様は侍女を十数人侍らせていて、不敵に微笑んでいた。この場にそれだけの数の侍女を連れてきているということは、ベッカ様付きの侍女は二十人以上いるのかもしれない。
使用人の数で権威を示すのはよくあることだけれど、私はあまり好きではない。
座っている妃たちの中には、エマーシェル様もいた。落ち着かない様子で視線をさまよわせていて、大丈夫かしらと不安になる。
ディアナ様はいなかった。おそらく、ベッカ様があえて呼ばなかったのだろう。よって、この場でもっとも権力があるのは、侯爵家の娘である私だ。ベッカ様もそれをわかっているのか、いまのところ私をないがしろにする気はないようだ。
そんなことを思っていると、リアンカ様が話しかけてきた。
「レナ様の領地ではハーブティーが有名ですわよね? 私もよく飲んでいますの」
リアンカ様は、この国では一般的な栗色の髪と瞳をしていた。背は私よりも高くて、スレンダーな体形であることがよくわかる、大人っぽい紫色のドレスを着ている。
「まぁ、そうなのですか」
そんな風に当たり障りのない言葉を交わす。ベッカ様とリアンカ様は新しく後宮に入った私を警戒しているようで、その目に敵意を潜めたまま微笑んでいた。
私たちの話に入ってくるような妃はいない。侯爵令嬢と伯爵令嬢たちの会話を、下手に邪魔したくないのだろう。
「ハーブティーといえば、ブライネット領の祭事でしか買えないものが有名ですわよね。私はいただいたことがあるのですけど、レナ様は?」
そう言って、リアンカ様が笑う。彼女は目を細めて、試すようにこちらを見ていた。
リアンカ様が私に恥をかかせようとしていることには、すぐに気づいた。これは、私を無知だと笑うための罠だ。
「ええ、ありますわ。『ブライアン』のことでしょう? あの独特な苦みが癖になりますわよね。祭事には一度しか行ったことがありませんが、『ブライアン』はお土産に何度かいただきましたの」
リアンカ様の言葉に、私は間を置かずに答えた。
ブライネット領は、私の実家が治めるミリアム領と同様に、ハーブの生産地として有名である。そしてブライネット領の祭事では、領内で生産したハーブのみを使った、『ブライアン』というハーブティーが売られるのだ。
こういったことを知らないと付け込まれる隙になるし、馬鹿にされる材料にもなる。
だから、こういう時は嘘をついてでも知っているふりをするべきなのだ。もちろん、正しい知識を持っているのが一番いい。
私が答えた内容は全て真実だ。
陛下の役に立とうと沢山勉強したから、私は様々な知識を身につけている。特に詳しいのは、もちろん我が国についてだけど、近隣諸国の事情にも通じている。
各地の特産物や流行りの食べ物は、必ず手に入れて試すようにしていた。
そして食べた感想を忘れないように、きっちりメモしてあった。珍しいものは、いくらお金をかけてもなかなか手に入らないことがある。だから、手に入れた時にはその機会を無駄にしないよう、自分で書いた味の特徴や感想を、何度も読んで暗記するのだ。
さて、あちらから恥をかかせようと仕掛けてきたのだから、こちらからも反撃しよう。後宮で騒動を起こして陛下の手を煩わせている彼女には、私も思うところがある。
「リアンカ様は祭事にお詳しいんですの?」
微笑みながらそう尋ねる。
「ええ、少しは……」
「まぁ。それなら、隣国のバークア国の建国祭のこともご存知ですか?」
ふふっと笑って口にすると、自信満々だったリアンカ様が一瞬だけ顔を引きつらせた。隣に座るベッカ様も少しだけ表情を変える。
しかし一拍も置かずに、リアンカ様が笑みを浮かべて答えた。
「ええ、もちろんですわ」
「あの舞は美しいですわよね? 中央で踊る『舞姫』には感動しますわ」
「ええ、あんな美しい女性になりたいものですわ」
「あら? 『舞姫』は男性の神官から選ばれるのですわよ?」
不思議そうな表情を作って言うと、リアンカ様がしまったという顔をした。
バークア国の建国祭では、神託によって選ばれた神官が舞をする。踊り手には男も女もいるが、中央で神聖な舞を踊る『舞姫』だけは絶対に男性なのだ。一度、お兄様と一緒に見に行ったが、男性とは思えないくらい綺麗だった。
