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契約後の世界
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奴隷契約書に署名して以来、よくも悪くも僕の生活は安定した。
生理的欲求を満たすためにとる時間の他に、昼間の労働、夜間のセックス。そして、隙間を埋めるかのような暴言と暴力。ひたすらにその反復だった。
そんな日々の中でも、僕はたびたび、シルヴァーの魅力的な姿を目にした。
僕の知らない歌を、鼻歌を歌いながら花冠を編む、器用な手つき。
好物の蜂蜜を白パンにたっぷりとかけて頬張る、幸福そうな横顔。
「まん丸原っぱ」でシロと駆け回るさいに、踊るように跳ねる、銀色の髪の毛。
たとえば初めて「ふたご湖」に二人と一匹で出かけたさいなど、女王が人間らしい、年齢相応の無邪気な振る舞いを見せる機会は、以前もたまにあった。しかしその頻度は、僕の署名を機に明らかに増えた。
心境に変化があったのは、どうやら女王のほうで、僕ではないらしい。
なぜならば、彼女から一度でも、少しでも酷い仕打ちをされると、彼女の輝かしい一面などきれいさっぱり忘れ、憎しみや、嫌悪感や、現状から逃避したい欲求などに心が囚われるからだ。
もっとも、それらの感情は、彼女が少しでも魅力的な一面を見せたとたん、胸の奥深くまで瞬時に引っこむ。そして、その対極の体験が訪れるまで、自力では絶対に引っ張り上げることはできないのだった。
僕を奴隷として非人間的に扱うシルヴァーを、僕は確かに憎んでいた。
しかし、憎みきれていないのもまた事実。
その要因は、小屋のどこかにしまってある契約書の存在なのか、彼女が時折見せる人間的な輝かしい一面なのか、僕には判断がつかなかった。
僕のシルヴァーに対する態度は一貫して従順だった。疑問質問があれば投げかけることも、受け入れがたい要求に控えめに抵抗してみせることも、もはやなくなり、彼女が下す命令には漏れなく二つ返事で従った。奴隷契約を交わした以上はそうするべきだと思っていたし、意識しなくても、よほどの無茶を言われない限り、シルヴァーの望みどおりに自動的に体が動いた。
そんな自分を、時々、異常だと明瞭に認識し、強く嫌悪した。
しかし、だからといって、異常な現状をどうにかしよう、という方向に意識が向かうことはない。
『本当に愚かだな、お前は』
『そんなことも分からないのか、馬鹿め』
『全く、お前という男は』
シルヴァーからなにを言われても、そしてなにをされても、僕は黙って耐えた。ネガティブな感情はしっかりと感じたが、しょせんは表出しない程度の規模に過ぎない。神経がだんだん鈍くなっていって、やがてはなにも感じなくなる。そんな気がした。
それは怖いことだと思った。
しかし、特に対策は講じなかった。
方法が分からなかった。そうでなくても、奴隷として以外の仕事をこなすだけの気力がなかった。
僕は着実に、奴隷として完成へと向かっているらしい。
* * *
僕とシルヴァーは物理的に近い距離にいることが多い。
たとえば、外で一人、大工仕事に勤しんでいるときでも、小屋の中からシルヴァーの存在感と気配が伝わってくる。
女王を感じなくても済むところへ行きたい、と思うことが時々あった。
僕が住んでいるのは名もなき島だ。島だから当然、四方は海に囲まれている。だからなのか、一時的な逃避に思いを馳せるとき、砂浜に座って海を眺める自分を思い描くことが多かった。
想像の中の僕は、熱帯の直射日光の下で膝を抱えて座り、エメラルドグリーンの海を呆けた顔で眺めながら、この海を渡れば別の世界があるのだな、と考える。
しかし、海を渡って別の世界に行きたいと願うことはない。一度たりともない。
僕はすっかり奴隷根性に支配されていた。
自覚はあったが、どうしようもなかった。
生理的欲求を満たすためにとる時間の他に、昼間の労働、夜間のセックス。そして、隙間を埋めるかのような暴言と暴力。ひたすらにその反復だった。
そんな日々の中でも、僕はたびたび、シルヴァーの魅力的な姿を目にした。
僕の知らない歌を、鼻歌を歌いながら花冠を編む、器用な手つき。
好物の蜂蜜を白パンにたっぷりとかけて頬張る、幸福そうな横顔。
「まん丸原っぱ」でシロと駆け回るさいに、踊るように跳ねる、銀色の髪の毛。
たとえば初めて「ふたご湖」に二人と一匹で出かけたさいなど、女王が人間らしい、年齢相応の無邪気な振る舞いを見せる機会は、以前もたまにあった。しかしその頻度は、僕の署名を機に明らかに増えた。
心境に変化があったのは、どうやら女王のほうで、僕ではないらしい。
なぜならば、彼女から一度でも、少しでも酷い仕打ちをされると、彼女の輝かしい一面などきれいさっぱり忘れ、憎しみや、嫌悪感や、現状から逃避したい欲求などに心が囚われるからだ。
もっとも、それらの感情は、彼女が少しでも魅力的な一面を見せたとたん、胸の奥深くまで瞬時に引っこむ。そして、その対極の体験が訪れるまで、自力では絶対に引っ張り上げることはできないのだった。
僕を奴隷として非人間的に扱うシルヴァーを、僕は確かに憎んでいた。
しかし、憎みきれていないのもまた事実。
その要因は、小屋のどこかにしまってある契約書の存在なのか、彼女が時折見せる人間的な輝かしい一面なのか、僕には判断がつかなかった。
僕のシルヴァーに対する態度は一貫して従順だった。疑問質問があれば投げかけることも、受け入れがたい要求に控えめに抵抗してみせることも、もはやなくなり、彼女が下す命令には漏れなく二つ返事で従った。奴隷契約を交わした以上はそうするべきだと思っていたし、意識しなくても、よほどの無茶を言われない限り、シルヴァーの望みどおりに自動的に体が動いた。
そんな自分を、時々、異常だと明瞭に認識し、強く嫌悪した。
しかし、だからといって、異常な現状をどうにかしよう、という方向に意識が向かうことはない。
『本当に愚かだな、お前は』
『そんなことも分からないのか、馬鹿め』
『全く、お前という男は』
シルヴァーからなにを言われても、そしてなにをされても、僕は黙って耐えた。ネガティブな感情はしっかりと感じたが、しょせんは表出しない程度の規模に過ぎない。神経がだんだん鈍くなっていって、やがてはなにも感じなくなる。そんな気がした。
それは怖いことだと思った。
しかし、特に対策は講じなかった。
方法が分からなかった。そうでなくても、奴隷として以外の仕事をこなすだけの気力がなかった。
僕は着実に、奴隷として完成へと向かっているらしい。
* * *
僕とシルヴァーは物理的に近い距離にいることが多い。
たとえば、外で一人、大工仕事に勤しんでいるときでも、小屋の中からシルヴァーの存在感と気配が伝わってくる。
女王を感じなくても済むところへ行きたい、と思うことが時々あった。
僕が住んでいるのは名もなき島だ。島だから当然、四方は海に囲まれている。だからなのか、一時的な逃避に思いを馳せるとき、砂浜に座って海を眺める自分を思い描くことが多かった。
想像の中の僕は、熱帯の直射日光の下で膝を抱えて座り、エメラルドグリーンの海を呆けた顔で眺めながら、この海を渡れば別の世界があるのだな、と考える。
しかし、海を渡って別の世界に行きたいと願うことはない。一度たりともない。
僕はすっかり奴隷根性に支配されていた。
自覚はあったが、どうしようもなかった。
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