なぜならこの世界は

阿波野治

文字の大きさ
45 / 109

45

しおりを挟む
 台所で調理道具の置き場所について説明をしているさなか、先生はふと思い出したように懐から紙片を取り出し、
「食事作りだが、今日の夕食から君に担当してもらう。この紙にここ一週間の私の食事を書き留めてある。参考にして作ってくれ」
 差し出されるままに受け取る。二つ折りにされたその紙は、折り方が甘く、内側につづられた文字列の中に「蒲鉾」の二文字が確認できた。レシピまで記載されているのだろうか、と思いながら懐に仕舞う。つい先程まで先生の服の内側に収まっていたにもかかわらず、初春の早朝の外気のように冷たい。

 ガスコンロの使用法や食材の買い出しの頻度についてなど、こまごまとした説明が続く。無駄なく整理されているが、いささか整いすぎている嫌いがあり、言葉足らずだと感じることもある。また、次から次へと説明言葉が積み重ねられるため、覚えきれるか不安でもある。ただ、使われる単語や言い回しはおおむね呑み込みやすく、二つの懸念を一定程度薄める効果を発揮した。

「ここが君のメインの仕事場になる」
 玄関の突き当りで足を止め、事務机を指差しながら先生は告げる。
「君は基本的には、家事などをしているとき以外はここに座って、choleraが侵入してこないかを監視してくれ。いわゆる玄関番だ。喜多村シンセツ、といったかな。彼が書いた『嬉遊笑覧』という書物には、玄関とは幽玄なる世界に通じる関門である、という説明がされている。その関門を君に守ってほしい、というわけだ。客が来たときや電話がかかってきたときは、普通に対応してくれていい。普通といってももちろん、choleraには細心の注意を払って、ということだよ。私が君を雇った意味を片時も忘れずに仕事に励んでくれ」

「あの……。一つ、お尋ねしたいのですが」
「言ってみなさい」
「choleraとはなんなのでしょうか。恥ずかしながら、それがどういうものなのかがさっぱり分からないのですが」
「どう説明すればいいのかな。君には先入観を持ってもらいたくないのだが、強いて言語化するならば、変幻自在と表現するべきなのかな。名状しがたい、説明するのが難しい存在なのは確かだね」
「あの、申し訳ありません。理解力がないせいで、具体的なイメージが掴めないのですが……。choleraというのは、特殊な力を持った人物なのですか? それとも、物の怪の類?」
「定義できないのがcholeraの特質だから、無理もない。判別方法としては、遭遇した瞬間にcholeraだと分かる。なにかが普通ではないと感じる。choleraとはそういう存在なのだよ。余計に混乱させてしまったかな?」

 少し迷ったが、栄田くんは首を縦に振った。
 文筆業に従事している先生の説明が要領を得なかったと意見するのは、勇気を要した。それでも栄田くんが首肯したのは、説明する先生自身からも自信のなさがうかがえたからに他ならない。
 家と仕事に関する説明が分かりやすかった先生ですらこうなのだから、choleraなるものは正真正銘名状しがたい存在なのだろう。

 そのような存在の家宅への接近を、あるいは侵入を、そして侵攻を、どう察知し、どう食い止め、どう跳ねのければいいのだろう? 分からないことだらけだったが、
「私は書斎で仕事をするから、君もがんばってくれ」
 先生は素っ気なく書生に背を向け、廊下を遠ざかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

見上げた空は、今日もアオハルなり

木立 花音
青春
 ──私の想いは届かない。私には、気持ちを伝えるための”声”がないから。  幼馴染だった三人の少年少女。広瀬慎吾(ひろせしんご)。渡辺美也(わたなべみや)。阿久津斗哉(あくつとおや)。そして、重度の聴覚障害を抱え他人と上手くうち解けられない少女、桐原悠里(きりはらゆうり)。  四人の恋心が激しく交錯するなか、文化祭の出し物として決まったのは、演劇ロミオとジュリエット。  ところが、文化祭の準備が滞りなく進んでいたある日。突然、ジュリエット役の桐原悠里が学校を休んでしまう。それは、言葉を発しない彼女が出した、初めてのSOSだった。閉ざされた悠里の心の扉をひらくため、今、三人が立ち上がる!  これは──時にはぶつかり時には涙しながらも、卒業までを駆け抜けた四人の青春群像劇。 ※バレンタイン・デイ(ズ)の姉妹作品です。相互にネタバレ要素を含むので、了承願います。 ※表紙画像は、ミカスケ様にリクエストして描いて頂いたフリーイラスト。イメージは、主人公の一人悠里です。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

神楽坂gimmick

涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。 侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり…… 若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

処理中です...