なぜならこの世界は

阿波野治

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「入浴が済んだので、自室に引き上げます。戸締りは全て確認しました。先生、おやすみなさいませ」
 書斎の襖の前、栄田くんは必要もないのに跪き、襖の厚みを考慮に入れた音量で告げた。
 伝達事項があるならこの機会に伝えられるはずだ。そう考えて五秒待ってみたが、言葉はない。「失礼します」と告げて立ち上がり、振り向けばすぐ目の前にある自室の襖を開く。

 室内は星のない夜空のように暗い。足を踏み入れたとたん、疲労感が押し寄せてきた。このまま眠ってしまいたかったが、布団を敷いていない。日記をつけるのもまだだ。
 照明を灯し、風呂敷包みからノートとペンを取り出して卓袱台に相対する。記念するべき書生生活初日を迎えるにあたり、新品のノートを持参してきた。
 ペンを握ったが、一文字目を刻む右手が動かない。考えがまとまっていないせいだ。漆喰の壁にもたれて二分ほどぼんやりしたのち、完璧主義に殉じる必要はないと開き直り、執筆を開始する。往々にしてあることだが、ひとたび書き始めると筆は滑らかに動く。

 先生は想像に違わず尊敬に値する人だ。仕事はいろんな意味で大変だが、なんとかやっていけるだろう。京山家は静かすぎて少し寂しいが、直に慣れるはずだ。
 現時点での唯一の明確な懸念は、「侵入を防げ」と命じられたcholeraの正体が全くの不明なことだが、今は目の前の仕事をこなすことに専念するべきだ。先生に認めてもらえれば、小説の書き方について教えてもらえるし、choleraについての情報も伝えてくれるに違いない。

 そういった内容を、栄田くんの言葉で簡潔にしたためる。冒頭から末尾まで駆け足で読み返し、小さく頷いてノートを閉じる。
 私語を交わす機会こそなかったが、食事を共にするという望外の幸運にも恵まれた。玄関番という仕事に対する戸惑いや難しさは感じたが、明日以降に巻き返せばいい。
 今日一日の自信の振る舞いには合格点を与えられる。初日にしては上出来だ。
 大きく息を吐き、口角をささやかに持ち上げる。

 普段であれば日記に続いて、長編小説の構想を練ったり、習作の掌編小説を書きつづったりするのだが、今宵はあいにく体力も気力も使い果たしてしまった。
 読書をするのも以下同文だ。風呂敷には選りすぐりの十冊を収めてきていて、全て先生の著作。

 自己中心的な青年が利他的な行動を取ることによって意中の異性をものにしようとする試行錯誤の一部始終を描いた『純愛パラコート』。
 少数派でありたい倒錯的な心理の魅力と醜さが主題の物語『真と善と美について』。
 崩壊が確約されたコミュニティで理想の実現を画策する男が次第に目的を見失っていく『流刑の極北』。

 若さ迸る最初期の代表作から、純文学と大衆文学の垣根を超越した知る人ぞ知る名作、賛否両論の問題作まで、幅広いジャンルの作品を取り揃えたというのに。
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