なぜならこの世界は

阿波野治

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「若いの相手になにをやっとる。みっともない」
 突然の声に、栄田くんと赤鬼氏は共に振り向く。中背痩躯の三十歳くらいの男性が、部屋と宴会場の境界線の内側、すなわち宴会場の領域の最先端に佇んでいる。
 照明の光を浴びて金属的な輝きを放つスカイブルーの眼鏡のフレームを、男性は人差し指で押し上げる。レンズの奥の目尻は鋭いが、茶褐色の瞳からは精神的な落ち着きと年齢的な成熟が感じられる。

 不意を衝かれたことへの反射的な反応と、声の主を確認したい欲求とが相俟って、栄田くんは男性――青鬼氏の顔を視界の中央に置いた。しかし意識は、むしろ対象の周辺、すなわち宴会場の情景へと流れた。青鬼氏が邪魔になり、全容を把握するには遠く及ばないが、それでも注意を惹きつけられた。

 中央やや左の天井から、赤い帯によって全裸の女性が吊るされ、四・五人の男が取り囲んでいる。一人は、赤黒いような青黒いような色合いの、なにかどろどろしたものが少量入った皿と割り箸を両手に持っている。一人は、中身が空らしいビール瓶を片手に提げている。それ以外の人間は手ぶらだ。
 空間の右端、カーテンが引かれた窓に近い場所に置かれているのは、髪結い床にあるような重厚な椅子。その座面には、ひょっとこの面を後頭部に括りつけた、細身だが引き締まった体形の三十前後の男が、体ごと背もたれを向いて屈んでいる。

 戸が開かれてから遅れること十数秒、雑多な料理の匂いが混ざり合った匂いが栄田くんの鼻孔を刺激した。
 軽い嘔吐感と眩暈とに同時に襲われたが、症状は一瞬で治まり、我に返る。その後はなぜか青鬼氏にしか焦点を定められなくなった。

 青鬼氏は僅かに眉根を寄せて赤鬼氏を見た。赤鬼氏はにこやかに右手を挙げ、
「おう、土川先生。土川先生も議論しに来たのかい?」
「なにが議論だ。しゃべっているのはあんたばかりでしょうが。ふと気がついたら、若い子に絡んでいるあんたが見えたから、醜態を晒す前にと思って慌てて駆けつけたんだよ。他の者は見てのとおり、酔っぱらってどうしようもないから、仕方なしに」

 青鬼氏が肩越しに後方を一瞥した瞬間、栄田くんの視点の固定は解除された。宴会場の全容を把握しようという意欲はすでに消滅している。青鬼氏は顔を栄田くんへと振り向け、
「本岡先生、この若者は?」

「京山先生の書生さん。最近雇われたらしいよ。京山先生、choleraに対してかなり神経質だろう。だから、それについての議論をちょっとね」
「一方的にしゃべり散らして、議論もなにもなかろうに」
「だったら講釈と言い換えてくれてもいい。少なくとも、立場の弱さにつけ込んで絡むなんていう、じじむさい真似はしとらんよ。そうだよね、内田くん?」
「あ、はい。栄田、ですけど……」
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