なぜならこの世界は

阿波野治

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「あの、先生。わたくしになにか用でしょうか?」
「いや……」
 先生は後頭部を掻く。二人の視線が漸く重なった。

「君に用事があるのは確かだが、脱衣中に入ってきたのはよくなかったね。就寝する前に伝えなければと焦るあまり、こんな形になってしまったのだが」
「とんでもありません! わたくしは使用人なのだから、いつでもお好きなときに声をかけてください。気をつかう必要はありません」
「しかし、脱衣場の中はさすがにまずいね。君が入浴を終えてからにしよう」
「いえ、この場でお願いできますか。先生を待たせるわけにはいきませんから。あ、でも、上を一枚だけ着させてください」

 首肯が返ってきたので、大急ぎで肌着を身に着ける。先生の視線をひしひしと感じ、顔から火が出る思いをしながらの作業となる。「用事」のことで頭がいっぱいで、伝える相手につい注目してしまっているだけだ。そう頭では理解していても、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 もたつきながらも着衣を完了し、恥ずかしさを懸命に堪えながら先生に向き直る。先程までの先生がそうだったように、話し相手の目を見ることができない。無意識に、右腕をL字に曲げて胸を隠していることに気がつく。肌着の上にも着ればよかった、と思ったが、先生の前で隠しごとをするのは失礼だ。引力を感じながらも右手を下ろす。そろそろ深夜に足を踏み入れる時間帯の京山家を支配するのは、王の前に跪く千人の兵士のような静謐。

「君に伝えておきたいのは、小説のことだ」
 文字どおり一瞬にして、照れくささが吹き飛んだ。

「この一週間、君に小説のことはなに一つ教えなかったね。気が緩むといけないと思って方針は伝えていなかったが、一か月経って勤務態度に問題がないようなら、少しずつ教えていこうと考えていたんだよ。しかし、予定を少し早めて二週間後の夜から、小説執筆に関する講義を執り行おうと考えている。時間は、そうだな、君の仕事が終わってから入浴するまでの間としようか。どうだろう?」
「断る理由はありません。ですが、その……」
 喉が鳴らないように唾を飲み込む。

「本当に、よろしいのですか? 考えがあって、一か月後からと決められたのでしょう。わたくしとしては、教えてくださることを口頭で確約していただいただけでも充分です。ですから、無理に時期を早めなくても」
「それでは私の心が納得しないよ。君には迷惑をかけてしまったから、少しでも埋め合わせをしないと」
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