なぜならこの世界は

阿波野治

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「件くんが東伝くんのところに行っちゃうと、こうして気軽にごはんを食べに行けなくなるから、少し寂しいね。月一で食べに行っていた飲食店がつぶれちゃったくらい寂しいかも」
 トンカツを咀嚼しながら愚昧さんは呟く。口腔に食べ物が入っている事実に無頓着な口の動かし方。物憂そうだが、陽性で、品性が感じられる声。開閉の領域は最小限に抑制され、咀嚼されるトンカツが垣間見えることはないため、汚らしさは感じない。

「寂しいね。気軽に食事もできないっていうのは」
「でも確か、週に一回お休みをいただけるんでしたよね」
 対座する栄田くんは、対照的に口内の肉片をしっかりと嚥下してから言葉を返した。
 注文したのは二人とも、大盛のトンカツがメインの定食。痩せの大食いの愚昧さんは追加でチーズハムカツの単品を頼んでいるが、料理の減り具合は彼女の方が一歩早い。

 愚昧さんは本日も首元を飾る暗灰色のストールの上にこぼれた、トンカツとチーズハムカツ、どちら由来なのか判然としない衣の破片を左手で払い落し、
「そうそう。でも、厳密な意味での自由ではないからね。自由なんて言葉を使うと大げさだけど」
「夢を叶えるためですから、それくらい平気です。全く休みがないのであれば、気持ちもまた違っていたと思いますが」

 淡々と答えて、大きめのトンカツの切れ端を千切りキャベツもろとも口に入れる。直後、背後で椅子が倒れた音がした。
 子供連れの客なども大勢訪れていて、『紀尾井坂の虎』の店内は騒々しい。倒れた音はそう大きくなかったが、発生源は背後。驚きのあまりトンカツとキャベツを解き放ちそうになった口を反射的に左手で押さえ、栄田くんは振り向く。

 椅子を倒したのは、鼠色の襤褸をまとった、バタ臭い顔立ちの白髪の小男。栄田くんから視線を注がれたのを引き金に、両手を軽く広げて歌い始めた。英語でも中国語でも韓国語でもない外国語で、節目節目に巻き舌になるのが特徴的だ。
 お世辞にも上手いとはいえない。歌声の芯に毅然とした美麗さが宿っていて、発声した瞬間は美しいと確かに感じられるのだが、伸びやかさに欠け、空気を震わせる時間が募るにつれて音質が劣化していく。その速度が駆け足だから、聞いた瞬間の好もしい印象を聞き手はあっという間に忘却してしまう。
 それでも、身振り手振りをふんだんに交えながら、感情表現豊かに歌う姿を見ていると、第一印象とは別種の好印象が胸の底に滲む。栄田くんは歌声を堪能し、口の中を空にしたのを潮に顔を正面に戻した。
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