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七
その女を好きにしていいのは俺だけだ……!
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おい、動けよ。さっさと動きやがれ、米村米太郎。
これまでも、後がないところまで追いつめられた時は、いつだって本気を出してきただろう。それと同じだ。立ち上がって『カマイタチ』をぶちのめせ!
――だが、立ち上がったところで、麦を圧倒するような相手に勝てるわけがない……。
ダガーナイフが麦の胸を目がけて振り下ろされた。なぜだろう。刃の動きがやけに遅く感じられる。
今の俺にできることは、外界から送られてくる情報を極限までシャットアウトし、己が感じる苦しみを少しでも減らすよう努めるのみ。
ああ、よかった、時の流れがスローモーションで。刃先が胸に達するまで、まだ十数センチもある。決定的な瞬間が訪れるまでに、情報をシャットアウトする態勢を整える時間的な余裕が充分にある。
瞼を閉じようとした時、忽然と声が甦った。
『続きはいつしてくれるの?』
『じゃあ、「カマイタチ」を倒したら』
……そうか。そうだった。俺は麦と――。
「やめろ……っ!」
胸に突き刺さる寸前、見えない壁に阻まれたかのように刃は虚空に停止する。壊れかけた機械仕掛けの人形のように『カマイタチ』の首が回り、顔がこちらを向く。俺は立ち上がり、『カマイタチ』に人差し指を突きつける。
「その汚い手を退けろ! 今すぐに退けろっ! その女を好きにしていいのは俺だけだ……!」
胸から手が離れる。支えを失った体は床に俯せになる。
「どうしてもと言うなら、俺を殺してからにしろ! 俺はお前をぶちのめしてお前の目論見を阻止する! ――かかってこい!」
「うわあ! 熱い! 想像以上に熱すぎるよ、米村米太郎!」
場違いな黄色い声を上げたのは、檀上のソファに座る白岩寿摩。
「いいよ! 熱い覚悟、凄くいい。……でも、その覚悟を叩き潰して、絶望の淵に突き落とすのは、もっといい! ――カマイタチっ!」
呼びかけに応じて腰を上げ、俺に向き直る。右手にはダガーナイフが握られたままだ。
「殺してもいいから、米村米太郎を倒して! いけぇ……っ!」
『カマイタチ』が俺に向かって突進してきた。ファイティングポーズで待ち構える。あっという間に距離が縮まり、敵がナイフを振りかざした。ぎらつく銀色の刃を注視し、いくつもの対応パターンを脳内でシミュレートしていると――いきなり左脇腹に衝撃。ナイフに注目を向けさせておいて、無防備な脇腹に蹴りを打ち込んだのだ。理解した時には、肩から床に叩きつけられていた。
両手で握り締めたナイフを高々と振り上げ、飛びかかってきた。俺の顔面を狙って刃を振り下ろす。
「うおおお……っ!」
横向きに転がって間一髪、一撃をかわす。回転の力を上手く利用して立ち上がり、すぐさま『カマイタチ』の背後に回り込む。右手を握り締めたが、拳を振るうよりも早く敵が振り向き、蹴りを放った。腹にまともに食らい、後退を強いられる。
『カマイタチ』が猛然と突っ込んでくる。逃げる暇はない。胸を狙ってナイフが突き出された。
二人の動きが同時に止まる。
刃は、俺が咄嗟に差し出した左手の掌を貫通していた。だが、切っ先は胸には達していない。夥しい鮮血が傷口から溢れ出す。
――やっと動きをとめられた。
右手は握り締めたままだった。両目を限界まで見開く。
「くたばれぇ――っ!」
右拳は顔面を捉えたかに思えた。だが『カマイタチ』は咄嗟にナイフを手放し、後方に跳んでかわした。そのまま一気に麦が倒れている場所まで退く。
左手が激しく痛む。傷口から滴る血が床に次々と点を描く。ナイフの柄を握り、少し動かした途端、激痛。歯を食い縛り、刃を手から引き抜く。
左手は実質的に使い物にならなくなった。だが、とにもかくにも武器を得た。
「うおおお!」
今度は俺の方から突っ込んだ。『カマイタチ』が傍に落ちていたバットを拾い上げ、構えた。
頭に一撃を受けても、何十発殴られても、敵の体に刃を突き立てる。そんな意気込みのもとでの突撃だったが、目論見は呆気なく打ち砕かれる。右手の甲をバットで狙い打たれ、ナイフを取り落としてしまったのだ。
何発か食らうのを覚悟でナイフを確保するか、素手で肉薄するか。逡巡に足を止めた、その一瞬の隙を相手は見逃さない。蹴りを胸に受けたが、咄嗟に両の踵に力を込めて持ち堪え、タックルを仕掛ける要領で相手に飛びかかる。指先が敵の体に触る寸前、バットが頭部を直撃、無様に床に崩れ落ちる。