悔しそうに唇を噛むリアンカ様を、ベッカ様が馬鹿にしたような目で見ている。いい気味だとでも思っているのだろう。
でも、甘い。次はベッカ様の番だ。
「話は変わりますけれど、ベッカ様、いまルサンド領の『アーノア』をつけていらっしゃるのかしら。いい匂いだわ」
「ええ、わかるのですか?」
漂ってくる香水の匂いから銘柄を特定すると、ベッカ様はあっさり認めた。さて、ここから仕掛けていこう。
「少量しか作られていなくてなかなか入手できないという話ですのに、手に入れていらっしゃるなんて驚きましたわ」
「香水には特にこだわっておりますのよ。気になった香水があれば、すぐに取り寄せるようにしていますわ」
ベッカ様が得意げに言った。
「私も香水が好きなんですの。色々お話ししたいですわ」
「是非!」
ベッカ様は香水について詳しいという自負があるようで、余裕の笑みを浮かべていた。だが、私が次に発した言葉で、少し表情が変化する。
「最近市場に出回り始めたものだと、アッシリカ領の『ミズノア』が素晴らしいですわね」
「……ええ」
ベッカ様の表情がくもった。
「原料になる花も綺麗ですわよね」
「ええ、素敵な薔薇だと思いますわ」
「あら? 『ミズノア』の原料は睡蓮ですわよ?」
アッシリカ領の特産物が薔薇だから当たりを付けたのだろうが、間違いだ。正しくは睡蓮である。
「ご存知なかったんですの?」
そう言ってにっこり笑いかける。
リアンカ様もベッカ様も、これくらいの話に上手く合わせられなければ、正妃など務まりませんわよ?
そんな風に思いながら、その後も二人が投げかけてくる質問に軽く答えていた。
すると突然、ガチャンという音がその場に響いた。
音のしたほうを見ると、エマーシェル様がカップを落としたようだった。地面に落ちたそれは、見るも無残に割れている。あんなに粉々になるなんて、どんな落とし方をしたのだろうか。
お茶会においてカップを落とすのは、ある意味致命的なミスだ。場の雰囲気を壊すだけでなく、最低限のマナーも身につけていないと見下されてしまう。
私は幼い頃に貴族の令嬢として、お茶会での振る舞い方をきっちり習った。ベッカ様やリアンカ様だって、そういう面は完璧だ。
けれどエマーシェル様は、そういうことに不慣れなようだった。
エマーシェル様の顔は驚くほどに真っ青だ。カップの破片を拾おうとしたが、すぐに手を引っ込め、ただおろおろしていた。
そんな風にしていては、いじめの格好の的である。
「ちょっと、貴方!」
ベッカ様の怒った声を聞きながら、私は誰にも気づかれないように小さくため息をつく。
エマーシェル様はびくっと肩を震わせ、おそるおそるベッカ様のほうを見た。
エマーシェル様の近くに座っていた妃たちが、青ざめた顔で彼女から距離を取る。中にはエマーシェル様を心配そうに見る妃もいたが、誰も言葉を発しようとはしなかった。
自分よりも身分の高い者に睨まれるということは、貴族の間では社会的な死を意味する。
「あの、申し訳ございません……」
真っ青な顔のまま、エマーシェル様はベッカ様に言った。
「私の用意したカップを割るなんて……っ。それがいくらするかご存知なのかしら?」
ベッカ様は不機嫌そうにエマーシェル様を睨みつける。
まぁ、こうなるのは当たり前だ。
お茶会の主催者は、開催場所や時間、食器から飲食物まで全ての準備を取り仕切る。
今回は伯爵令嬢であるベッカ様が主催のお茶会だから、用意されたものもその地位に相応しい高価なものばかりだ。下手に安価なものを使えば、『これしか用意できないのか』と侮られてしまう。
そして主催者は、『お茶会を成功させること』をもっとも大切にしている。自分の主催したお茶会が失敗に終われば、それも侮られる原因になるからだ。
つまり、成功するはずだったお茶会の空気を悪くしたエマーシェル様を、ベッカ様がよく思わないのは当然なのだ。
怒ったベッカ様に睨まれて、エマーシェル様は視線をさまよわせている。
「ええと、その……」
