なぜならこの世界は

阿波野治

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「あと二分くらいかな」
 赤信号に足を止めた先生は、前を向いたままひとり言のように呟く。呼応するかのように、北西の方角で銃声が響いた。雨脚は少し強まったらしい。赤が青に切り替わり、人が動き出す。

 街灯の少ない道をしばらく歩いていると、先生は突然左折した。敷地の門を潜り抜けたのだ。前方には横に長い建物が待ち構えている。建物に向かって小道が真っ直ぐに伸びていて、終点に玄関が待ち構えている。
 玄関扉は全面がガラスで、それ越しに受付カウンターが見えた。その周囲で待ち構えているのは、何人かの中居。二人の姿を認めると、年少の中居が扉へと駆け寄り、先生の手がノブを掴むよりも先に扉を開いた。声の揃えての、それゆえに没個性な「ようこそお越しくださいました」の挨拶。

 内装と比べると随分と粗末なスリッパに履き替え、若い中居に導かれて廊下を進む。先頭から、中居、先生、栄田くんという隊列だ。
 角を二つ曲がると、前方左手に上り階段が見えた。中居はその三メートルほど手前で足を止めた。「新進作家倶楽部様」と記された立て看板が入口に出ている。それを取り囲む無数のスリッパは、顔をしかめたくなるような乱雑さだ。
 中居は恭しく頭を下げ、来た道を去る。先生はどこか冷ややかな目つきで彼女の背中を見送り、栄田くんの方を向いて階段を指差す。

「私はこの襖から入って、君は階段の下の扉からだ。小部屋があって、料理が運ばれてくると聞いている。宴会が終わるのに合わせて、君も部屋から出てきてくれ。この建物を出てすぐの場所で合流しよう」
 先生は襖に手をかける。
 その向こう側は作家たちだけの、選ばれた者たちだけの世界だ。みだりに見てはならない。まだ作家志望の書生でしかない栄田くんが、みだりに見ては。

「承知いたしました。失礼します」
 早口に述べて頭を下げ、階段へと向かう。直後に襖が開かれる音がして、油っぽい匂いが、粗野だがどこか憎めない歓声と共に溢れ出した。

 問題の部屋は、上り階段の下の狭隘なスペースから入れるようになっていた。
 扉を開くと、それが引き金となって室内照明が灯った。十畳ほどの全体的に白い一室だ。中央に長大な机が二列、入口から見て垂直方向に並べられている。入口の対面の壁際に、戸棚と流し台。流しの横のスペースには湯呑みが積み重ねられ、電気ポットが用意されている。
 入口から見て右手は、壁ではなく木製の戸になっている。その向こう側から漏れ聞こえてくるのは、歓声と嬌声。宴会場に通じているのだ。
 流し台へと歩み寄る。蛇口を捻ると当たり前に水が出て、当たり前に冷たい。湯呑みはどれも清潔だ。
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