だが、まだだ。まだ諦めない。
可能な限り素早く這い進み、落ちていたナイフを拾い上げる。逆手に持ち替え、脚を狙って切りつけた。咄嗟に身をかわされたものの、切っ先が足の甲の皮膚を浅く切り裂き、鮮血が虚空に散った。
俺が立ち上がった時には、『カマイタチ』は俺の真横に移動し、バットを振りかざしていた。避ける間もなく頭部に一撃が命中。一瞬意識が飛び、視界が歪み、全身の力が抜ける。
――が、全身全霊で両足を踏ん張り、辛うじて踏み止まる。視界はうっすらと霞んだままだが、敵が目の前にいるのは分かり切っている。胸を目がけて頭からぶつかっていく。相手は反射的に横に避けようとしたが、それよりも早く、頭頂部が相手の胸に達した。激しい衝撃を頭に感じ、壁が傾く感覚。
「うらああっ!」
そのまま『カマイタチ』を床に仰向けに突き倒し、その上に覆い被さる。右手に握ったダガーナイフの存在を忘れたわけではなかった。首を狙って、右から左へ、薙ぎ払うように切りつける。
刃は敵の肉体を捉えたかに思えた。だがそれよりも先に、俺の体が相手から離れ始めていた。直前に腹部に衝撃を感じたので、分かった。急所への攻撃を回避するべく、咄嗟に俺の腹を蹴飛ばしたのだ。
狙いは少し逸れ、浅くなってしまったが、確かに『カマイタチ』に一撃を入れることに成功した。その事実を示すのは、鎖骨のすぐ真下、骨のラインに沿うように薄く刻まれた、十数センチの切り傷。
尻餅をついた俺に、『カマイタチ』が猛然と襲いかかってくる。
その胸を目がけて、手にしていたダガーナイフを投げつけた。
『カマイタチ』の動きが完全に止まる。バットで弾き飛ばすか、かわすか。一瞬の逡巡を経て、前者が選ばれた。易々と叩き落とされ、床に転がるナイフ。相手はなんの躊躇いもなくバットを投げ捨て、凶器を拾い上げた。両手で柄を握り締め、刃をこちらに向けて突っ込んでくる……!
俺はナイフを防ぐつもりはなかったし、避けるつもりもなかった。心臓に突き刺さるなら、勝手に刺され。『カマイタチ』にただ一発、勝負を決める一発を打ち込むべく、拳を固める。
「くたばれぇ――っ!」
鋭利なものが肉に突き刺さる感覚と、相手の顔面に拳が激突した手応えを、俺は同時に覚えた。
これまでも、後がないところまで追いつめられた時は、いつだって本気を出してきただろう。それと同じだ。立ち上がって『カマイタチ』をぶちのめせ!
――だが、立ち上がったところで、麦を圧倒するような相手に勝てるわけがない……。
ダガーナイフが麦の胸を目がけて振り下ろされた。なぜだろう。刃の動きがやけに遅く感じられる。
今の俺にできることは、外界から送られてくる情報を極限までシャットアウトし、己が感じる苦しみを少しでも減らすよう努めるのみ。
ああ、よかった、時の流れがスローモーションで。刃先が胸に達するまで、まだ十数センチもある。決定的な瞬間が訪れるまでに、情報をシャットアウトする態勢を整える時間的な余裕が充分にある。
瞼を閉じようとした時、忽然と声が甦った。
『続きはいつしてくれるの?』
『じゃあ、「カマイタチ」を倒したら』
……そうか。そうだった。俺は麦と――。
「やめろ……っ!」
胸に突き刺さる寸前、見えない壁に阻まれたかのように刃は虚空に停止する。壊れかけた機械仕掛けの人形のように『カマイタチ』の首が回り、顔がこちらを向く。俺は立ち上がり、『カマイタチ』に人差し指を突きつける。
「その汚い手を退けろ! 今すぐに退けろっ! その女を好きにしていいのは俺だけだ……!」
胸から手が離れる。支えを失った体は床に俯せになる。
「どうしてもと言うなら、俺を殺してからにしろ! 俺はお前をぶちのめしてお前の目論見を阻止する! ――かかってこい!」
「うわあ! 熱い! 想像以上に熱すぎるよ、米村米太郎!」
場違いな黄色い声を上げたのは、檀上のソファに座る白岩寿摩。
「いいよ! 熱い覚悟、凄くいい。……でも、その覚悟を叩き潰して、絶望の淵に突き落とすのは、もっといい! ――カマイタチっ!」
呼びかけに応じて腰を上げ、俺に向き直る。右手にはダガーナイフが握られたままだ。
「殺してもいいから、米村米太郎を倒して! いけぇ……っ!」