「言い訳はいりませんわ。そのカップは弁償していただきます。貴方は確か、ブランシュ男爵家の娘ですわよね? まともにお茶会もできない娘を後宮に入れなければならないだなんて、ブランシュ男爵もおかわいそうに」
ベッカ様が馬鹿にしたように笑っている。それに対してエマーシェル様は、青ざめるばかりだった。
男爵家の領内でなら、多少隙を見せてもいいかもしれない。けれど、ここは後宮だ。どんな小さな隙が命取りになるかわからない。
エマーシェル様は後宮のような場所には向いていないのだろう。私の部屋から出ていく時にもつまずいていたし、貴族の令嬢として不用心すぎる。
ただ、貴族としてではなく一人の少女として見れば、エマーシェル様のことは嫌いではない。表情豊かで愛らしいし、ここが後宮でなければ好感が持てるのだけれど……
「弁償だなんて……私の家にお金は……」
「まぁ! 自分で割っておいて、そんな言い訳をするんですの? これだから貧乏人は……」
体を震わせて青ざめるエマーシェル様を、ベッカ様はなおも責め立てた。
さて、そろそろこの状況をどうにかすべきだろう。下位の妃が相手だからといって、好き勝手されるのは見たくない。
そう思って、私はちらりとエマーシェル様を見る。そして後ろにいたチェリにある指示を出し、笑いながら二人の会話に入った。
「ベッカ様。このくらいのことでお怒りになるなんて、心が狭いと思われますわよ?」
これは、ベッカ様の注意をこちらに向けるための言葉だ。
目論見通り、ベッカ様はエマーシェル様を責めるのをやめてこちらを見た。その目には、馬鹿にされたことへの怒りが見え隠れしている。
「なっ……、私は別に――」
「ベッカ様がその程度のカップ一つで逆上なさるなんて、思いもしませんでしたわ。割れたカップの代金も惜しむほど、貴方のお家は困窮していらっしゃるのかしら?」
わざとくすくす笑いながら、私は告げる。
挑発するのが目的だから、このくらい嫌味ったらしいほうがいい。
「そんなわけないでしょう! この程度の物、お父様に頼めば買い直すのは簡単よ」
「あら、それならそんなに逆上なさる必要はないでしょう? エマーシェル様のようなこうした場に慣れていらっしゃらない方に本気で怒るなんて、貴方の品性を疑われますわよ?」
わざわざこんな言い方をするのは、ベッカ様がしているのは品位を落とす行為であると強調するためだ。自分の評判が落ちることを、彼女は望まないだろう。
「後宮には、普段社交界にあまり関わらない方々も集められていますわ。その中にはマナーに慣れていない方もいるでしょう。そんな方々を相手にいちいちお怒りになっていたら、子供のすることに目くじらを立てる大人のようでみっともないですわよ」
こんな風に馬鹿にされるのは、ベッカ様にとって屈辱のはずだ。こうすることによって、ベッカ様の怒りを私に向けさせる。
後宮で問題が起これば、陛下の迷惑になる。実際、後宮では過去に何度か暗殺事件が起きているのだ。そんなことになれば、あの方がどれほど大変な思いをなさることか。
そういう事態を防ぐために、標的が私一人になるよう仕向けることにした。
全ての妃を守ることは難しくても、私にだけ敵意が向くようにすれば、嫌がらせだろうと暗殺だろうと対処できる。私と私の侍女たちなら、どうにかできる。
それに、悪意によって人がつぶれるのを見るのは嫌だ。そういうのは、見ていて気分が悪い。
だから、ベッカ様たちに侮られる気はないけれど、エマーシェル様を見捨てる気もない。
私はとどめとばかりに嫌味を言う。
「それに、ベッカ様もリアンカ様も、先ほど知ったかぶりをなさったでしょう? それも恥ずかしいことですわ。エマーシェル様に礼儀を説く前に、もう一度きちんと勉強されてはいかがですの?」
私はまた、馬鹿にしたようにくすくすと笑う。
伯爵令嬢の二人は顔を真っ赤にして、怒った目で私を見ている。これで、ベッカ様もリアンカ様も私を『一番気に食わない相手』だと認識したはずだ。
その後すぐにお茶会はお開きになった。表面上は和やかに終わったが、去り際の二人の目には、私への敵意がにじんでいた。私はそんな彼女たちに、わざと嫌味ったらしく微笑んだ。
