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「『クル屋』という旅館で開かれる、新進作家倶楽部主催の宴会に出席するから、栄田には留守番を頼みたい。今日の午後五時半にこの家を出発し、十時過ぎに戻ってくる予定だ。夕食が出るから、君は一人で食べておいてくれ」
昼食の配膳をしているさなかに先生がそう告げた。
告げられたのが突然だったのにも驚いたが、先生が参加するイベントにも驚いたし、指示の内容にも驚いた。
牛蒡のきんぴらの皿を卓上に置く。仕上げに白炒り胡麻を振るという、ささやかな工夫を凝らした一品。先生が食べるところをこの目で見て自己満足に浸りたかったのだが、それどころではなくなった。
「五日間君に仕事をしてもらって、留守を任せても差し支えないと判断したから頼むことにしたんだ。引き受けてくれるか?」
「はい、もちろん。わたくしはなんの問題もありません。ただ……」
「ただ?」
「先生は大丈夫なのですか? 夜道を一人で歩いているところをcholeraに襲われたら……」
「問題はないよ。絶対ではないかもしれないが、問題はない。choleraは基本的に私の在宅時に訪れるから、心配は無用だ」
choleraは変幻自在の存在なのに、決めつけてしまってもいいのだろうか? そう言い切れる根拠は?
納得がいかなかったが、京山家に来てからcholeraの存在を知った栄田くんよりも、確実にcholeraに詳しい先生が断言しているのだ。承知いたしました、と再び頭を下げ、食堂から出て行く。
昼過ぎから降り始めた小雨がやまない中、出発の時間を迎えた。
蝙蝠傘を手に玄関扉を潜る先生を、栄田くんは事務机に着いて見守る。玄関先まで出るつもりでいたのだが、先生が「そのままでいい」と命じたのだ。
扉が閉まり、外から施錠される。遠ざかる足音は早々に雨音に紛れた。
事務机の上の置き時計の針が刻む音。雨粒の落下音。二種類の音のみが、栄田くんが身を置く世界では聞こえている。
一人きりだと自覚して真っ先に意識したのは、孤独だ、ということ。
京山家で働き始めて以来、栄田くんは常に京山家の中で過ごし、先生は常に在宅だった。先生は殆どの時間書斎にこもっていたが、その存在を感じるだけで一人ではないと思えた。厠や自室や風呂場など、自らの意思で密室にいる場合でも、感じ方に大きな変化はなかった。執筆や読書など、創作に関する作業に励んでいる間は目の前のことしか考えないので、孤独について思いを巡らせる機会はそもそも訪れない。長屋で一人暮らしをしていた時代も、友人の総数こそ少なかったが、助けを呼べば直ちに駆けつけてくれた。孤独という状況・状態を経験すること自体が稀だった。
昼食の配膳をしているさなかに先生がそう告げた。
告げられたのが突然だったのにも驚いたが、先生が参加するイベントにも驚いたし、指示の内容にも驚いた。
牛蒡のきんぴらの皿を卓上に置く。仕上げに白炒り胡麻を振るという、ささやかな工夫を凝らした一品。先生が食べるところをこの目で見て自己満足に浸りたかったのだが、それどころではなくなった。
「五日間君に仕事をしてもらって、留守を任せても差し支えないと判断したから頼むことにしたんだ。引き受けてくれるか?」
「はい、もちろん。わたくしはなんの問題もありません。ただ……」
「ただ?」
「先生は大丈夫なのですか? 夜道を一人で歩いているところをcholeraに襲われたら……」
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choleraは変幻自在の存在なのに、決めつけてしまってもいいのだろうか? そう言い切れる根拠は?
納得がいかなかったが、京山家に来てからcholeraの存在を知った栄田くんよりも、確実にcholeraに詳しい先生が断言しているのだ。承知いたしました、と再び頭を下げ、食堂から出て行く。
昼過ぎから降り始めた小雨がやまない中、出発の時間を迎えた。
蝙蝠傘を手に玄関扉を潜る先生を、栄田くんは事務机に着いて見守る。玄関先まで出るつもりでいたのだが、先生が「そのままでいい」と命じたのだ。
扉が閉まり、外から施錠される。遠ざかる足音は早々に雨音に紛れた。
事務机の上の置き時計の針が刻む音。雨粒の落下音。二種類の音のみが、栄田くんが身を置く世界では聞こえている。
一人きりだと自覚して真っ先に意識したのは、孤独だ、ということ。
京山家で働き始めて以来、栄田くんは常に京山家の中で過ごし、先生は常に在宅だった。先生は殆どの時間書斎にこもっていたが、その存在を感じるだけで一人ではないと思えた。厠や自室や風呂場など、自らの意思で密室にいる場合でも、感じ方に大きな変化はなかった。執筆や読書など、創作に関する作業に励んでいる間は目の前のことしか考えないので、孤独について思いを巡らせる機会はそもそも訪れない。長屋で一人暮らしをしていた時代も、友人の総数こそ少なかったが、助けを呼べば直ちに駆けつけてくれた。孤独という状況・状態を経験すること自体が稀だった。
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