『カマイタチ』が俺に向かって突進してきた。ファイティングポーズで待ち構える。あっという間に距離が縮まり、敵がナイフを振りかざした。ぎらつく銀色の刃を注視し、いくつもの対応パターンを脳内でシミュレートしていると――いきなり左脇腹に衝撃。ナイフに注目を向けさせておいて、無防備な脇腹に蹴りを打ち込んだのだ。理解した時には、肩から床に叩きつけられていた。
両手で握り締めたナイフを高々と振り上げ、飛びかかってきた。俺の顔面を狙って刃を振り下ろす。
「うおおお……っ!」
横向きに転がって間一髪、一撃をかわす。回転の力を上手く利用して立ち上がり、すぐさま『カマイタチ』の背後に回り込む。右手を握り締めたが、拳を振るうよりも早く敵が振り向き、蹴りを放った。腹にまともに食らい、後退を強いられる。
『カマイタチ』が猛然と突っ込んでくる。逃げる暇はない。胸を狙ってナイフが突き出された。
二人の動きが同時に止まる。
刃は、俺が咄嗟に差し出した左手の掌を貫通していた。だが、切っ先は胸には達していない。夥しい鮮血が傷口から溢れ出す。
――やっと動きをとめられた。
右手は握り締めたままだった。両目を限界まで見開く。
「くたばれぇ――っ!」
右拳は顔面を捉えたかに思えた。だが『カマイタチ』は咄嗟にナイフを手放し、後方に跳んでかわした。そのまま一気に麦が倒れている場所まで退く。
左手が激しく痛む。傷口から滴る血が床に次々と点を描く。ナイフの柄を握り、少し動かした途端、激痛。歯を食い縛り、刃を手から引き抜く。
左手は実質的に使い物にならなくなった。だが、とにもかくにも武器を得た。
「うおおお!」
今度は俺の方から突っ込んだ。『カマイタチ』が傍に落ちていたバットを拾い上げ、構えた。
頭に一撃を受けても、何十発殴られても、敵の体に刃を突き立てる。そんな意気込みのもとでの突撃だったが、目論見は呆気なく打ち砕かれる。右手の甲をバットで狙い打たれ、ナイフを取り落としてしまったのだ。
何発か食らうのを覚悟でナイフを確保するか、素手で肉薄するか。逡巡に足を止めた、その一瞬の隙を相手は見逃さない。蹴りを胸に受けたが、咄嗟に両の踵に力を込めて持ち堪え、タックルを仕掛ける要領で相手に飛びかかる。指先が敵の体に触る寸前、バットが頭部を直撃、無様に床に崩れ落ちる。
だが、まだだ。まだ諦めない。
可能な限り素早く這い進み、落ちていたナイフを拾い上げる。逆手に持ち替え、脚を狙って切りつけた。咄嗟に身をかわされたものの、切っ先が足の甲の皮膚を浅く切り裂き、鮮血が虚空に散った。
俺が立ち上がった時には、『カマイタチ』は俺の真横に移動し、バットを振りかざしていた。避ける間もなく頭部に一撃が命中。一瞬意識が飛び、視界が歪み、全身の力が抜ける。
――が、全身全霊で両足を踏ん張り、辛うじて踏み止まる。視界はうっすらと霞んだままだが、敵が目の前にいるのは分かり切っている。胸を目がけて頭からぶつかっていく。相手は反射的に横に避けようとしたが、それよりも早く、頭頂部が相手の胸に達した。激しい衝撃を頭に感じ、壁が傾く感覚。
「うらああっ!」
そのまま『カマイタチ』を床に仰向けに突き倒し、その上に覆い被さる。右手に握ったダガーナイフの存在を忘れたわけではなかった。首を狙って、右から左へ、薙ぎ払うように切りつける。
刃は敵の肉体を捉えたかに思えた。だがそれよりも先に、俺の体が相手から離れ始めていた。直前に腹部に衝撃を感じたので、分かった。急所への攻撃を回避するべく、咄嗟に俺の腹を蹴飛ばしたのだ。
狙いは少し逸れ、浅くなってしまったが、確かに『カマイタチ』に一撃を入れることに成功した。その事実を示すのは、鎖骨のすぐ真下、骨のラインに沿うように薄く刻まれた、十数センチの切り傷。
尻餅をついた俺に、『カマイタチ』が猛然と襲いかかってくる。
その胸を目がけて、手にしていたダガーナイフを投げつけた。
『カマイタチ』の動きが完全に止まる。バットで弾き飛ばすか、かわすか。一瞬の逡巡を経て、前者が選ばれた。易々と叩き落とされ、床に転がるナイフ。相手はなんの躊躇いもなくバットを投げ捨て、凶器を拾い上げた。両手で柄を握り締め、刃をこちらに向けて突っ込んでくる……!
俺はナイフを防ぐつもりはなかったし、避けるつもりもなかった。心臓に突き刺さるなら、勝手に刺され。『カマイタチ』にただ一発、勝負を決める一発を打ち込むべく、拳を固める。
「くたばれぇ――っ!」
鋭利なものが肉に突き刺さる感覚と、相手の顔面に拳が激突した手応えを、俺は同時に覚えた。
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