辺境の地を治めている男爵家の娘――エマーシェル・ブランシュ様。
彼女は後宮に入ってから、まずはディアナ様と私に挨拶の手紙を出したようだ。
面会を申し込む手紙が届いたその日、私は特に用事もなかったのですぐに返事をした。
しばらくして、部屋の扉をノックする音が聞こえてくる。侍女が扉を開けると、可愛らしい令嬢が入ってきた。
「お初にお目にかかります、レナ・ミリアム様。私はエマーシェル・ブランシュと申します」
そう言って、エマーシェル様は礼儀正しく頭を下げた。彼女は、地味な服を着た侍女を二人連れている。
エマーシェル様は背が低くて、可憐な女性だ。だが、所作がややぎこちなく、こういうことに慣れていないのが見て取れた。
濃い茶色の綺麗な髪を肩まで伸ばしており、目の色は髪よりも薄い茶色だ。可愛いけれど、あまり目立たないタイプだと思う。
「はじめまして、エマーシェル様。そちらにお座りくださいませ」
私は彼女に笑いかける。社交界に出ている時と同じ、貴族としての笑顔だ。
「失礼いたします」
エマーシェル様はそう言って、向かいの席に座った。
私の侍女たちが、お菓子と飲み物をテーブルの上に置いていく。
実家から連れてきた侍女のうちの二人には、また情報収集に出てもらっている。だから、いまこの場にいる侍女は五人。お茶の用意をしていない侍女たちは、私の後ろに控えていた。
「まぁ、おいしいですわ」
エマーシェル様はお茶を口に含んで、可憐な笑みを見せる。
それは、貴族が社交界で浮かべるような、作った笑みでは決してなかった。心のままに笑っている。そんな感じだ。
「これはなんというハーブティーですの?」
「カモミールティーですわ。私の領地で生産されているカモミールを使ったもので……」
私は顔に笑みを貼りつけたまま説明する。彼女が何気なく質問してきたことは、貴族であるなら知っておかなければならないことだった。出されたものを味わい、それがなにかを言い当てるだけでも、相手に博識だという印象を与える。
けれどエマーシェル様は、そういうことを知らないように見えた。
「そうなんですの。おいしいですね」
エマーシェル様は微笑んでいる。素直なところは好感が持てるけれども、後宮でそんな風に振る舞っていては、すぐにいじめの的になってしまう。
後宮は女の園であり、陰険ないじめがよく起きる。気に食わない相手を後宮から排除しようと精神的に追いつめるのだ。下位の貴族の妃は特に、なにか起こすとすぐ目を付けられる。
過去には心を病んでしまった妃もいて、そういう場合は自ら願い出て後宮を去ることができる。
「気に入っていただけてよかったわ」
もしここが後宮でなければ、『人前で隙を見せてはいけませんわ』といった忠告ぐらいはしたかもしれない。けれど、私にはここでやるべきことがあるので、そういうことは口にしなかった。
他愛のない話をした後、エマーシェル様は帰っていった。退室する時に、彼女がなにもないところでつまずいているのを見て、ここで生きていけるのだろうかとますます心配になった。
そんな風に、後宮入りしてからの三日間はあっという間に過ぎていった。
そして私はこの場所で、自分がやるべきこと――愛しい陛下の力になり、陛下が望む妃を正妃にするという目的のために、本格的に行動を開始するのであった。
第二章
エマーシェル様と面会した次の日、私は自分の部屋で手紙を書いていた。今日は伯爵令嬢主催のお茶会がある。そのお茶会の前に、お兄様に手紙を書いておこうと考えたのだ。
後宮で得た情報のうち、家のためになるものは伝えておくべきだ。だからお兄様宛てではあるが、家族全員に読んでもらうことを前提に書いている。私の家族は貴族として、それらの情報をきちんと活用してくれるだろう。
私は家族を信頼しているし、家族も私をミリアム侯爵家の一員として認めてくれている。だから私は様々な貴族の裏事情も知らされていた。
私は自分が侯爵令嬢レナ・ミリアムであることを……貴族であることを誇りに思っている。
