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それじゃあ、敵地へ乗り込もう

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 麦は青く光る「なにか」に向かって突進した。風を感じた。向かい風だ。ベランダの掃き出し窓が開いているのだ。
 その事実を把握した、次の瞬間、青い光がベランダへと退いた。そうかと思うと、フェンスの上に軽々と飛び乗り、飛び降りた。二階にもかかわらず、一瞬の躊躇いもなく。

「待て!」

 麦は「なにか」の後を追いかけた。「なにか」と違ったのは、フェンスに体を密着させたところで動きをとめたこと。暗くて表情までは窺えないが、顔を右に左に動かしている。
 俺が六畳間に辿り着くのに前後して、戻ってきた。部屋の明かりを点ける。
 呼吸が止まりそうになった。

 新菜が俯せに横たわっている。
 服は鉤裂きになっている――というより、ズタズタに切り裂かれた布が裸体にへばりついている、と表現した方が正確かもしれない。頭髪は乱れ切っている。体中に大小深浅様々な切り傷が刻まれ、流れ出した血が肌に線画を描いている。身じろぎ一つしない。
 その新菜に抱き締められて、姫ちゃんが横たわっている。俯せに倒れているのも、身じろぎ一つしないのも、新菜と同じだ。服の破れ具合と傷の数は新菜ほどでもないが、傷だらけのその姿は見るからに痛々しい。

 というか、二人は生きて――。

「新菜!」

 麦は二人の傍らに膝をつき、新菜の体やんわりと揺さぶる。視界の端に銀色がちらついた。包丁が畳に突き刺さっている。これでやられたのかと思ったが、血は少量しか付着していない。
 そして、その横には……。

「新菜! 新菜っ!」

 麦の呼びかけに、新菜の肩が僅かに微かに動いた。それに続いて、唇が弱々しく蠢く。新菜を仰向けにさせようとしたが、姫ちゃんを固く抱き締めて動かない。顔のみを横に向かせ、覗き込もうとした矢先、ゆっくりと瞼が開いた。

「新菜……!」

 麦の隣にしゃがみ、顔を覗き込むと、そこにもいくつかの切創が刻みつけられていた。表情からは生気が感じられず、まるで死を目前に控えた重病人のようだ。呼びかけようとして、麦に掌で制された。新菜の微かに唇が動いている。喋ろうとしているのだ。

「姫ちゃんは、気絶しているだけ……。だから大丈夫……」

 新菜の瞳が涙に潤んだかと思うと、二筋の流れが頬を伝った。

「でも、大丈夫じゃない。顔にこんなに傷を許してしまって、ごめんね……」

 力尽きたように首が垂れる。麦は素早く顔をこちらに向け、叫んだ。

「救急車!」

 涙の気配を微かに帯びたような声だった。俺はスマホを取り出し、1の番号を二回、9の番号を一回、素早く押した。



 二人は意識不明のまま病院に搬送された。
 医師の話によると、二人とも命に別状はなし。姫ちゃんは一度目を覚ましたが、事件当時のことを思い出したらしく、号泣。やがて泣き疲れ、再び眠りに落ちた。新菜の意識は戻らないままだという。

 白岩は俺たちの住所を知っていたのだから、麦と同居する新菜は常に危険に晒されているに等しい。新菜を一人にしたのは、間違った判断だった。しかも姫ちゃんまで巻き込んでしまうなんて……。

 この話は、当然、俺と麦の間で交わされた。責任は自分にあると主張し合うこともした。だが、すぐにやめた。そんなやりとりをしても不毛なだけだと互いに理解していたし、それに、俺たちにはやるべきことがあった。

 人気のない病棟の廊下。おもむろに足を止めた麦は、ポーチから二つ折りにされた紙片を取り出した。現場に包丁と共に残されていたものだ。
 視線を交わし、頷き合い、麦の手によって紙が開かれる。

『お金に換えられるものを用意しているから、二人仲良くボクの遊び場までおいで。ボクのご自慢のペットと戦って、勝ったら全部あげる。場所は――』

 手紙の下、紙の下半部には、プリントアウトした地図が貼りつけられていて、一点が赤く塗り潰されている。地図の横には「白岩寿摩」とサインがしてあった。
 手紙を持つ麦の両手が震えている。地図が添付されていなかったならば、力任せに破り捨てていたのではないか。そう思わせるほどに激しく。

「私たちが選ぶべき道、これで一つに絞られたね」

 手の震えを殺して紙片を折り畳み、真剣極まる眼差しを俺に注ぐ。

「米太郎、覚悟はできてる?」
「当たり前だ……!」

 相手が抱いている感情の強さに触発され、ついつい声に力がこもる。麦は嬉しそうに顔を綻ばせたが、すぐに引き締めた。

「うん、いい返事! じゃあ、早速敵地に乗り込む――と言いたいところだけど、お互いに寝不足だからね。とりあえず家に帰る! 寝る! 話はそれから! OK?」

 病院という信頼できる場所に二人を預けたのだから、首を縦に振らない理由はない。頷き合い、建物を出た。



 色々な出来事があった後だ。眠りたくても眠れないだろうな、と考えていたが、案に相違してすんなりと寝つけ、ぐっすりと寝られ、すっきりと目覚められた。それだけ疲労が溜まっていた、ということなのだろう。

 待ち合わせ時間までまだ余裕があるので、買い置きの食料で昼食兼夕食を済ませる。腹が満ちれば闘志も満ちる。体と心が徐々戦闘モードに移行していく。
 食事をしている最中、不意にあることを思いついた。押し入れの奥を漁ると、古びたスポーツバッグが出てきた。ファスナーを開けると――あった。引っ越しの際になぜか持って行くことを選んで、案の定使う機会がなく眠っていた、思い出の品が。使い方としては間違っているが、正義のためだ、こいつも大目に見てくれるだろう。

 やがて時間になったので、バッグを肩にかつぎ、部屋の外へ。
 奇しくも麦も部屋から出てきたところだった。紫色の髪の毛。ワイシャツ。ミニスカート。いつもの麦だ。

「米太郎、そのバッグ、中身はなんなの?」
「いや、俺、元野球部だから」
「……ああ、なるほど」
「姫ちゃん、新菜、瑠依、彩葉……。みんな向こうから襲いかかってきて、戦闘態勢は万端じゃなかったからな。でも、今回はこっちから出向く。敵を叩きのめす準備をするくらい、当たり前だろう?」

 不敵に微笑んでみせると、麦も似たような笑みで応じた。

「それじゃあ、敵地へ乗り込もう。そして倒そう。『カマイタチ』を、白岩を……!」
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