なぜならこの世界は

阿波野治

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 先生を書斎まで呼びに行き、すぐさま食堂に戻って皿を並べる。三分ほどで先生は姿を見せ、食卓に着いた。ごはんを装おうとすると、「少なめで構わない」と声がかかったので、指示に従う。
 熱い緑茶の準備をしながら、雇い主の様子をさり気なくうかがう。先生は味噌汁を無音ですすり、白菜をつまみ、卵焼きを小さくカットして口に運び、白米を頬張る。箸づかいは淡々としていて、がっつくというふうではない。

 おかずを二品作ったことにクレームをつけず、二品ともちゃんと食べてくれていることに安堵しながら、栄田くんは湯呑みを卓上に置く。すると、先生は卵焼きを掴もうとしていた箸を引っ込めて顔を上げ、
「悪いが私の食事中も仕事を続けてくれ。食べ終わり次第食堂を出るから、そうしたら君の番だ。昼間にも言ったとおり、夕食後は私が入浴を終えるまで仕事をしてもらう。頼んだよ」
「承知いたしました」と答えて速やかに退堂する。先生と食事を共にする期待がないわけではなかったが、高望みだという自覚があったため、落胆の気持ちは全くない。

 先生は半時間足らずで食堂から出てきた。書生にひと声かけることなく、書斎へと帰っていく。
 栄田くんは襖が閉まったのを見届けて椅子から立つ。食器類は全て流し台に移動していて、少し申し訳ない気持ちになる。

 食事は先生と同じものを食べた。座っている時間が長かったとはいえ、おかずの量は少々寂しい。肉類が使われていないのも不満だ。しかし、白米を少し多めに茶碗に装うだけの逸脱に留め、質素な一膳を黙々と食する。
 書生の身で贅沢は慎むべきだ。今日は殆どの時間座っていたのだから、物足りなく感じても適量のはずだ。食料を調達しようと思えば自由に調達できた今までが恵まれすぎていた。
 これでいい。優先させるべきは先生なのだから。





 入浴後に先生への挨拶を済ませ、何時間かぶりに自室に戻ってきた。
 紐を引っ張って明かりを点ける。畳まれた布団に視線を吸引され、やっぱり疲れているんだな、と同情するでも突き放すでもなく思う。そのせいか、入浴時間も普段よりもかなり長かった。洗い場から出て現在時刻を確認すると、一時間近くも浸かっていたと分かり、入浴を終えたばかりにもかかわらず冷たい汗が噴き出した。

 ただ先生は、栄田くんが就寝に先立って書斎まで挨拶に行ったさいに苦言は呈さなかった。長風呂が栄田件の習慣ならばそれを尊重するべき、と考えたのか。それとも、初日だからこその特例的な措置なのか。
 どちらにせよ、明日はもっと早く出よう。心の中でそう自分に言い聞かせながら、自室の襖を後ろ手に閉める。

 さあ日記、日記と、風呂敷の中からノートとペンを取り出す。気分を一新するべく真新しいノートを持参したのだが、心は高ぶりからは遠い。仕事から解放され、さらには一人きりになったことで気が緩み、疲労感がどっと湧いたのだ。
 この調子では、とてもではないがままならなりそうにない。習作の執筆も。長編小説の構想を練ることも。息抜きである読書でさえも。
 せっかくお気に入りの先生の著作を持参したのにもったいないと思いながらも、日記を書きつづる。筆記用具を風呂敷に仕舞い、卓袱台ごと部屋の隅に寄せ、布団を敷く。寝間着に着替え、消灯する。

 今日という一日を反芻し、反省する時間を設けたい気持ちもあったが、原初の闇めいた暗黒の中に横たわったことで、眠気は思いのほか強いと知った。
 抗うつもりは毛頭ない。瞼を閉ざして生理現象に身を委ねた。
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