女性に対して『俺が守るから、君はなにも知らなくていい』と言う男性も中にはいるだろう。そう言われることに憧れる女性もいるはずだ。でも、私はそうではない。一人前の貴族として信頼され、家族として支え合えるほうがいい。
できればあの方を支えて、あの方と一緒に歩んでいける妻になりたい。陛下に恋心を抱いた当初はそう思っていた。だが、いまは違う。
私は侯爵令嬢だから、政治的なメリットのために正妃に選ばれることはあるかもしれない。けれど私は、陛下には愛する人と結ばれてほしいと思うから、そういう形で妻になるのは避けたい。
それに、妻にならなくても陛下のためにできることは沢山ある。とりあえず、いまの私にできることは、この手紙を書くことだ。
家のために書いていると言ったけど、一番はあの方のために書いている。
私の家族は、私が陛下を愛してやまないことを知っているから、この情報を上手く使って、あの方のためになることをしてくれるだろう。
「これを女官長に渡してきてくれるかしら」
手紙を書き終えた私は、侍女にそう告げた。
後宮へ届く手紙も、後宮から送られる手紙も、全て中身を確認される。だから私の手紙には一工夫してあって、家族の様子を尋ねる普通の手紙にしか見えないようになっている。けれど実際は、後宮の内情が事細かに記されているのだ。
それは、私と家族と、幼い頃から共に育ってきた侍女たち以外には読み取れない。なぜなら、私と侍女たちで生み出した『ミリアム式暗号』で書かれているからだ。私が八歳の頃に、侍女たちと暗号があったほうが便利だという話になって作ったものである。
「レナ様、お茶会の準備をしましょう」
侍女の一人が女官長のもとへ向かった後、カアラが私にそう言った。
私はその言葉を聞いて、壁の時計に目をやる。手紙を書くのに思いのほか時間がかかってしまったようで、お茶会の時間が迫っていた。
「そうね、もうそろそろ準備をしなければならないわ」
侮られないように身なりを整えなくてはならない。そこに少しでも付け入られる隙があれば、面倒なことになる。
侍女たちが私の髪に櫛を通す。お母様譲りの金色の髪は私の自慢だ。
そうして侍女たちにされるがまま、身なりを整えてもらう。
「レナ様、お綺麗ですわ」
「ええ。レナ様は誰よりも可愛らしいですわ」
「頑張ってください。レナ様」
「誰よりもレナ様が美しいですわ」
実家から連れてきた侍女たちが、嬉しそうに微笑みながら口々に言う。そんな四人についていけないのか、新しい侍女たちはぽかんとしていた。四人とも、私を過剰なほど褒めるから、他の人が聞いたら驚いて当然だ。
「じゃあ行きましょう」
私はその四人の侍女を連れて部屋から出た。向かう先は後宮の庭園だ。
色とりどりの花が咲く庭園には丸テーブルが置かれ、お茶の用意が整っていた。テーブルを囲うように数人の妃が座っている。その中で、ひときわ派手な妃がこちらを見て言った。
「ようこそおいでくださいました」
彼女は赤茶色の髪を腰まで伸ばしており、黄色い瞳からは、どこかキツイ印象を受けた。胸元の開いた赤いドレスが、大きな胸を強調している。
正直、その胸の大きさを羨ましく思った。小さいのが悪いとは言わないが、殿方には大きな胸を好む方が多いと聞いている。
髪から爪先まで美しく仕上げているその女性こそ、今回のお茶会の主催者であるベッカ・ドラニア様だ。
ドラニア伯爵家の次女で、正妃の座を狙って諍いを起こしている伯爵令嬢のうちの一人である。
もう一人の伯爵令嬢であるリアンカ・ルーメン様がその隣に座っている。
彼女たちは、本気で正妃の座を狙っているようだ。他の妃が少しでも陛下に近づこうとすると、あの手この手で嫌がらせしているらしい。気に入らない妃へのいじめも激しいそうで、後宮で起きている騒動のほとんどが彼女たちによるものだという。
このお茶会で彼女たちを牽制して、少しでもそういう嫌がらせがなくなるようにしたい。
「レナ様、どうぞおかけになってください」
ベッカ様に促されて、私は席に着く。チェリたちは私の後ろに静かに控えた。
ベッカ様は侍女を十数人侍らせていて、不敵に微笑んでいた。この場にそれだけの数の侍女を連れてきているということは、ベッカ様付きの侍女は二十人以上いるのかもしれない。
