少女王とその奴隷

阿波野治

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契約⑥

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「本当はな、クロよ、お前を湖に突き落とそうと考えていたんだよ。お前は荒波に揉まれてこの島に流れ着いた男だから、溺れさせるのは最高の制裁になると思ってね。しかし、チャンスを窺っていると、どうも様子がおかしい。というのも、あたしから離れられてほっとしていると思っていたんだよ。しかし、お前はどうも、自分がしたことを深く悔やんでいるようじゃないか。泣きっ面を殴りつけるような真似をしても面白くない。なにより、あたしへの服従を絶対的なものにするのに最適の方法ではない。というわけで、クロよ」

 歩み寄ってくる。もったいぶったような、威風堂々という形容詞が相応しい様態の歩行。女王の座に就く者らしい歩きかたであり、僕が逃げ出すとは砂粒ほども思っていない歩きかたでもある。
 僕は逃げ出すだけの気力を奮い立たせられない。歯向かおう、立ち向かおう、自由のために断固として戦おう、という意欲が湧かない。シルヴァーから感じた威厳に、彼女に反抗するという選択肢は消失していた。

「ほら」
 シルヴァーは後ろ手に隠していたものを僕に差し出した。一枚の紙と、ペンと、インク壺。
 三点をまとめて両手で受け取り、女王を仰ぎ見る。
 逆光に照らされた彼女は、薄く笑っている。冷ややかで、それでいて上機嫌そうで、備わった威厳を邪魔するものではない、そんな笑みだ。僕が先ほどまで思いを巡らせていた、シルヴァーは多面的な存在だという考えを肯定する笑みでもある。

「書くがいい。『女王陛下には今後金輪際背きません。死ぬまで従順な奴隷として尽くします。誓いを破った場合は死をもってつぐないます』――そう書くんだ。細かい表現はお前に任せる。そして最後に、己の血をインクに判を押せ。さあ、ただちに実行するんだ」

 僕の体は自動的に動き出していた。文字を書くのに親しんだ記憶はないが、読み書きは問題なくこなせる人間ではあったらしい。
 ペン先にたっぷりとインクをつけ、紙につづった。

『わたくし・クロは、シルヴァー女王陛下の奴隷として、命が尽きるまで陛下に忠誠を誓います。守れなかった場合は、死んでお詫びします。』

 たかが紙に書いた文字だ。しかし、シルヴァーに命じられ、シルヴァーの目の前でしたためた文章でもある。したがって、効力は絶対。逃げる選択肢も、歯向かう選択肢も、失われてしまった。
 指先を噛んで血を出し、「クロ」とサインする。
 差し出すよりも早くシルヴァーの手が紙を奪い、文字列を左上から順に目でたどる。小さく頷いた瞬間、よくも悪くも、心のこわばりが緩んだ。

 彼女はおもむろに裸になり、脱いだばかりの服のポケットに紙を小さく畳んで収めた。その手つきはぞんざいなようでもあり、ていねいなようでもある。僕の視線を意識しているようでもあるし、無頓着なようでもある。

「これよりあたしはシロと水浴をする。奴隷、お前はそこでぼーっと座っていろ。よかったな、この程度の罰で済んで」
「はい、陛下」
「よかったな、上に立つ者が慈悲深くて」
「はい、陛下」
「『はい、陛下』以外の言葉を吐いてみろ、奴隷」

 沈黙。
 シルヴァーは失笑を漏らし、シロを促して湖に入った。そして、刺すような日射しの下ではしゃぎはじめた。
 その光景は、客観的に見れば微笑ましいものだったのかもしれないが、僕はあと一歩で泣きそうだった。
 それでいて、清々しい気分でもあった。

 僕は一生、シルヴァーの奴隷として生きていくのだ。
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