使用人の数で権威を示すのはよくあることだけれど、私はあまり好きではない。
座っている妃たちの中には、エマーシェル様もいた。落ち着かない様子で視線をさまよわせていて、大丈夫かしらと不安になる。
ディアナ様はいなかった。おそらく、ベッカ様があえて呼ばなかったのだろう。よって、この場でもっとも権力があるのは、侯爵家の娘である私だ。ベッカ様もそれをわかっているのか、いまのところ私をないがしろにする気はないようだ。
そんなことを思っていると、リアンカ様が話しかけてきた。
「レナ様の領地ではハーブティーが有名ですわよね? 私もよく飲んでいますの」
リアンカ様は、この国では一般的な栗色の髪と瞳をしていた。背は私よりも高くて、スレンダーな体形であることがよくわかる、大人っぽい紫色のドレスを着ている。
「まぁ、そうなのですか」
そんな風に当たり障りのない言葉を交わす。ベッカ様とリアンカ様は新しく後宮に入った私を警戒しているようで、その目に敵意を潜めたまま微笑んでいた。
私たちの話に入ってくるような妃はいない。侯爵令嬢と伯爵令嬢たちの会話を、下手に邪魔したくないのだろう。
「ハーブティーといえば、ブライネット領の祭事でしか買えないものが有名ですわよね。私はいただいたことがあるのですけど、レナ様は?」
そう言って、リアンカ様が笑う。彼女は目を細めて、試すようにこちらを見ていた。
リアンカ様が私に恥をかかせようとしていることには、すぐに気づいた。これは、私を無知だと笑うための罠だ。
「ええ、ありますわ。『ブライアン』のことでしょう? あの独特な苦みが癖になりますわよね。祭事には一度しか行ったことがありませんが、『ブライアン』はお土産に何度かいただきましたの」
リアンカ様の言葉に、私は間を置かずに答えた。
ブライネット領は、私の実家が治めるミリアム領と同様に、ハーブの生産地として有名である。そしてブライネット領の祭事では、領内で生産したハーブのみを使った、『ブライアン』というハーブティーが売られるのだ。
こういったことを知らないと付け込まれる隙になるし、馬鹿にされる材料にもなる。
だから、こういう時は嘘をついてでも知っているふりをするべきなのだ。もちろん、正しい知識を持っているのが一番いい。
私が答えた内容は全て真実だ。
陛下の役に立とうと沢山勉強したから、私は様々な知識を身につけている。特に詳しいのは、もちろん我が国についてだけど、近隣諸国の事情にも通じている。
各地の特産物や流行りの食べ物は、必ず手に入れて試すようにしていた。
そして食べた感想を忘れないように、きっちりメモしてあった。珍しいものは、いくらお金をかけてもなかなか手に入らないことがある。だから、手に入れた時にはその機会を無駄にしないよう、自分で書いた味の特徴や感想を、何度も読んで暗記するのだ。
さて、あちらから恥をかかせようと仕掛けてきたのだから、こちらからも反撃しよう。後宮で騒動を起こして陛下の手を煩わせている彼女には、私も思うところがある。
「リアンカ様は祭事にお詳しいんですの?」
微笑みながらそう尋ねる。
「ええ、少しは……」
「まぁ。それなら、隣国のバークア国の建国祭のこともご存知ですか?」
ふふっと笑って口にすると、自信満々だったリアンカ様が一瞬だけ顔を引きつらせた。隣に座るベッカ様も少しだけ表情を変える。
しかし一拍も置かずに、リアンカ様が笑みを浮かべて答えた。
「ええ、もちろんですわ」
「あの舞は美しいですわよね? 中央で踊る『舞姫』には感動しますわ」
「ええ、あんな美しい女性になりたいものですわ」
「あら? 『舞姫』は男性の神官から選ばれるのですわよ?」
不思議そうな表情を作って言うと、リアンカ様がしまったという顔をした。
バークア国の建国祭では、神託によって選ばれた神官が舞をする。踊り手には男も女もいるが、中央で神聖な舞を踊る『舞姫』だけは絶対に男性なのだ。一度、お兄様と一緒に見に行ったが、男性とは思えないくらい綺麗だった。
悔しそうに唇を噛むリアンカ様を、ベッカ様が馬鹿にしたような目で見ている。いい気味だとでも思っているのだろう。
でも、甘い。次はベッカ様の番だ。
「話は変わりますけれど、ベッカ様、いまルサンド領の『アーノア』をつけていらっしゃるのかしら。いい匂いだわ」
「ええ、わかるのですか?」
漂ってくる香水の匂いから銘柄を特定すると、ベッカ様はあっさり認めた。さて、ここから仕掛けていこう。
「少量しか作られていなくてなかなか入手できないという話ですのに、手に入れていらっしゃるなんて驚きましたわ」
「香水には特にこだわっておりますのよ。気になった香水があれば、すぐに取り寄せるようにしていますわ」
ベッカ様が得意げに言った。
「私も香水が好きなんですの。色々お話ししたいですわ」
「是非!」
ベッカ様は香水について詳しいという自負があるようで、余裕の笑みを浮かべていた。だが、私が次に発した言葉で、少し表情が変化する。
「最近市場に出回り始めたものだと、アッシリカ領の『ミズノア』が素晴らしいですわね」
「……ええ」
ベッカ様の表情がくもった。
「原料になる花も綺麗ですわよね」
「ええ、素敵な薔薇だと思いますわ」
「あら? 『ミズノア』の原料は睡蓮ですわよ?」
アッシリカ領の特産物が薔薇だから当たりを付けたのだろうが、間違いだ。正しくは睡蓮である。
「ご存知なかったんですの?」
そう言ってにっこり笑いかける。
リアンカ様もベッカ様も、これくらいの話に上手く合わせられなければ、正妃など務まりませんわよ?
そんな風に思いながら、その後も二人が投げかけてくる質問に軽く答えていた。
すると突然、ガチャンという音がその場に響いた。
音のしたほうを見ると、エマーシェル様がカップを落としたようだった。地面に落ちたそれは、見るも無残に割れている。あんなに粉々になるなんて、どんな落とし方をしたのだろうか。
お茶会においてカップを落とすのは、ある意味致命的なミスだ。場の雰囲気を壊すだけでなく、最低限のマナーも身につけていないと見下されてしまう。
私は幼い頃に貴族の令嬢として、お茶会での振る舞い方をきっちり習った。ベッカ様やリアンカ様だって、そういう面は完璧だ。
けれどエマーシェル様は、そういうことに不慣れなようだった。
エマーシェル様の顔は驚くほどに真っ青だ。カップの破片を拾おうとしたが、すぐに手を引っ込め、ただおろおろしていた。
そんな風にしていては、いじめの格好の的である。
「ちょっと、貴方!」
ベッカ様の怒った声を聞きながら、私は誰にも気づかれないように小さくため息をつく。
エマーシェル様はびくっと肩を震わせ、おそるおそるベッカ様のほうを見た。
エマーシェル様の近くに座っていた妃たちが、青ざめた顔で彼女から距離を取る。中にはエマーシェル様を心配そうに見る妃もいたが、誰も言葉を発しようとはしなかった。
自分よりも身分の高い者に睨まれるということは、貴族の間では社会的な死を意味する。
「あの、申し訳ございません……」
真っ青な顔のまま、エマーシェル様はベッカ様に言った。
「私の用意したカップを割るなんて……っ。それがいくらするかご存知なのかしら?」
ベッカ様は不機嫌そうにエマーシェル様を睨みつける。
まぁ、こうなるのは当たり前だ。
お茶会の主催者は、開催場所や時間、食器から飲食物まで全ての準備を取り仕切る。
今回は伯爵令嬢であるベッカ様が主催のお茶会だから、用意されたものもその地位に相応しい高価なものばかりだ。下手に安価なものを使えば、『これしか用意できないのか』と侮られてしまう。
そして主催者は、『お茶会を成功させること』をもっとも大切にしている。自分の主催したお茶会が失敗に終われば、それも侮られる原因になるからだ。
つまり、成功するはずだったお茶会の空気を悪くしたエマーシェル様を、ベッカ様がよく思わないのは当然なのだ。
怒ったベッカ様に睨まれて、エマーシェル様は視線をさまよわせている。
「ええと、その……」
「言い訳はいりませんわ。そのカップは弁償していただきます。貴方は確か、ブランシュ男爵家の娘ですわよね? まともにお茶会もできない娘を後宮に入れなければならないだなんて、ブランシュ男爵もおかわいそうに」
ベッカ様が馬鹿にしたように笑っている。それに対してエマーシェル様は、青ざめるばかりだった。
男爵家の領内でなら、多少隙を見せてもいいかもしれない。けれど、ここは後宮だ。どんな小さな隙が命取りになるかわからない。
エマーシェル様は後宮のような場所には向いていないのだろう。私の部屋から出ていく時にもつまずいていたし、貴族の令嬢として不用心すぎる。
ただ、貴族としてではなく一人の少女として見れば、エマーシェル様のことは嫌いではない。表情豊かで愛らしいし、ここが後宮でなければ好感が持てるのだけれど……
「弁償だなんて……私の家にお金は……」
「まぁ! 自分で割っておいて、そんな言い訳をするんですの? これだから貧乏人は……」
体を震わせて青ざめるエマーシェル様を、ベッカ様はなおも責め立てた。
さて、そろそろこの状況をどうにかすべきだろう。下位の妃が相手だからといって、好き勝手されるのは見たくない。
そう思って、私はちらりとエマーシェル様を見る。そして後ろにいたチェリにある指示を出し、笑いながら二人の会話に入った。
「ベッカ様。このくらいのことでお怒りになるなんて、心が狭いと思われますわよ?」
これは、ベッカ様の注意をこちらに向けるための言葉だ。
目論見通り、ベッカ様はエマーシェル様を責めるのをやめてこちらを見た。その目には、馬鹿にされたことへの怒りが見え隠れしている。
「なっ……、私は別に――」
「ベッカ様がその程度のカップ一つで逆上なさるなんて、思いもしませんでしたわ。割れたカップの代金も惜しむほど、貴方のお家は困窮していらっしゃるのかしら?」
わざとくすくす笑いながら、私は告げる。
挑発するのが目的だから、このくらい嫌味ったらしいほうがいい。
「そんなわけないでしょう! この程度の物、お父様に頼めば買い直すのは簡単よ」
「あら、それならそんなに逆上なさる必要はないでしょう? エマーシェル様のようなこうした場に慣れていらっしゃらない方に本気で怒るなんて、貴方の品性を疑われますわよ?」
わざわざこんな言い方をするのは、ベッカ様がしているのは品位を落とす行為であると強調するためだ。自分の評判が落ちることを、彼女は望まないだろう。
「後宮には、普段社交界にあまり関わらない方々も集められていますわ。その中にはマナーに慣れていない方もいるでしょう。そんな方々を相手にいちいちお怒りになっていたら、子供のすることに目くじらを立てる大人のようでみっともないですわよ」
こんな風に馬鹿にされるのは、ベッカ様にとって屈辱のはずだ。こうすることによって、ベッカ様の怒りを私に向けさせる。
後宮で問題が起これば、陛下の迷惑になる。実際、後宮では過去に何度か暗殺事件が起きているのだ。そんなことになれば、あの方がどれほど大変な思いをなさることか。
そういう事態を防ぐために、標的が私一人になるよう仕向けることにした。
全ての妃を守ることは難しくても、私にだけ敵意が向くようにすれば、嫌がらせだろうと暗殺だろうと対処できる。私と私の侍女たちなら、どうにかできる。
それに、悪意によって人がつぶれるのを見るのは嫌だ。そういうのは、見ていて気分が悪い。
だから、ベッカ様たちに侮られる気はないけれど、エマーシェル様を見捨てる気もない。
私はとどめとばかりに嫌味を言う。
「それに、ベッカ様もリアンカ様も、先ほど知ったかぶりをなさったでしょう? それも恥ずかしいことですわ。エマーシェル様に礼儀を説く前に、もう一度きちんと勉強されてはいかがですの?」
私はまた、馬鹿にしたようにくすくすと笑う。
伯爵令嬢の二人は顔を真っ赤にして、怒った目で私を見ている。これで、ベッカ様もリアンカ様も私を『一番気に食わない相手』だと認識したはずだ。
その後すぐにお茶会はお開きになった。表面上は和やかに終わったが、去り際の二人の目には、私への敵意がにじんでいた。私はそんな彼女たちに、わざと嫌味ったらしく微笑んだ。
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